昨年8月にまとめた「『恋知』第4章 金泰昌・武田康弘の恋知の哲学往復書簡34回」PDF版を載せるのを失念していましたので改めてここに紹介します。ご覧になりたい方は以下からダウンロード願います。
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この対話編は東大出版会から「ともに公共哲学する―日本での対話・共働・開新」として出版されていますが、本の方では金さんの書かれた部分がかなり修正加筆されています。また、最後の2回(33回と34回)は極めて重要な内容となっていますが、本の方には載っていません。
なので、オリジナル・ヴァージョンの方が赤裸々に生々しく論点が浮き上がっていると思います。
ぜひ、ご覧ください。
第1章‐3章および関連記事については以下を参照ください。
なお、以下にこの『恋知』第4章の冒頭部分のみ掲載しておきます。
2005年の春に、友人の山脇直司さん(東京大学教授)は、国際的な政治哲学者で東大出版会のシリーズ『公共哲学』(最終的に20巻となり別冊も多数)の最高責任者である金泰昌(キム・テチャン)さんに、わたしの書いた「実存として生きるー市民大学『白樺フィロソフィー』と民知の理念」(白樺文学館パンフレット所載・発行5万部)を送りましたが、それを読まれた金さんは、「深い感動と、熱い共感をもちました」とのことで、丁寧なお手紙を頂きました。
金さんはわたしには全く未知の方でしたが、その年(2005年)の6月に拙宅および白樺教育館(文学館ではない)を訪ねられ、長時間の対話を交わすことになりました。突っ込んだ話となり激論にもなりましたが、それが縁で、金泰昌さんと私は親しい間柄になっていきました。
それからは、京都フォーラム及び大阪のご自宅から頻繁に電話を頂き、毎回長話になりました。また、金さんの来訪も4回となり、いづれも半日をかけての中身の濃い対話をしました。白樺同人たちとの熱く厳しい対話や、官民共働を巡って旧友の福嶋浩彦我孫子市長を交えての三者会談などです。
最初の来訪から2年経った2007年5月の連休時、金さんは電話で、「武田さんと私とで哲学の往復書簡をしたいと思うのですが、どうでしょうか」と言われました。わたしは、その方法について話し合った上で承諾しました。
その往復書簡が十数回ほどになった時、金さんは、自身が所長を務める「公共哲学共働研究所」編集による『京都フォーラム』発行の月刊新聞『公共的良識人』紙に公開したいとの申し出があり、わたしも賛同したのでした。それが2007年7月号『公共的良識人』紙の1面から5面までを使った「 『楽学』と『恋知』の哲学対話=武田康弘と金泰昌の往復書簡その1」で、11回分の対話が載りました。翌月の8月号では、4面から7面を使い12回から21回(このオリジナル版では23回)まで、これで前半が終了。
22回(オリジナル版では24回)以降は、言語至上主義への批判と想像力次元への着目を強調したわたしの主張、さらには、公共の解釈=公と公共を分けるべきという『公共哲学』の主張へのわたしの批判をめぐって刺激的な往復書簡となりましたが、ここで「事件」が起きました。
金さんから電話で、「22回(オリジナル版24回)以降を載せることはできなくなりました。『公共哲学』の根幹に関わる部分での対立を載せるのは無理、というのが編集部全員の見解で、申し訳ないがどうしようもないのです。」
わたしは、「分かりました。わたしには何の権限も権利もありませんから」、と言い、「けれど、残念ですね。金さんは、異論や反論こそ必要なのに日本ではそれがない、その状況を変えたい、といつも言われていましたものね。金さんと私の意見対立を載せるのは、せっかくのよいチャンスでしたのに」と話しました。
それを聞いて金さんは、「ああ、武田さん、そうでした。もう一度、編集会議にかけて説得してみます」と言いました。その結果、12月号に22回(オリジナル版24回)から30回(オリジナル版32回)までが載ることになったのです。めでたしめでたし。
その往復書簡が、3年近く経った2010年8月に、東大出版会刊『ともに公共哲学する』のメインとして収録されることになったのですが、しかし、またしても「事件」が待ち受けていました。
2010年の春に、「わたしは、東京大学出版会の竹中英俊という者ですが、武田さんと金さんの哲学往復書簡を出版したいのです。承諾して頂けませんでしょうか」という電話があり、いろいろ説明を聞き、まあ、困ることもないので「ご自由にどうぞ」と返事をしました。
しかし、竹中英俊編集長の意気込みは、東大教授会の反対にあい、いったんは頓挫してしまいます。「はっきりとした理由はない」という変な話でしたが、当然かもしれません。目次には、わたしの書いた通りに【(5)学校序列宗教=東大病の下では、自我の内的成長は不可能】という文字が踊りますし、全体は、単なる客観学を超えて主観性の知になっていますので、根源的ですから、「事実学」の累積ばかりで、人間や社会問題の本質を穿つ「意味論」の世界に乏しい東京大学の出版物としては、まさに異例です。しかし、竹中編集長は、粘り強く、再度教授会にかけて説得し、ようやく出版のはこびとなりました。
後に、この本を読んだ私の師で哲学者の故・竹内芳郎さん(サルトルやメルロ・ポンティの邦訳者で解説者でもある)は、東大の法学部入学で文学部(倫理学科)卒なのですが、「あの東大が、東大病への厳しい批判を載せた本をよくぞ出したな~!」と、とても驚いていました。
というわけで、この往復書簡が世に出たのは、相当に「奇跡」的なことなのです。二度も頓挫して、そのつど甦り、ようやく日の目を見たのでした。まあ、それだけ刺激的で内容が面白い!という証拠です(笑)。
※ なお、この私製本に載せるのは、まったく修正されていないオリジナルバージョンです。
新聞や本になるときに、金泰昌さんの原稿は、かなり修正・加筆されましたが、往復書簡におけるビビットなやりとりは、手を付けずにそのままが一番面白いはずです。新聞でも本でも、わたしの部分は手直し程度の変更しかしていません。
また、わたしの金さんへの返信は、ほとんどが、当日か翌々日くらいまでに書き上げたものですが、その方が生き生きとした対話になると思ったからです。
☆ 往復書簡のナンバーの違いについて。
『公共的良識人』紙(京都フォーラム発行)および『ともに公共哲学する』(東京大学出版会刊)所載の往復書簡のナンバーには、15と16が抜けています。14までは全く同じですが、新聞と本では15となっている書簡の前に、ほんらいは二つの書簡があります。内輪の話で載せなくてもよいとの公共的良識人編集部の判断で割愛されたのでした。
そのために、15番からは2つづつ番号が異なります。このオリジナル版で17となっているのは、新聞と本では15です。それ以降みな2つずれています。
★ 33回と34回について(新聞・本では未掲載)
最後の2回(33回と34回)は、新聞・本には載せられていませんが、極めて重要な書簡と思います。対話の行きついた先がどこであったか、が分かります。まるで、往復書簡という形式による対話それ自体がもたらした結語のように思えます。 (2018年7月16日・海の日に)
武田康弘 2018年5月18日(66才)
※ なお。この往復書簡オリジナル版の版権は、白樺教育館にあります。金泰昌さんからのご要望で、書簡は、リアルタイムで白樺教育館ホームページに掲載されてきました。制作は、白樺教育館副館長の古林治。