「東大病」についての対話
荒井達夫
若いときは、「哲学すること」を学んだことはありません。ただし、私は、30年前もから、キャリアシステムには違和感と疑問を感じてきました。それが今日の「哲学すること」に直結しています。武田さんは、我が国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」(=客観学への知の陥穽)と名付け、その原因を「主観を消去する日本というシステム」にあると分析していますが、私は、それがキャリアシステムの問題を根本的に解くことのできる哲学思想であると直感したのです。
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N
「我が国のひどく歪んだ知のありよう」があって、「東大病」というのだそうですが、とすると東大をなんとかしなければいけないのでは(東大解体?)と思いますが……。
「主観を消去する日本というシステム」は感覚的に分かる気がしますが、その結果が「東大病」だというところがよく分かりません。
「我が国のひどく歪んだ知のありよう」というのは、たぶん官僚の社会に集約されて見られるということだと思います。その病巣に限定して、どんな悪さをしているかを具体的に説明したほうが、「我が国」の知がひどく歪んでいるというよりも、より広い人々にとって分かりやすくなる
のではないでしょうか。
正直なところ、私の知にももちろん歪みがありますが、「東大病」という名前をつけられるとしたらしゃくに障るのですが……。
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武田です。
Nさん、率直なご意見、ありがとうございます。
少しご説明します。
なぜ、多くの良識ある人々が、愚劣でおぞましい《慣行としての制度》と指摘し続けてきたにも関わらず、120年間も(敗戦後も)キャリアシステムに象徴される官僚主義が続いてきたのか?
それを解き明かすためには、社会的な心理学としての記号論が必要だというのがわたしの考えで、それが、「客観学」(正解が決まっている)を知の目的とみなす「歪んだ知」にある、というわけです。
「日本の教育では、私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに困った問題です。」
「読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。」(『立法と調査』のわたしの論文より)
いままでの日本の知のありようは、上記のように手段を目的化しているために、具体的経験を踏まえて自分の頭で考える「意味論としての知」が脆弱なのです。ただの「事実学」の集大成が「知」であり「学」であるという暗黙の想念に基づいて行われる受験ゲーム(試験知)の勝者が「頭がよい」とされてしまうわけです。それを、「東大病」とわたしは名付けのです。東大生がみな「東大病」だというのではなく、日本人の多くが東大病だと言うのです。ーーー
ーーー「記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。」
そこから、以下の結論になるわけです。
「このような「客観学」の集積に依拠したエリート意識がまかり通る知的環境においては、個々人の豊かなエロースが花咲く文化は生まれようがありません。そのステレオタイプの知が生む象徴の一つがキャリアシステムであり、それは客観神話の精神風土がつくる悪しき「文化」なのです。いま皆でこれを支えてきた歪んだ想念を廃棄する仕事に本気で取り組まなければ、わが国の未来は開けない、わたしはそう確信しています。貴重な一人ひとりの主観性の領野を大胆に拓き、それに依拠する自前の民主主義社会をつくり出していきたいものです。 」
なお、全文は、クリックで出ます。
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武田さんへ
Nです。
おっしゃることは分かる気がします。
東京大学で教育を受けた者でもない、官僚でもない、そういう大勢の人にも、あなたももしかすると東大病にかかっているかもしれないよと警戒を促す必要はあると思います。
でもそれよりは、東大→官僚が悪さをしている姿を具体的に明らかにしたほう分かりやすい。これまでにも新聞などでも報告例はありますが、繰り返し行われる必要はあると思います。具体的な事実は、そのつど新しく、市民の判断に役立ちます。
私は客観という言葉を、武田さんより、もっと広くとらえたいと思います。
公共性を成り立たせるもの。みんなが共通に見ている何か。それほど明確でないとしても、みんなで明らかにする過程で見えてくる何か。
たとえば、裁判でも証拠を追求していきますが、証拠を明らかにしていく、確定していくのは、裁判する人全員の努力です。
科学という知の方法も、その生成の歴史的過程では、みんなに開かれた場でみんなに認められることを試みるということがありました。客観という言葉を使う時、私も躊躇しますが、公共性にとって重要なものだと思っています。
