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白樺教育館 教育館だより 目次

 
 
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127. 「公共」をめぐる哲学の活躍
     ‐‐ これですべてがわかる!!

 2005年6月の金泰昌(キムテチャン)氏と武田康弘との出会い以来、このホームページで『公共』にまつわる記事をいくつも取り上げてきました(この記事の一番下に関連記事リストがあります)
 『公共』に関する議論は過去の記事を見ればおわかりのように、教育館、『公共的良識人』紙、ネット上、東京新聞日経新聞、大阪経済法科大学主催の市民アカデミア、参議院と、広範な場に広がり、直接かかわりのある方は別にして、その経緯および内容についてよくわからないと感じられる方が増えてきました。5年以上にわたって濃密な議論がアチコチでされてきましたので致し方ないこと、と思います。
 そこで区切りのついたところで、これまでの経緯を振り返り、論点を整理し、『「公共」をめぐる哲学の活躍』と題して武田がまとめてみることにしました。
 ちなみに区切りとは、『公共』論争にひとまず決着がついたということと、参議院での武田康弘の客員調査員のお勤めも9月をもって終了しましたので、まとめるにはとても良い時期だということです。

 まとめの内容は、公共‐民主制‐教育の本質について触れた、現代社会に生きる私たち市民にとって極めて重要なものです。じっくり味わっていただきたいと思います。
 いつもの通り、異論・反論大歓迎、です。

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「公共」をめぐる哲学の活躍

武田康弘 

目  次

  1. 公共をめぐる哲学の論争
  2. 2008年1月のパネル「公共哲学と公務員倫理」
  3. キャリアシステムに関する意見調査ーー「歪んだ想念」
  4. 客員調査員(哲学講師)となり、「主観性の知」を育成する講義を行う。 日経新聞による紹介
  5. 行政監視委員長による報告書と民主主義の原理
  6. 1992年の我孫子でのパネル「ふつうの復権」
    ‐ 新たな哲学の土台づくり
  7. 2010年6月のパネル「『新しい公共』について考える」


登場人物(早い順・敬称略)

  • 山脇 直司  東京大学大学院総合文化研究科教授(公共哲学 社会思想)
  • 金泰昌   公共哲学共働研究所長(韓国,日本,中国,米国,英国,カナダ等の大学で教鞭)
  • 荒井達夫  参議院行政監視委員会調査室・首席調査員
  • 佐々木毅  学習院大学教授 第27代東京大学総長 法学博士
  • 稲垣久和  東京キリスト教大学教授(公共哲学 宗教論)
  • 古林 治   白樺教育館・副館長
  • 竹田青嗣  早稲田大学教授 哲学者
  • 和歌山章彦 日本経済新聞記者
  • 山下栄一  参議院議員・行政監視委員長(当時)
    西澤利夫    行政監視委員会調査室長(当時)
  • 福嶋浩彦  消費者庁長官 元・我孫子市長
  • 佐野 力   日本オラクル(株)初代社長
  • 郷原信郎  総務省コンプライアンス室長 元・検察官
  • 武田康弘  白樺教育館長 白樺文学館初代館長 哲学者

↑目次

1. 公共をめぐる哲学の論争

タケセン_小6
小学6年時の武田

 わたしは、小学生(文京区立誠之小学校)の時に「政治クラブ」で活動しましたが、それ以来「公共」とはずいぶん長い付き合いです。わたしは、その時以来ずっと、公共とは民主主義の下での公共でなければならないと確信してきましたが、ある偶然で3年程前から「公共哲学論争」の中心者として発言することになりました。
(※政治クラブは、各々が事実と意見を述べ、 皆で議論する活動で、先生は脇役。内実は哲学クラブでした。)

