行政運営の思想的土台について考える
今日の続発する公務員不祥事を目の前にして、公務員が考えなくてはならないのは、原点に立ち返って「法律を誠実に執行すること」(憲法第73 条第1号)である。そのためには、公務員が常に市民の目線に立って、全国民や、地域住民や、一般市民に共通する社会一般の利益を実現するには具体的にどうすべきか、をきちんと議論し考えていくことが必要である。その土台となる哲学思想が不可欠であり、「主権在民」の意識を公務員に徹底させる強い思想でなければならない。それが本来の公共哲学である、と私は考えている。そこで、まず、日本国憲法下の現行法制において、行政がどのような理念に基づいて運営されるべきか、公務員に関係する次の基本規定の理念を確認する必要がある。
○日本国憲法
前文
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
第1条 |
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 |
第15条 |
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。 |
2 |
すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。 |
第99条 |
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 |
○国家公務員法
第1条 |
この法律は、国家公務員たる職員について適用すべき各般の根本基準(職員の福祉及び利益を保護するための適切な措置を含む。)を確立し、職員がその職務の遂行に当り、最大の能率を発揮し得るように、民主的な方法で、選択され、且つ、指導さるべきことを定め、以て国民に対し、公務の民主的且つ能率的な運営を保障することを目的とする。 |
第96条 |
すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。 |
「主権の存する日本国民」、「国民全体の奉仕者」、「公共の利益」が、キーワードである。
行政運営の思想的土台となる公共哲学は、これらの理念的文言を根拠付けるものでなければならない。それは、「主権在民」の原理を徹底させる民主主義哲学でなければならないが、私は、竹田青嗣氏(早稲田大学国際教養学部教授)と武田康弘氏(我孫子市白樺文学館初代館長)という2人の哲学者の思想に注目しており、行政運営の土台とするにふさわしいと考えている。以下、2人の「タケダ」の思想が行政運営に対して持つ意味について、簡単に述べることにしたい。
【竹田思想】
竹田青嗣氏は、「国家公務員制度改革とキャリアシステムに関する意見調査」(本誌別冊2008.11 47〜49 頁)の中で、現代民主制国家の基本理念としては、特にロック、ルソー、ヘーゲルが近代市民国家の理念として創出した「社会契約」、「一般意志」、「自由の相互承認」、「一般福祉」等を本質的に超えるアイディアは存在しておらず、公務の制度はこれらの基本理念から導かれる必要がある、という趣旨の見解を明らかにしている。これは、日本国憲法下の公務員制度・公務員倫理の在り方を考える場合、その前提となる社会思想の正しい理解を得るために非常に有益であると思われる。例えば、国家公務員法第96 条の「国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し」の意味内容は、憲法前文の「人類普
遍の原理」と第1条の「主権の存する国民」を前提に解釈しなければならないが、その際これらの社会思想の正しい理解が不可欠であり、竹田説が大いに参考になると思われる。
また、竹田氏は、市民国家の基本理念の涵養が公務員制度の重要な支柱であるとして、公務員が持つべき「公共的良心」を提唱している。国民主権と法の下の平等に基づく民主制国家において、すべての公務員の地位と権限は主権者である国民に由来し、公務員は職務の遂行に当たり、すべての国民に対し平等に対応しなければならず、公務員は公務員であることにより、特権的立場に立つことは許されない。私は、公務員倫理の基礎についてこのように考えているが、竹田氏の「公共的良心」の概念が重要な示唆を与えてくれるのではないか、と期待しているところである。
【武田思想】
武田康弘氏は、今日の公共哲学論争を巻き起こした人物であり、「公という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されない」、「主権者である国民によってつくられた『官』は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的公共を実現するためにのみ存在する」等と述べている(武田康弘・ブログ「思索の日記」)。これは、「公・私・公共三元論」の否定に他ならないが、国家公務員法第96 条の理念(全体の奉仕者・公共の利益)を哲学的に説明できるものであり、まさに日本国憲法下の行政運営の思想的土台となるものと思われる。
また、武田氏は、キャリアシステムの廃止のためには、それを支えている想念の明晰化が必要であるとして、我が国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」(=客観学への知の陥穽)と名付け、その原因を「主観を消去する日本というシステム」にあると分析している(本誌別冊2008.11 50〜52 頁)。特権的意識を伴うキャリアシステムが、我が国社会に根強く残る学歴主義と試験信仰に基づいており、その完全な廃止のためには、そのような不合理な思い込みを取り除く必要があることについては、誰もが容易に想像できるところであるが、武田説は、さらに哲学的に深く鋭い分析を行っていると言えよう。特に「東大病・官僚主義・近代天皇制」が三者一体であるとの指摘は、中央省庁で国家事務に従事する者にとって深く納得できるものであり、キャリアシステムの問題の本質をここまで明らかにした説明は、他に存在しないと思われる。
我が国のような民主主義国家において、行政運営は「主権在民」の原理に基づく以外にあり得ない。また、「主権在民」の原理に基づかなければ、キャリアシステムの問題は決して解決できない。公務員制度・公務員倫理について「主権在民」の原理を徹底し、公務を正常化させるためには、2人の「タケダ」の思想に学ぶことが不可欠であると思われる。また、彼らの思想に行政実務の専門知識(特に公務員法と行政組織法)が加わることにより、実践的で真に有用な公共哲学が構築できるのではないか、と私は考えている。 |