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Nさん
東大病は、官僚主義の現実とその深層にある問題に限定されず、わたしたちの生活世界のさまざまな領域で「悪さ」をしています。日本人が内容・中身で生きることを阻む「権威主義」を支える元となってるのですね。個々人から立ち昇る豊かなエロースの生をうむのが「主観性の知」ですが、それとは対極にある「深い病」なのだと言えましょう(わたしの一番親しい大学は東大・本郷なので、個人的な恨みはありません・笑)。
官僚主義の問題を具体的なレベルで問題にすることは、もちろんとても重要な作業ですが(いまは連日のように新聞・ネット・テレビでも報道しています)、そのことと、それを生む深層にある暗黙の想念を白日の下に晒す作業は平行して行い、立体化・全体化しなければ、「意味」として把握すること(意味論的知の探究)はできません。それでは、キャリアシステムに象徴される官僚主義を元から廃棄することは不可能だ、そう私は考えています。
また、「客観」と言う言葉は、「共同主観」と言い変えた方がよいのです。ふつうの会話においては客観でよいですが、少しきちんと言わなければならない場では、共同主観を生む努力、というように言った方が語弊が少ないと思います。では、また。
武田康弘
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割り込ませて下さい。(色平哲郎/医師)
生前の加藤周一さんと、この病いの話をしたことがありました。
彼は「東大病」との表現はしませんでした。
かつて東大の外にあった権威(への盲従)主義、それがいよいよ内部に及びつつある、という話になりました
中退した大学なので、本郷で講演する際、どうしても
「ここはドブのように臭います、クサい、権威主義のニオイに気づきませんか?」
と、聴衆に問いかけてしまいます。
「こんなところに長居すると、ハナがきかなくなるのでしょうか?」
と、私、毎回のように挑発してしまいます。
『東京大学で教育を受けた者でもない、官僚でもない、そういう大勢の人にも、あなたももしかすると東大病にかかっているかもしれないよと警戒を促す必要はある』(N)
それどころか、もともと、東大の外にこの病いは発生し発症したのです日本の山間部の村で十年以上診療して、よーくわかりました。
『120年間も(敗戦後も)キャリアシステムに象徴される官僚主義』(武田)
前半は藩閥官僚、中盤と後半は学卒官僚。
学卒官僚が出現し、藩閥が切り崩されていったようです。
『「客観学」(正解が決まっている)を知の目的とみなす』(武田)
そんなのは高校までです。
まあ、日本の大学/大学院は高校みたいなモンですが。
日米学生会議などで講演すると、彼我の違いは明らかです。
『ただの「事実学」の集大成が「知」であり「学」であるという暗黙の想念に基づいて行われる受験ゲーム(試験知)の勝者が「頭がよい」とされてしまうわけです。』(武田)
「以前の」東大生はそんなふうに思っていなかったでしょう。
また、大学を評して「アタマがいい」などという浅い表現で、
いったい大丈夫なんでしょうか。
『それを、「東大病」とわたしは名付けのです。東大生がみな「東大病」だというのではなく、日本人の多くが東大病だと言うのです。ーーー』(武田)
外野が勝手にそう考えて崇めているうちに、共同幻想としての病いを生んだ?しかも、次第に内部に及んだのでは?
『今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。』(武田)
知的大敗、本当ですね。
でもマスメディアをひきあいに出すのは無理でしょう。
メディアはメディアですから
『とすると東大をなんとかしなければいけないのでは(東大解体?)』(N)
実に正鵠です 治療法として正しいと感じます
『主観を消去する日本というシステム』(武田) は感覚的に分かる気がします。同感です、こちらの方が正しい表現だと感じます。
『正直なところ、私の知にももちろん歪みがありますが、「東大病」という名前をつけられるとしたらしゃくに障るのですが……。』(N)
本当にそうですね。
病名は一定わかりやすい、実は、わかりやす過ぎる。
そして、病名をつけられる側につらさを生みます
『 ありようを「東大病」(=客観学への知の陥穽)と名付け、その原因を「主観を消去する日本というシステム」にあると分析していますが、私は、それがキャリアシステムの問題を根本的に解くことのできる哲学思想であると直感したのです。』(荒井)
実は、病いといわれると余計なメタファーがつくので、臨床医はいやがります。
『客観学への知の陥穽』(武田)
これ、いいですね。
「共同主観学への知の陥穽」よりいいかも。
また、分析、あるいは哲学思想などという大それたものでなないでしょう。
東洋の、しかもその辺境に位置する島国に特有の現象では?