 その理由は、以下のような経緯によります。

金さん
2005年6月 白樺教育館にて
武田康弘と金泰昌

 わたしは、2005年6月に山脇直司東京大学教授の紹介で、日本・韓国・中国における「公共哲学」の最大の推進者である金泰昌(キムテチャン)氏と知り合い、その後頻繁に交流を重ねましたが、2007年5月からは金氏の申し出により「哲学往復書簡」(「楽学」と「恋知」の哲学対話)を始めました。
 その30回に及ぶ哲学対話は、『公共的良識人』紙(京都フォーラム)の2007年7月・8月・12月号に掲載されましたが、最後の数回の「公共」を巡る白熱した議論は、金氏が人事院主催の国家公務員課長級研修の講師を務めていたこともあり、参議院総務委員会調査室・次席調査員(当時)荒井達夫氏の注目するところとなったのです。それが、2008年1月の『公共哲学と公務員倫理』と題するパネルディスカッション(参議院調査室主催)への導火線でした。
 金泰昌氏と佐々木毅氏を責任者とするシリーズ『公共哲学』全20巻(東京大学出版会)は、その基本編集方針にある通り、官の担う「公」と市民の担う「公共」を分けて考えるべきことを主張していましたが、わたしは、それは民主制社会においては不成立であることを述べ、その主張の根拠を批判したのです。この論争は、民主主義の原理次元の話であるために、重大な思想問題に発展し、わたしの考えを発信しているブログ『思索の日記』には注目が集まり、東京大学を中心に「公共哲学」を進める山脇直司氏とは、ブログ上で数知れずの論争になりました。


2006年9月9日〈白樺討論会〉
山脇直司氏・荒井達夫氏

 また、同時に『白樺教育館』での長時間に及ぶ討論も行われました。『白樺教育館』には、金泰昌氏が4回、山脇直司氏が2回、稲垣久和氏が1回訪れ、対話、討論を行いましたが、すべて半日をかけた長時間のやりとりでした。対論の相手は、わたしの他、古林治氏、荒井達夫氏でしたが、討論に参加した我孫子の白樺同人からも多くの発言がありました。

ともに公共する哲学
『ともに公共哲学する』

 そうした背景があって、金氏とわたしとの「哲学往復書簡」での「公共」を巡る論争は、参議院における「公共」への注目を生んだと言えるでしょう。なお、この2007年に行われた「『楽学』と『恋知』の哲学往復書簡・30回」は、今年2010年8月に東京大学出版会から刊行されました。金泰昌編著の『ともに公共哲学する』のメインとして当時のまま収録されています。

↑目次


2. 2008年1月のパネル「公共哲学と公務員倫理」

 それでは、2008年1月22日に行われたパネルディスカッションに始まる『公共』を巡る議論を歴史的に振り返り、その意味と意義を判然とさせていきましょう。

 パネラーは、金泰昌氏とわたし武田康弘のほか山脇直司氏と荒井達夫氏の4名でした。ここでの討論の模様は全てテープ起こしされ、2008年の2月の『立法と調査』別冊―パネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」〜民主制国家における公務員の本質〜として刊行されました。参議院ホームページでも見ることができます。

荒井氏および武田金氏、山脇氏
左から荒井氏、武田、金氏、山脇氏

  この討論会では、立場や思想は四者四様でしたが、公共哲学運動を共にすすめる金氏と山脇氏は、官僚が担う「公」と市民が担う「公共」は分けて考えなければならないと主張し、武田は、主権者の意思と税金でつくられる「官」は、本来は市民的公共(ないし公)を実現するためにのみ存在する機関でしかなく、官は公であり市民的公共とは別のものとする「公共哲学」の主張は、民主制国家では不成立であると述べました。また、「国民全体の利益と国家の利益は異なることもある」、という金氏の国家観から出る主権概念の違いも鮮明となり、「戦後の天皇主権から国民主権への転換は極めて重たいもの」とする武田の思想と厳しく対立しました。荒井氏は、主権を天皇に絡ませた金氏の解釈に大きな違和をもち、武田の意見に賛同を表明し、議論は平行線で結論を得るには至りませんでした。

 荒井氏は、この討論会を開催した理由を2008年4月発行の『立法と調査』279号で、以下のように書いています。

立法と調査

 「私は、公共哲学が公務の世界で注目されていく中で漠然とした不安を感じていた。それは、「学問としての公共哲学」において通説的見解とされている、いわゆる「公・私・公共三元論」が、憲法の民主制原理・国民主権原理に反するのではないか、と感じられたからである。
 公共哲学を公務部門に導入するに当たっては、民主制原理・国民主権原理との整合性は絶対条件であり、この点に関しては、わずかな疑念も許されないところである。ところが、「公・私・公共三元論」に対する疑念は膨らむばかりだったのである。特に『公共的良識人』(京都フォーラム)における金泰昌氏と武田康弘氏との連続対談において、これは明白なものとなった。『公共的良識人』は、佐々木毅・金泰昌他編『公共哲学』全20巻(東京大学出版会)刊行の元になった権威のある学術誌である。また、金泰昌氏は「学問としての公共哲学」の最高権威、武田康弘氏は「民間人の民主主義哲学者」であり、この二人の議論は学術的にも社会的にも極めて重要な意味をもっている。連続対談において両者は、「公・私・公共」と国民主権の理解をめぐって鋭く対立したのである。
 問題は、「全体の奉仕者」である公務員にとって生命線とも言うべき民主制原理・国民主権原理の関係で生じているのであり、現段階における議論を整理しておくことは、公務員の在り方や倫理を考える上で必要不可欠と思われた。そこで金泰昌氏と武田康弘氏を含め、公共哲学の第一人者が参加するパネルディスカッションの開催を提案することにした。公共哲学が公務員の在り方や倫理にどのように関係し貢献できるのか、を議論すれば、同時に「公・私・公共三元論」と民主制原理・国民主権原理の関係も整理できるのではないか、と考えたのである。このようなテーマのパネルディスカッションは、良識の府である参議院の調査機関が担当するにふさわしい事務であると思われた。」(P.55)

