I 私の原点―小学校の「政治クラブ」と胃潰瘍
武田康弘
私が小学5年生(文京区立誠之小学校)の時、初めて学校に「クラブ活動」が導入されました。社会問題に興味が強かった私は、友人と共にクラブ活動担当の先生に「政治クラブ」をつくってくれるように頼み、実現しました。
そこでは「日本国憲法」と「大日本帝国憲法」の比較や、アメリカ合衆国とソビエト連邦との違い、優劣等について学び、考え、議論をしました。私は、新聞の社説を読み、政治談議をする小学生で(笑)、日本も政権が交代する二大政党制にならないと民主主義とは言えない、などと生意気な主張をしていたものです。6年生の最後のクラブでは、人間の幸福とは何か?のテーマで話し合いましたが、アランの幸福論などを前にどうにも整理がつかなかった思い出が残っています。もう40年以上も前のことです。
社会科の勉強は算数と共に大変好きで、知識はたくさん持っていましたが、しかし、いくら調べても考えても、「ほんとう」のことは、少しも分かりませんでした。日本は、「天皇主権の国家主義」の社会から人間の自由と平等に基づく「民主主義」社会に変わったというけれど、天皇家に生まれた子どもは、どうして生まれながらにして特別待遇なのか? 世襲の一人の人間がなぜ私たち全員を統合する象徴なのか? なぜ、天皇という一人の人間の死で「時代名」まで変わってしまうのか? 法の下の平等という憲法14条との関係はどうなっているのか? 旧・憲法下では、主権者で、軍隊の統帥権を持ち、その軍隊は「皇軍」と呼ばれ、現人神(あらひとがみ)であった天皇が戦争責任をとらない!とは一体どういうことなのか? 図書館の本で調べても、先生に聞いても腑に落ちる答えはどこにもありませんでした。
分かったことは、大人は少しも「ほんとう」のことは考えていない、ということです(笑)。そういう本質的な問題については何も考えず、何も知らなくてもテストでは100点を取れることも学び?ましたが、私の場合は、父が私の質問に乗って、一生懸命に「問答」をしてくれたことが幸いでした。「考える」ことは、ワクワク・ドキドキする悦びでした。
どの科目も、ただの「がり勉君」になれば、好成績が得られることも体験から知りましたが、そういう面白みのないインチキな勉強はすぐにやめました。自分がニセモノの人間になっていく、と感じて心がとても苦しかったからです。
多感で神経質、集中力の強いストイックな性格のせいでしょうか、5年生の後半から私は胃潰瘍を患い、その後十二指腸潰瘍となり、以後20才まで長いこと苦しめられました。しかし、がんの疑いから胃カメラを使っての検査もした「闘病」は、死への恐怖から「生きることの意味」を問う心を育てました。いわゆる「偉い人」の言葉を信じるのではなく、深い納得をもたらす考えを自分の頭で創り出すことが「日課」になったのです。だから私は、哲学史上の「実存主義」とは全く無関係に、はじめから実存主義者でした。
いまに至る私の「知」の探求仕方は、この時決まったようです。書物の知は、あくまでも一つの手段でしかなく、肝心なことは自分の頭で考えること。自分の目でよく見て確かめる実践的な思索こそがほんものであること。「試験知」に乗った学者や批評家としてではなく、深い納得を求めて生きる「思考する一人の人間」としての生を貫くこと。
その後、大学で「哲学」に集中的に取り組むようになってからは、西周(にしあまね)によって無粋な訳が与えられてしまった「哲学」−philein(恋する)sophia(知)、本来は『恋知』と訳される言葉の初心に帰ること=キリスト教という一神教誕生後の「ヨーロッパ」哲学以前のギリシャのソクラテスが提起した『恋知』(「パイドロス」の後半を参照)を貫くことが何より大切、そう考えるに至りました。
II なぜ?どうして?何のため? 教育の核心は、考える力をつけること
ごく最近の話ですが、「談合はなぜいけないのですか?」というある女子学生の質問に、日本の高名な政治学者で法学者の大学教授は、「それは法律で決まっているからです。」と答えたということです(笑)。わが我孫子市の中学校の教師が、「なぜ、ワンポイントがある靴下は禁止なのですか?」という生徒の質問に、「校則だからです。」と答えたのと同じですが、こういう本質とは無縁な、意味のない形式的な言説を吐く人が教師では、間違いなくこの社会は終ってしまいます。まるで昆虫社会!
