資格のための知、テストゲームの知、公理・公式に当てはめる紋切り型の知、概念だけの知、・・・では「知」は、その意味と価値を大きく減じてしまいます。「パターン」にしか過ぎない知は、人間の幸福をつくりません。型はまりのマシーンのような存在ではなく、豊かな情感に基づく悦びの人生は、意味に満ちた知、深い納得、腑に落ちる知に支えられて始めて可能になるはずです。
「白樺」の思想家、柳宗悦と作陶家の濱田庄司、河井寛次郎は、「美」の世界を生活の「用」に耐える豊かな美しさを持つものとするために、1925年から「民芸運動」を始めましたが、「民知」という私の「造語」は、この「民芸」という言葉(概念)を一般化し普遍化したものです。腑に落ちる知―皆にとって真に有用な生きた知のことを指しますが、それは、日本では西周(にしあまね)により無粋な訳が与えられてしまった『哲学』 =philein(恋する)+sophia(知)=したがって本来は『恋知』と訳されるべき言葉(概念)と重なる「知」のことです。一神教であるキリスト教誕生後の「ヨーロッパ哲学」ではなく、それ以前のギリシャのソクラテスが提起した『恋知』と近親性をもつ言葉です。
私は『白樺教育館』で小学1年生から大学生までの勉強を見ていますが、みな最初は、「広がる心と考える頭」が驚くほど貧困です。いわゆる「優秀」な学生ほど知のパッチワークを得意とし、日々の経験―五感全体での確かめをもとに「自分の頭で考える力」がありません。意味としてつかむのではなく、事実の羅列とパターン認識しかなく、観察眼と思索力がないのです。「学力低下」などという次元の話ではありません。「知」がひどく歪んでいる「大問題」なのです。
知の教育は、広い意味での本来の「哲学」を土台にしなければ成り立ちません。単なる技術的な知の訓練では、人間としての生は支えられないのです。発展途上の社会では、窮迫した生活の問題に隠されて「生きる意味」への問いが後景に退きますが、市民社会が成熟してくれば、広義の哲学=「民知」なしには「知」は意味を失います。早急に「民知」=「意味の探求による納得の知」の実践に取り組まないと、生きる悦びが得られずに、ほんとうに日本は沈没してしまうでしょう。
撮影・成毛孝行
8月26日 武田康弘
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