 また、荒井氏は、後段でわたしの思想を紹介し、それを次のように評しました。
「武田思想は、基本的人権の尊重、特に思想・良心の自由の保障を核心とし、国民主権、平和主義を柱とする日本国憲法を支える民主主義哲学であり、近代市民社会における公共哲学の原理となり得ると思われる。」(P.57)

武田康弘キム・テチャン
激しく議論する武田と金氏

 このパネルディスカッションでは、続発する公務員の種々の不祥事を受けて、もう一つのメインとして「公務員倫理」の問題が議論されましたが、そこでわたしは、倫理を考えるための哲学的基盤は、己の存在が何であるかという存在意識の明晰さである、と言いました。公務員とは何か、という存在規定が明晰にならないと、倫理について語ることは始まらないのです。しかし、ここでも金氏及び山脇氏は、「そうではなく、倫理は自己と他者との関係だ」として武田と対立しました。
 これは、金氏や山脇氏のみならず、一般に大学人に多いのですが、思想をイデオロギー(表層)とし捉え、原理(哲学)次元にまで降ろさないところからくる見かけ上の対立なのです。ほんとうは、わたしの言う倫理成立の哲学的な原理(己の存在意識の明晰さ)という土台の上に、自己と他者との関係性の問題も考察されなくてはならないのです。
 公務員とは何か、という存在規定は、日本国憲法第15条及び国家公務員法第96条にある通り、戦前の「天皇の官吏」ではありませんので、主権者である国民全体への公平・公正な奉仕者=サービスマンです。自分たち官僚や、政治家や財界人などの有力者を特別扱いにすることは、絶対にあってはならぬことです。
 ところが、官僚主義と呼ばれる反・民主的な思想と制度により、「公務員倫理」は土台から揺らいでいます。官が治めるという「官治主義」が、公務員とは何かという存在規定を曖昧にし、倫理成立の大元を奪っているのです。この官治主義は、「キャリアシステム」と呼ばれる国家公務員独自の前近代的で非民主的な人事慣行(採用時1回限りの試験で幹部要員の選抜をしてしまう)を土台にして成立していますので、公務員の反・倫理を正すためには、キャリアシステムの廃止が必要条件となります。これは、倫理問題への議論から自ずと導かれる帰結です。

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3. キャリアシステムに関する意見調査ーー「歪んだ想念」

 ちょうど、この年、2008年の6月6日にキャリアシステムの廃止を目的とする国家公務員制度改革基本法が、第169回国会において成立しました。

立法と調査

 そこで、荒井達夫氏は「キャリアシステム」について各界の人の意見を集約する必要を感じ、参議院行政監視委員会調査室・内閣委員会調査室・総務委員会調査室の合同で、「国家公務員制度改革とキャリアシステム」に関する意見調査を実施することになりました。わたしも意見を求められましたが、これは、実に幅広い層からの意見集約で、そのメンバーは以下の通りです。意見論文は、2008年11月の『立法と調査』別冊に発表され、参議院のホームページでも見ることができます。

有識者の意見(あいうえお順)