いまの日本は、情報と反射神経で動く生きる悦びを持てない人間が増え、濃やかな抒情や深く大きな思索力とは縁のない社会になっています。あるのは学歴と肩書きによる序列意識だけ。内容空疎で、悦びがありません。
なぜ?どうして?何のため?という意味の探求を放棄した只の「事実学」に依拠した社会は、人間を幸福にしないのです。これは原理です。私は、「知」の基本形は「恋知」(わたしの造語では「民知」)だと確信していますが、それは、幼い子どもたちの「なぜ?どうして?」という初発の問いにつくことから生まれます。
以下に、私のブログ・「思索の日記」に発表した「なぜ?の意味論(民知―恋知)が人間をつくるー実存の源泉」を載せましょう。
(1) なぜ?という問い
幼い子供は、なぜ? どうして? とうるさいくらいに問いを発します。
そのとき、大人がどういう態度をとるかで、子供の未来は大きく変わります。
なぜ? というのは、言うまでもなく「意味」を問うことです。
ただの知識―事実ではなく、その事実には、一体どんな意味があるのか?を知りたいのです。
何より大切なのは、そのとき大人が、子供の問いに対して一緒に考えようとする態度をもつことです。答えられなくてもいいのです。「不思議だね?」とか「なぜだろう?」と一緒に考えようとすることが、人間的なよき心と頭を育てるための条件です。
でも、残念ながらわが日本の現状は、そうはなっていません。むやみに「もの」を与えるのと同じように「事実」―「知識」を与えてしまいます。「なぜ?」を共に考えることをしません。問い=疑問・質問を喜ぶ態度が見られません。しばしば嫌な顔をして「問い」を遮り、上からの決まり文句で終わりにしてしまいます。考えることを一緒に楽しむのではなく、やり方と答えばかりを教えようとします。手っ取り早く覚えさせることを知育だと信じています。
こういう環境で育つと人は、答えばかりを求めるようになります。日本では問いと答えを繰り返す「対話的思考」が育ちません。哲学までも「問い」ではなく「正解」!?の集合になってしまいます。「できること」や結論だけに関心が行き、考えるプロセスと答えがひとつの全体をなしていることを理解している人は少ないのです。いつも目先の「正解」ばかりを求めるために、薄っぺらな世界しか与えられません。
意味の探求をしない「事実とやり方」だけの「知」には喜びや面白みがありません。
「なぜ?」「どうして?」という子供の初発の問いにつくこと、
それが人間の心と頭の底力ー実存の魅力を生み育てる源泉になるのです。
(2) 自我=自芽の成長
「なぜ?」「どうして?」という意味論ぬきの「事実学」の積み上げは、人間の生からエロース、喜び・悦び・歓びを奪って、つや消しの世界を生んでしまいます。「人間を幸福にしないシステム」の大もとは「意味論」(民知―恋知)の欠如にあるのです。
生きるよろこびとは、自分の世界が広がり・深まることですが、自我の成長がないと外側の価値に振り回される生き方しかできなくなります。存在そのものの成長・魅力ではなく、知識・履歴・財産の所有を追いかけるだけの人生に陥ります。
では、どうしたら、自我はよきものとして成長するのでしょうか? 私は、自我を「自芽」と考えるとよいと思います。自分という芽は誰にでもあるわけですが、自芽が豊かに生育し、花を咲かせ、実をつけるためには、内的なエネルギーが必要です。外側から弄(いじく)れば、芽は枯れてしまいます。意味論なしの「事実―知識」の注入は、根腐れをおこさせ自芽を生育させません。自芽の成長の条件は、「なぜ?」「どうして?」の意味論=内的エネルギーにあるのです。
意味論(民知―恋知)がなく、事実学だけという精神風土の中では、情報が多ければ多いほど、学歴が高ければ高いほど、本を読めば読むほど、死んだ頭―紋切り型のパターン人間になっていきます。ほんとうには何も見えず、何も分からず、ただ言葉上の理屈だけで生きる人生に陥ります。現実問題の現実的解決とは無縁な実力のない「口先人間」にしかなれません。
中身の豊かさ、魅力、意味充実の世界への扉を開くこと=自芽が成長・開花する条件は、「なぜ?」「どうして?」という意味を問う全体的な知の探求にあるのです。それを私は、民知(恋知)と名づけています。
III 部分知(専門知)と全体知(生活知)
