「公共哲学」と「認識論」(現象学)についての会談を8月7日に持ちました。
内容はまだ一回目なので、詳細な報告はできませんが、友好的な雰囲気の中で4時間近い会談をもちました(金泰昌さんが急病で上京できなかったのは大変残念です)。
武田の意向は、「現象学」という認識の原理を自覚し、織り込んだ上で「公共哲学」を考えたいというものです。
従来の社会思想が単なる「理論」の次元に留まり、ひろく人々の心を捉える「思想」にならないのは、それが「難しい」からではなく、理論が生活世界の中に位置づかない構造=スタイルをもっているからだと思います。
社会の問題については、ふつうの多くの人が、文脈に沿ってしっかりと考えていくことができれば、それ以上のことはないはずです。知識の披露ではなく、生活の中から納得の得られる考えを生み出す営みを武田は、「民知」と呼んでいます。
そのためには、現象学が明かした「認識とは何か」の原理を広く皆で共有することが大切。認識の原理について自覚することは、社会問題の解決に直接には役立ちませんが、無用な混乱、いたずらに理論を積み上げる愚、ロマン主義に陥り意味のない対立を招来する事態、主義の押し付け等々を「思考の原理」の次元からなくすという大きな得があります。
基本を踏まえた上で、さまざまなアイデアを出し合う、そういうことになれば、「考える」ことは、とても魅力的な楽しいものになるはず。
また、逆に「現象学主義」ともいうべき不毛性(「本質」言い当てゲーム?)に陥るのを避けるためには、「問題を問題にする」のではなく、直接問題に取り組む姿勢が必要。能動的に考え行為することには大きなエロースがあります。
(書評「現象学とは思考の原理である」をご覧下さい)。
私は以前に書いたように、「認識論は『観念』を先立たせなければ成立しません。したがって『唯物論的認識論』とはそれ自体が言語ー概念矛盾です。だからマルクスは認識論が書けず、ヘーゲルのそれに拠るしかなかったわけですが、そのことを彼が自覚できづにいたことがマルクス思想を「主義」として教条化させた深因だ」 と見ています。
さてさて、今後どんなふうになるやら。よきもの=有益なものが生み出せればいいな〜と思っていたところ一昨日金泰昌氏より「凄い」電話がありました。「民知の考えを広げる運動に残りの人生、命をかけて取り組みたい」ということで、そのための第二弾として、私が『公共的良識人』紙に再び『民知の考えによる新たな哲学―知』について書くことになりました。うむ〜、頑張らねば。
8月22日 武田康弘
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