  • 青木 信明 (エムケイ株式会社代表取締役社長)
  • 天木 直人 (元レバノン大使、外交評論家)
  • 飯尾 潤   (政策研究大学院大学教授)
  • 伊藤 真   (伊藤塾塾長、法学館憲法研究所・法学館法律事務所所長弁護士)
  • 稲継 裕昭 (早稲田大学政治経済学術院教授)
  • 大山 泰弘 (日本理化学工業株式会社会長)
  • 岡野 雅行 (岡野工業株式会社代表社員)
  • 尾木 直樹 (教育評論家、法政大学教授)
  • 落合 博実 (ジャーナリスト、元朝日新聞編集委員)
  • 川本 裕子 (早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授)
  • 木川 眞   (ヤマト運輸株式会社代表取締役社長)
  • 金 泰明   (大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター教授)
  • 近藤 恒雄 (株式会社第一測量設計コンサルタント代表取締役会長)
  • 堺屋 太一 (作家)
  • 澤田 秀雄 (株式会社エイチ・アイ・エス取締役会長)
  • 嶋ア 政男 (東京都立川市立立川第一中学校校長)
  • 新藤 宗幸 (千葉大学法経学部長・教授)
  • 鈴木 敏文 (セブンアンドアイ・ホールディングス代表取締役会長兼CEO)
  • 高橋 洋一 (東洋大学教授)
  • 竹田 青嗣 (早稲田大学教授、哲学者)
  • 武田 康弘 (哲学者、白樺教育館館長、我孫子市白樺文学館初代館長)
  • 田中 秀征 (福山大学客員教授)
  • 谷 尚    (公立八鹿病院名誉院長)
  • 土肥 信雄 (東京都立三鷹高等学校長)
  • 永井 隆   (ジャーナリスト)
  • 中島 忠能 (元人事院総裁)
  • 西村 美香 (成蹊大学法学部教授)
  • 野村 吉太郎(赤坂野村総合法律事務所弁護士)
  • 平山 祐次 (財団法人佐世保地域文化事業財団理事長、元長崎県立大学学長)
  • 福嶋 浩彦 (中央学院大学客員教授、前我孫子市長)
  • 藤沢 久美 (シンクタンク・ソフィアバンク副代表)
  • 堀田 力   (財団法人さわやか福祉財団理事長、弁護士)
  • 堀場 雅夫 (株式会社堀場製作所最高顧問)
  • 前田 正子 (財団法人横浜市国際交流協会理事長、前横浜市副市長)
  • 三木 由希子(特定非営利活動法人情報公開クリアリングハウス理事)
  • 山口 広   (弁護士、日弁連消費者問題対策委員会委員)
  • 山口 美智子(薬害肝炎訴訟全国原告団代表)
  • 山根 香織 (主婦連合会会長)
  • 山脇 直司 (東京大学大学院総合文化研究科教授)
  • 若杉 敬明 (東京大学名誉教授、東京経済大学教授)

    以上40名
―――――――――――――――――――――――――――――

 結果は、1、2の例外を除き「キャリアシステム」には反対である、というもので、しかも厳しい意見が多数を占めたのでした。

 わたしの論文は、なぜ多くの人がこの暗黙の制度の不合理性を指摘し続けてきたにも関わらず、120年もの間存続してきたのか、を解き明かそうとしたものです。『キャリアシステムを支えている歪んだ想念』と題して、日本人の意味論や本質論抜きの知のありようを「東大病」と呼び、そこに不合理なシステムを存続させてきた深因があると指摘しましたが、以下に一部を抜粋します。

 「封建制の武家社会と符号した「型の文化」は、明治に輸入された近代ヨーロッパ出自の「客観学」と織り合わされて日本的な様式主義・権威主義・序列主義を生みました。
 山県有朋らが明治半ば(1880 年代後半)に固めた天皇神格化による政治は、主観の対立が起こる前に主観そのものを消去する様式道徳を植えつけることによって可能になったのです。近代天皇制とそれを支える東大法学部卒の官僚支配の社会は、型の文化と客観学の融合がつくり出した「個人を幸福にしない世界に冠たるシステム」だと言えるでしょう。
 豊かな主観性を鍛え育てる古代ギリシャ出自の恋知(哲学)や古代インド出自の討論は無視され、主観性とは悪であるかのような想念が広まったのです。曰く「君の意見は主観である」(笑止です−主観でない意見とは意見ではありませんから)。したがって日本の勉強や学問とは、パターンを身につけ、権威者(出題者)に従い、人の言ったことを整理して覚えることでしかありません。決められている「正解」に早く到達する技術を磨くこと、エロースのない苦行に耐えることが勉強だ、というわけです。
 これで主観性−主体性が育ったら奇跡です。自分の意見を言ってはならない、これはわが国の基本道徳です。主観とは悪だ、という恐ろしい国で自説を主張する人は、数えられるくらいしかいません。日々の具体的経験から自分(主観)の考えをつくり、情報知や東西の古典に寄りかからないで話すことのできる学者が日本に何人いるでしょうか。自分から始まる考えと生=主観性のエロースを育成することが抑圧され、集団同調の圧力が日本ほどひどい国は、一部の独裁国家を除いてはありません。個人の思いは「考え」として表出されること自体が悪とみなされるのです。和を乱すな!です。客観学に支配され、まっとうな知(官知ではなく民知)が育つ土壌がないのですから、型はまりの紋切り人、先輩の言を守るイエスマン、古典を引用するだけの暗記マンしか出ないのは当然です。
 このように同じ土俵で右派と左派が対立しているだけという不毛性から脱却するための基本条件は、客観とは背理であることの明晰な自覚に基づいて、主観を鍛え、深め、豊かにしていくことです。皆が納得する普遍了解的な言説は、魅力的な主観からしか生まれないはずです。のびのびと楽しく主観性を表出することができる環境をつくること、それが日本社会をよく変えていくための第一条件です。エロース豊かな魅力ある個人の育成なくしては何事も始まりませんから。」(P.51)