私たちは誰でも、ある人がどんな人であるかを知るのは、「専門知」によって?ではありません。学知で了解し、判断を下すことは不可能です。特定の分野の知見ではなく、生活世界の経験が生み出す「知」、私が「民知」と呼ぶ全体知によって了解するのです。よき社会のありようを考え、社会問題を解決するのも実はこれと同じです。政治学や経済学や法学、社会学などの知見によって判断し、解決するのではありません。日々の生活の中で培われる全体知=民知の力によるのです。専門知は、判断のための材料を提供するだけです。
このことは、少し反省してみれば誰でもすぐに分かります。社会の問題を例えば政治学者(専門家)が解決するわけではありませんし、ある法律の適否を法学者が決めるわけでもありません。その判断をするのは生活者の全体知=民知によるわけです。専門家は、判断のための資料づくりをしたり、過去の事例を整理して示したり、いろいろな人の見解を分かりよく紹介したりすること…しかできません。なぜなら、専門知とは、部分の知であり、領域を狭く限定して精緻な言説を可能にする知ですが、「判断」というのは元来、総合的―全体的なものであり、全体知としての民知による他ないからです。次元、位相が異なる話なのです。
誤解なきように付け加えますが、専門知をたくさん集めても全体知=民知にはなりません。専門=部分の中で概念化し、精緻化していく作業と、全体を見ることとは、頭の使い方が根本的に異なるからです。部分の和はどこまでもいっても部分の和であり、全体像ではありません。
したがって人間や社会の本質的な問題を考えるためには、自然科学の探求仕方とは全く異なる方法が必要です。対象を対象として突き放して見る「客観学」的手法は無意味です。私という認識主体の観念のありようと共に思考する態度が不可欠です。まず何よりも先に求められるのは、主観性を主観性のまま掬い取るように見る直観=体験能力の開発ですが、それには、特定の見方・理屈によって枠付けをし、規定するのではなく、自他のありのままの心を知ろうとする日々の練習が必須です。「こうあるべきだ」「こうあらねばならぬ」という先入意識を排除して、心に浮かぶ事象を虚心に見ることです。
人間の認識のありようーその意味と価値についての原理を解明する「認識論」(現象学)を基盤にしなければ、理論は哲学(人間の生にとって意味のある知=恋知)にはならず、只の理論に留まるという理由は、人間や社会の問題は、認識主体である人間の観念、価値意識等の問題と深く絡まっているからです。(なお、「現象学」の最も優れた解釈は、竹田青嗣さんの一連の著作だと思います。ご参照下さい。)
ただ、ここで一つ注意しなければならないのは、この営みは、瞬間前の今までの意識=心を見ることですが、本来、人間やその社会について考え・知る主要な目的は、「未来に向かう今」についての見方をつくるためであり、そうである限り、ありのままの意識を知ろうとする営みは、あくまでそのために必要な前提作業だということです。目的をただ「知る」ことにおいてしまうと、受動性に支配され、生きた能動的な知の働きが抑えられてしまいます。要注意!です。人間や社会問題を考え、知ろうとするのは、知的興味に留まらない実践的な課題があるわけで、そのことを明晰に意識しなければ「知」は宙に浮いてしまいます。試験のためにだけ取り組むか、オタク的な趣味として取り組むかしかなくなるのです。
IV 民知(恋知―全体知)の方法
では以下に、「民知」の方法について書きましょう。それを一言で言えば、「意味了解の反復・反芻」です。
民知とは、意識的な「学知」の世界につくことでも、無意識的な「身体性」の世界につくことでもありません。何がほんとうに「よい」ことなのか?−心身全体に深い納得がやってくるような考え=生活世界での思考と実践から生まれる「よい」につくことです。
個別の学知がもたらす「部分合理性」の世界の下に広がる広大な「人間性」の領野―生活世界の「よい」の基準は、五感全体による深い納得に基づくもので、その「よい」が「学知」を含むあらゆる事象を判断する最終根拠となるのです。これは「認識論」の原理です。
では、生活―経験に根をもつほんとうの「よい」はどのようにしたら得られるのでしょうか?「人間性」に応えるこの「よい」の世界は、行為であれ思索であれ反復・反芻することが喜びとなるような世界です。キーワードは「反復」です。反復に耐えうるまでに鍛えられた「知」は、無意識―身体にまで届き、それと融合する知、「部分合理性」を超えた知であると言えるでしょう。