 「・・・明治の国権派であった山県有朋らは、自由民権運動を徹底的に弾圧し、天皇神格化による政治を進めましたが、「主権者=天皇」の官吏として東大法学部の出身者を中心につくられた官僚制度は、客観学の集積によってふつうの人々の「主観性の知」を無価値なものとする歪んだエリート意識に依拠しています。その意味で、天皇教による近代天皇制と、キャリアシステムに象徴される官僚主義と、受験知がつくる東大病は三者一体のものですが、人間の生のよろこびを奪うこの序列・様式主義は、明治の国権派が生んだ鬼子と言えます。
 現代の市民社会に生きるわたしたちに与えられた課題は、民主主義の原理に基づいて国を再構築するために、いまだに清算が済んでいないこのシステムを支える想念を廃棄していく具体的努力です。客観学の知による支配を打ち破ることは、そのための最深の営みなのです。」(P.50)

 また、客観学と主観性の知については、次のように説明しました。

 「読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。
 従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます。」(P.51)

↑目次

4. 客員調査員(哲学講師)となり、「主観性の知」を育成する講義を行う。
  日経新聞による紹介

  この意見調査の1年後の2009年10月より、わたしと竹田青嗣氏(早稲田大学教授・哲学者)は、参議院行政監視委員会の客員調査員(非常勤の国家公務員)に任命され、哲学の講義(日本国憲法の依拠する民主主義の哲学思想)を行うことになりました。契約は半年でしたが、延長されて今年2010年の9月までとなりました。大学などの組織に所属しない純然たる民間の個人、しかも哲学者が客員調査員に任命されたことは過去に例がなく、初めてとのことでした。

 プラトンによるソクラテスの対話編『パイドロス』後半にある哲学と哲学者の定義からはじめたわたしの講義は、従来の「知識伝授型」のものとは全く異なり、参加者一人ひとりの「主観性の知」を育むものですので、はじめの3〜4カ月間程は、参加者の皆さんは何をどう学んだらよいかが分からず、ひどく戸惑い、焦燥感を募らせ、顔には疲労の色がありありという様子でした。しかし、その後、『白樺教育館』の大学クラス(高校生・大学生・一般人)に通う高校生の哲学ディスカッションの模様を紹介し、彼らの書いたものを示すようにしたところ、参加者は「自分で考える」ことが徐々に出来るようになり、一人の女性職員の方からは、「ほんとうに嬉しい時間でした」という感想をいただきました。半数以上の方はその面白さが分かり、自らの言葉で生き生きと語るように変わりました。事実学や既存の権威知ではなく、一人ひとりの主観性の知を鍛えること=「哲学的な思考」が現実を支え・動かすのだということが実感として分かると、頭は活性化し、知は命を持ち、人間の現実を前進させるのですが、それが次第に参加者のものとなっていきました。哲学は、人間を真に主体者とするのです。

日経新聞
2009年11月22日(日)、日経新聞
「街の哲学 人を動かす」

 話は少し変わりますが、ちょうど講義がはじまった10月に、以前から『白樺教育館』における教育のありように注目していた日本経済新聞の記者がわたしの話を聞きに三度来館し、「愉しい哲学の会」と「大学クラス」にも体験入学しました。 記者も本(ルソーの「社会契約論+ジュネーブ草稿」)を用意して熱心に授業に参加しましたが、その模様を含めて11月22日の日経に【社会人】第58話−この手で導く−「街の哲学 人を動かす」と題する記事が載りました。
 わたしの33年間の教育と哲学の実践を紹介する記事でしたが、その最後の部分に、参議院での講義についても触れています。

 「・・・33年間、市井の哲学者として地域に根差し、市民との対話に徹してきたタケセン(武田康弘)が今年10月、請われて非常勤の国家公務員となった。参議院行政監視委員会の客員調査員に任命され、国会に所属する官僚に哲学の講義を始めたのだ。行政監視委員会は、キャリア官僚の不祥事などを契機に発足した参議院独自の常任員会。依頼された講義内容は、「日本国憲法の哲学的土台を明らかにする」。参議院行政監視委員会調査室の首席調査員、荒井達夫は、「公務員倫理やキャリアシステムの問題の本質を『武田哲学』の視点で明らかにしてほしい」と期待する。・・・公共哲学をめぐり官僚とタケセンの対話がはじまった。」(2009.11.22日本経済新聞)記者は、和歌山章彦氏。

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5. 行政監視委員長による報告書と民主主義の原理

 この直後の12月には、『行政監視と視察』(山下栄一行政監視委員長による視察報告書・147ページ)が出され、参議院議長に提出されました。
 この視察報告書は、視察した数の多さに圧倒されますが、その内容も深く踏み込んだもので、感心します。1年1カ月の間に、宮内庁、防衛省、外務省、財務省、東京税関、日本銀行、警察庁など32か所の視察を行い、明晰なレポートを一冊の本にしたものです。

行政監視と視察
2009年10月14日
山下行政監視委員長(左)と会談する二人の客員調査員(右の二人、武田と竹田青嗣氏)、奥は 西澤利夫 行政監視委員会調査室長

 その5−6ページには、「行政監視は『官=公=国家』を打破する活動」という見出しで、行政監視の本質が書かれていますが、そこにはわたしの言葉が紹介されています。

 「なお、「官」と「公」の関係については、現在、行政監視委員会調査室の客員調査員を務める哲学者の武田康弘氏(我孫子市白樺文学館初代館長)が、次のように述べている。

 「公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた『官』は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた『官』は、それ独自が目ざす世界〈公〉を持ってはならず、市民的公共を実現するためにのみ存在する。これが原理です」

 これは、日本国憲法が依拠する民主主義思想の哲学的根拠を明らかにする極めて重要な指摘であり、行政運営及び行政監視の思想的土台となるとおもわれる。」(P.6)

 わたしは、この自明であるはずの原理が、現実政治の場で明晰に意識され踏まえられてこなかったところに、現代日本社会の混乱と不幸の原因があると見ています。

 例えば、政治家の中には「国家のために」という言い方をする人がいますが、これは、明らかに間違いです。国家とは、民主主義の下では主権者である市民の「一般意思」がつくる機構であり、それとは異なる「国家」(state)なるものは存在しないのですから、「国民のために」という言辞は成立しますが、「国家のために」は成立しないのです。政治家は「一般意思を実現するために」働くのです。
 また、戦前の天皇を中心とした国家主義(=国体思想)とは無縁と思われる現代の行政官僚も、同じく国家主義の想念に囚われて「上から目線」で国民を見ているのには驚きますが、「市民的公共」とは別に「公=国家」があるという歪んだ思想から抜けられないのは、彼らのもつ「エリート」意識ゆえでしょう。受験知の勝者は頭がいい!特別だ!と思う愚かな想念を助長するのが「キャリアシステム」ですが、それゆえに上記の民主主義の原理を自分のものとすることができないのです。
 近代民主主義国家とは、一般福祉(広義の福祉)を実現する目的で、主権者の意思によりつくられるものですから、政府や官は、市民の共通利益実現のためにのみ存在する機関です。市民的公共以外の公(おおやけ)または公共とは、空語・虚妄でしかなく、「市民的公共」とは異なる「国家の公」は存在しないのです。 国家とは、わたしたち市民の意思と税金でつくる機構であり、政治家や官僚は市民が雇う代行者に過ぎません。

 結論を言えば、民主主義とは単なる制度のことではなく、一人ひとりの人間を主権者=国家の主体者となし、その自由と責任によって国家を運営していくという「哲学思想」です。従って、民主主義を現実のものとするには、考え・対話し・決定する力(思考力・対話力・自治力)を育む「教育」が不可避のものとして要請されます。民主的な「公共」実現のためには、一人ひとりの市民・国民とは主権者のことであり、主権者の上には誰も存在しないという原理を明晰に意識することが必要ですが、その「はじめの一歩」は、教育なくしては歩み出せないのです。

↑目次

6. 1992年の我孫子でのパネル「ふつうの復権」
    ‐ 新たな哲学の土台づくり

 では、最後に、今年2010年の6月24日に行われた【新しい公共】をテーマとしたパネルディスカッションについて記しますが、実は、ここでのパネラー4名のうち3名は、18年前1992年に我孫子市民会館で行われたパネルディスカッション【ふつうの復権】と同じ顔ぶれなのです。このエピソードは、6.24のパネルの内容を深く知る上でとても有用と思いますので、まずは、18年前の我孫子の時空にスリップ!