単に概念的な知―言葉上の知にとどまらず、深く心身に届く知とは、意味了解の反復によってつくられる世界です。機械的な反復ではなく、意味を追いながらの反復には、豊かで確かな喜びがあります。それが知の上滑り=知が先立つこと=主知主義の厭らしさ=言葉上の理屈の世界を超え、知と心身・魂と肉体の統合を生み出すのです。
意味了解の反復に耐える確かな内容をもった考えや行為とともに生きることは、人生最大の幸せです。不動の確信―自信が自ずとやってくるからです。民知とは、直観=体験に基づく根のある知なのです。
専門知という部分の知は、なにかしらの特定の目的があって造られたもので、その目的を果たす限りもちろん有用な知ですが、それは、民知という全体知を深め広げることで生活者の役に立たなければ意味を失います。価値的に言えば、民知としての全体知が最上位にあるわけで、またそれは、個々の専門知の絶対の基盤ともなっているのです。
ついでに言えば、専門知に取り組む場合も、常にこの民知の方法を踏まえることが必要でしょう。学知(専門知)の追求をしている場合も、その意識の底を「全体の意味」がたえず通奏低音のように流れていなければ、その知は人間の生にとって無用なものになってしまいます。
V 民知と公共哲学
現在、東大出版会から出ているシリーズ「公共哲学」(全15巻)や公共哲学叢書1〜8巻等の「公共哲学」関連の書の内容に触れることは、この紙面では無理ですし、また私の話の文脈からも外れてしまうので、ここでは、「公共哲学」の思想の原理とスタイルについて思うところを書いてみます。
公共性とは、「開かれている」ことでしょう。陰で誰かが牛耳る、組織が裏で決定する、という従来の日本社会の閉じた陰湿さとは対照的な、個人の輝き・悦びを生む、開かれた明るさー公明正大の精神を指す概念だと思います。
一例ですが、私と山脇直司さん(ちくま新書「公共哲学とは何か」の著者で、東大大学院教授)は、かなり踏み込んだ思想的なやり取りを私のブログ「思索の日記」で公開しています。お互い実名で遠慮なく意見を交わしていますが、生き生きとした対話の公開は、真の公共性をつくり出すには必須の営みではないでしょうか。スタイルを変更しなければ内容も変わらないのです。
そもそも哲学(恋知)とは「主観性」につくことであり、「客観学」ではありません。対話=問答によって主観性を深めていくことで普遍的な共通了解をつくりだそうとする営みです。哲学(恋知)の核心は、生きた話ことばによる問答であり、書き言葉はその陰に過ぎないのですが、その発祥の意味を忘却すれば、ただの理論―理屈に陥ってしまいます。どのような言説であれ、私というひとりの人間が思い、考え、主張しているのであり、そこからしか普遍的な共通了解はつくれないのです。これは原理です。世俗的な権威や宗教的な絶対が人の心を支配すれば、哲学(恋知)は死んでしまいます。
繰り返しになりますが、個人の思い・関心・欲望に根ざしている人間と社会についての知は、自然科学という客観学とは根本的に異なります。例えて言えば、その知は、音楽や彫刻や絵画などを「知る」ということに近いのです。幾度も反復して聴く、触れる、眺める、いろいろな角度から、いろいろな心模様で、よく感じ知るという知り方以外には知る(了解する)ことができません。音をグラフ化し、絵の具を化学分析し、芸術史を学んでも、それは知識を得たー知解したにすぎず、その作品を知った(了解した)ことにはならないでしょう。それと同じです。自分の生き方を考え、どのような社会がよいかを思案するためには、民知(恋知)という全体知による以外はありません。生活世界の中で、全体知の働きを強めるための工夫―努力が何より大切!です。
もちろん、誠実な学的営為=「公共哲学」が現在まで進めてきた、法学、政治学、経済学などの個別の学問を学際的なものに広げていく営みはおおいに評価できますし、民主制を広げる新しい概念の創造もとてもよいと思います。専門知が果たすべき、本来の役割を自覚し、民知(恋知)という全体知を強めるためのサービスを提供していることは、当然とはいえ、素晴らしいことです。