緑と市民自治
緑と市民自治6号
(92年10月10日発行)

 わたしが我孫子市民会館で主催した「ふつうの復権」と題するパネルディスカッションは、現状変革の政治・社会運動が依拠していたマルクス主義の発想を、哲学次元から変えるための企画でした。当時は、市民運動も旧左翼的な思想に依拠していて、巨大理論に頼る悪弊から抜け出せずにいました。自由対話による等身大の思想の構築、民主的倫理に基づく生き方、生活世界からの哲学の立ち上げとは異なり、特定のイデオロギーや戦略的思考が横行し、「民主主義」とは、真剣に追求すべき価値、深化・拡大すべき課題ではなく、一応の価値に過ぎないという風でした。

 1992年10月17日のパネル「ふつうの復権」の案内は、『緑と市民自治』6号に載せ、思想内容を詳しく記しました。このミニコミ紙は、わたしの発案で、当時我孫子市議だった福嶋浩彦氏が発行していたものです(福嶋氏とわたしの二人でつくり、新聞折込で我孫子市全域に4万部を配布)。
 以下に少しコピーしましょう。まず、冒頭には、
「『ふつう』ということの価値を明晰に自覚すると、人間の生は大きく変わります。人間の生き方や社会の問題について考えるときは、<専門的な知>ではなく<ふつうの知>にこそ意味があると言えます。」と書かれ、
 また、本文には、
 「・・わが国の伝統的な様式主義的思考法(型の文化)とマルクス主義の唯物論は、共にはじめに「客観的正しさ」(こうあるべきだ)を置き、物事や人間の生き方に最適な規格や様式があると妄想しています。対立する左右両派は、その実、思想の深層においては全く同じ土俵にあるわけです。」
 「・・人間の関心・欲望・目的の共同性が、結果としての客観とか正しさの〈像〉をつくっているのであり、「正しさ」それ自体はどこにも存在しません。ここに「対話」=「民主主義」が要請されるゆえんがあります。真理は、わたしたち一人ひとりの主観の相互性がつくるのであり、予め決まっているものではないからです。」(文・武田康弘)とあります。その下には、パネラーの四人、武田康弘(40才)、竹田青嗣(45才)、佐野力(51才)、福嶋浩彦(36才)の顔写真とコメントが載っています。

 わたしは、民主主義思想を支える哲学的基盤は、「現象学」だと考えていました。生活世界に根ざす「主観性の知」こそは、あらゆる客観学の究極の基盤であり、客観学を超えたより高い品位をもつこと、「ふつう」の意味の明晰な自覚が、主権在民の民主主義の価値を鮮明にすること、それが直接参加型の市民自治を生む新たな哲学になるはずだという思い。それらがこの「ふつうの復権」を企画したわたしの考えでした。

 当時、独自の現象学解釈で急上昇中だった竹田青嗣氏は、「現象学は根源的な思想というのではなく、陰画(ネガ)のようなものであり、世界のイメージがはっきりしている場合には、あまり役立たないものだ」と考えていましたが、わたしは、そうではなく、現象学は最もラディカル=根源的な哲学だと見ていました。唯物論哲学では不可能な認識の原理論(純哲学)であり、それは、各自の主観を鍛え、相互性=自由対話によって「公共」をつくるための究極の支えになるものと捉えていたのです。そのわたしの企てを前進させるために、竹田氏が著した『現象学入門』(NHKブックス)は大変大きな力になると確信して、当時は社会・政治活動には興味の薄かった竹田氏をあえてパネラーとして招待したのでした。
 まさに、「新しい公共」(=民主主義に基づくほんとうの公共)を支える哲学をつくるための努力だったわけです。

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7. 2010年6月のパネル「『新しい公共』について考える」

 では、6,24「『新しい公共』について考えるパネルディスカッション」(政府の行政運営の基本方針である「新しい公共」への認識を深めることで調査室の能力向上をはかることを目的とする)の当日の模様ですが、ここでは、シリーズ『公共哲学』(東大出版会)で主張されていた「公」と「公共」の区別(「公」と「私」と「公共」の三元論)は、近代民主主義国家においては成立せず、有害であることが確認され、官を公(おおやけ)と位置付ける考えは、明確に否定されました。

竹田青嗣
福嶋浩彦氏

 福嶋浩彦氏は、長年の責任ある政治家(首長)としての経験を踏まえ、「新しい公共」を考える円卓会議の委員として、断固たる調子で、
「官の公共、役所の公共、政府の公共などは存在してはならない。政府や行政とは、公(おおやけ)でも公共でもない。市民が市民の公共をつくる上で必要になる道具に過ぎないのだ」
と述べました。
 「新しい公共」とは「市民の公共」と同義語である、というのが福嶋氏の持論です。

竹田青嗣
竹田青嗣氏

 竹田青嗣氏は、「公と私の間に公共を置くといのは、どうも意味不明で、こういう考え方はいろいろな思惑が入り込み、紛らわしい。」と言い、
 公・私・公共の三元論は、近代民主主義の原理を曖昧にする見方でしかない、という考えを示しました。

竹田青嗣
郷原信郎氏

 郷原信郎氏は、「今まで「官」は、組織の中ですべきことを行うのが『公』だとしてきたが、現在では、その考え方は社会の要請に応えない。私がいた検察などは、特に旧来のキャリアシステムが維持されていて、組織が自己完結しているために、市民に対して説明責任を果たさない」と話し、
 官に巣食う「市民的公共」とは異なる「公(おおやけ)」という考え方の問題点を、自身の経験に照らして厳しく指摘しました。

竹田青嗣
武田康弘

 わたしは、「武田康弘氏は、今日の公共哲学論争を巻き起こした人物」(『立法と調査』297のP.62)と評される通り、公と公共の区分けという「公共哲学三元論」への批判を繰り返し述べてきましたので、その問題には直接触れず、官治主義により主権在民の民主主義が曖昧にされてしまう深因を指摘しました。それは、新しい公共=ほんらいの公共=市民の公共をつくるための前提である【教育】(自分の頭で考え、対話・議論し、自分たちで決定する日々の練習)の重要性です。意味論の追求ではなく、パターンを身に付けさせるだけの受験知教育からの脱却が必要不可欠であり、それがなければ、新しい公共(=市民による公共)など実現するはずがない、と述べましたが、
 郷原さんは、「わたしの一番言いたいことを先に言われた!」(笑)と、くやしがるほど共鳴していましたし、竹田さんも「武田さんの教育が非常によいモデルを示してくれているが、新しい公共の実現は、長いスパンでみれば、教育の全体のコンセプトを変えていくこと以外にはない」と締め括りました。

 立場も人生の歩みも異なる四者でしたが、それぞれの主張は豊かなハーモニーとなり、明晰かつ濃密な内容のディスカッションになったのではないでしょうか。 参加者の官のみなさんの熱心な聴講と活発な質問は、大いに会を盛り上げましたし、荒井達夫さんを中心に、行政監視委員会調査室のみなさんの尽力も光りました。みなさんに感射!です。

集合

  この日の報告―全発言は、「行政監視情報」(別冊)−「新しい公共」について考えるパネルディスカッション・関係資料― として発行されています。
白樺教育館のホームページ(製作・古林治)で見ることができます。

2010年10月1日 父の命日に。


追記:
行政監視情報

 

行政監視情報サンプル
18および19ページ目を開いたところ.
いずれも新聞記事.

 なんと、上に紹介した『「公共」をめぐる哲学の活躍』が参議院行政監視委員会調査室発行の「行政監視情報 平成22年10月15日号」に載ってしまいました。
 この小雑誌は参議院行政監視委員会の委員および関係者の活動を支える情報誌で、主に行政監視に関係する新聞や雑誌の記事がまとめられたものです。そこに武田康弘という一個人が著した論文が掲載されたのです。おそらく前代未聞のことでしょう。
 ですが、内容を読んでみれば深く納得できます。5年間にわたる公共論争はそれだけ価値ある内容ですし、極めて公共性の高いものだからです。ついでに言えば、公共とは特定の理論や抽象的議論からはじまるのではなく、個人の体験や想いからしか生まれないという典型的な例ともいえます。

行政監視情報 平成22年10月15日号目次
行政監視情報目次



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追記 2010年11月14日
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2010年10月5日
古林 治

 
 
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