この学際的な公共知は、専門知のありようを変えていくと思います。しかし、このよき公共性をもった「公共知」を真に「哲学」(恋知)の名に値するものとして鍛えていくためには、現象学という認識論を意識することが必須です。
少し前まで、社会理論―哲学として歴史上最も大きな力をもったマルクス思想が「主義」として教条化してしまった深因は、認識主体と価値問題の意識化に失敗したところにある、と私は見ています。
哲学(恋知)の基盤である認識論は、原理上「観念」を先立たせなければ成立しません。したがって「唯物論的認識論」とはそれ自体が言語ー概念矛盾です。だからマルクスは認識論が書けず、ヘーゲルのそれに拠るしかなかったわけですが、そのことを彼が自覚できづにいたために、政治・経済・法などの多分野にわたる社会思想が「理論」として固定化して「客観学」に陥ってしまったのでしょう。そのために、主観性から普遍的な了解をつくりだしていく営み=哲学(恋知)にはなれなかったのですが、国家主義を批判し、シチズンシップに基づく市民社会を目がける「公共哲学」は、マルクス思想の致命的な欠陥をよく自覚すべきだと思います。
関連するので、ついでにもう一つ。巨視的な話になりますが、学知や理論が偉いという想念の始まりは、哲学(恋知)の神学化にあります。アリストテレスが物事の説明に「目的因」(雨が降るのは、植物の成長に必要だからだ)を導入したことは、「物語」としての理論を先行させる「説明の体系」をつくりだし、思考を逆立ちさせる元凶になりましたが、この知をキリスト教会が援用したのです。哲学(恋知)が神学の下に置かれ、スコラ(=学校)哲学にされてしまったわけですが、「部分の知の総和―体系」に「恋知という全体知」が従わされるという不幸から、現代もまだほんとうには抜け出せていません。世界的に見ても人間の思考は大きく歪んだままのようです。専門知という客観学による支配−生活者の生む全体知(民知−恋知)が専門知に従属させられるという逆転が続いています。
核心となるのは、心の世界のみならず、私たちの目の前に広がる世界は、人間にとっての「意味としての世界」であり、単なる事実とか、物自体=客観そのものを措定するのは無意味だということです。「学知」が客観や真理だ、と信じる愚かな妄想から解放されないと、理論があって人間が存在しているかのような逆立ちをいつまでも正すことができません。
結語です。
「知」の問題の核心は、西洋哲学史を踏まえた言葉では、現象学という認識論をバックボーンとしてもつことと言えますが、もっと一般化して、経験的な次元に引き上げて言えば、全体知としての知である「民知」(恋知)を〈地〉とし、部分知としての専門知(学知)を〈図〉とする意識です。専門知の存在価値は、民知(恋知)を深め強める事に役立つところにのみあるわけです。学知を含むあらゆる知の出発点は、生活世界の知=民知であり、その目的は、民知という全体知の豊饒化にあることを自覚したとき、学知は初めて「意義の花」を咲かせることができる、というわけです。生活世界の問題を解決し、人間的な悦びを生み出すことが「知」の本来の役目なのですから。民知とは、「偉い」のではなく、面白く有益な全体知なのです。
VI 民知の実践
私が主宰する『白樺教育館』(小学1年生から大学生までの学習=授業、成人者向けの講座、行事、研究会等を行っています)には、「腑に落ちる知―全身でつかむ知の実践」を結語とした標語―「民知―恋知の実践」が貼ってありますが、民知とは、ほんとうの知を目がける運動の理念です。それは、民主主義と同じで、内容が予め決まっているのではなく、土台や枠組みの提示です。人間の生の中身―内容を豊かにするための知の実践運動であり、実体ではなく、動詞としての名なのです。個々の教科の学習に取り組んでいるときも、専門知に取り組んでいるときも、そこに自閉するのではなく、生活世界の体験=直観に照らし合わせながら全体の意味を志向することーその方法を身につけることです。
それは、実は、人間や社会問題を考え・知ることに留まらず、数学や自然科学を含むあらゆる分野の学習の基本となる態度だと思います。そのように知を遇すること、それが私の29年間にわたる教育実践の基本理念です。民知の内容を日々豊かにしつつ、その運動を大きく広げて行きたいと考えています。ぜひご参加を!
武田康弘
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