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武田です。
医師のIさん、山脇さん、活発な議論、ありがとうございます。
「それどころか、もともと、東大の外にこの病いは発生し発症したのです」(I)
「外野が勝手にそう考えて崇めているうちに、共同幻想としての病いを生んだ?しかも、次第に内部に及んだのでは?」(I)
そういう「結果」をもたらしたのは、明治政府が東京大学を国家の権威を示す大学として創設した事実があるからです。そのために、天皇を頂くお上意識をもっていた民衆は、東大を特別な記号とみる「東大病」に罹ったのでしょう。「天皇教ー官僚主義ー東大病」はセットです。
『日本権力構造の謎』上巻「システムに従う教育制度」において、外国人の眼でウォルフレンがこの問題を鋭く突いていますが(加藤周一さんの言も引きながら)、内部からも、きちんとした分析と批判を行うべきだと思います。
「また、大学を評して「アタマがいい」などという浅い表現で、 いったい大丈夫なんでしょうか」(I)
もちろんダメですよね(笑)しかし、多くの人がそう見てしまうという現実があるわけです。
「病名は一定わかりやすい、実は、わかりやす過ぎる。そして、病名をつけられる側につらさを生みます」(I)
できるだけ問題の所在をクリアーにする必要から、わかりやすい(過ぎる)名称をつけました。傷ついたらごめんなさい。ただし、これは、東大生やその関係者が病気だというのではなく、Iさんも言うように、主に東大の外に発生した(発生させられた)のですから、日本の社会問題(社会的病理)だと見てください。
「また、分析、あるいは哲学思想(荒井)などという大それたものでなないでしょう。東洋の、しかもその辺境に位置する島国に特有の現象では? 」(I)
その島国に生まれ、そこに住んでいるわけですから、足元をよく見て、それを改善していく努力が「公共世界」に生きる者の役目だと思っています。
「ちなみに、ドイツの大学生は、かなり自由に大学を移動できます。」(山脇)
それがほんとうですよね。そうなるように変えていく努力をみなでしましょう!!
大学名で一生のコースがほぼ決まるという不可視の制度(キャリアシステム)は、アナクロニズムもいいところです。
武田康弘
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以下は、コメント欄です。
東大病について (二羽)
2009-09-30 17:53:48
はじめまして
二羽と申します。
他の掲示板で武田さんと知り合い、導かれてまいりました。
>日本人の多くが東大病だ〜
少なくとも私は、そうは思いません。
試験はルールのあるゲームですから、「大学入試」という一連のゲームが得意≠知的に成熟している、ということは自明の理でしょう。集団生活ではいずれにしてもルールは必須ですから、試験はルールである=モノサシの一つである、という解釈をしています。
学校を卒業して社会にでてみれば、「肩書き」が役に立つ場面と役に立たない場面があることくらい、周知の事実だと思います。
ただし、東大に入ることに限らず、試験で上位の成績をとるにはそれなりの努力や準備が必要ですから、試験の結果がよいことは、努力や準備の大変さをある程度反映した指標として、リーズナブルなものだと思っています。
私は、新人が「東大卒」と聞けば、「おお、言語による情報処理能力は期待できそうだな。」とは思いますが、その程度のバイアスです。実際に仕事をしてみれば、どこの大学を出ていても関係無くなりますね。
ただし、経験上、高学歴の方のほうが、より早く仕事になじみ、より早くひとり立ちしていく傾向があることは、事実でしょう。新人教育にかけるコストが少なくて済む、という意味です。
これは、知的なストレスに対する訓練の平均的な経験値が違うからだと考えています。
東大病という視点から世の中を見るという問いかけ(哲学)には、ある一定の意義はあると考えますので、否定しているわけではありませんが、「病気」という表現をされると、違和感を覚えます。
>〜客観神話の精神風土がつくる悪しき「文化」なのです。いま皆でこれを支えてきた歪んだ想念を廃棄する仕事に本気で取り組まなければ、わが国の未来は開けない、わたしはそう確信しています。
言葉で考えると、そういう考えが存在しうることは理解できますが、少しばかり過激に否定しすぎではないでしょうか?
少なくとも、一つのモノサシを否定するのですから、代替案について具体的に、
「入試」にかわるルールとはどういうものか?
主観の領域を評価するモノサシとは、いかなるものか?
について言及しない限り、観念的な話で終わってしまうと思います。
人類の歴史を振り返ったとき、武田さんが理想的だと考える「個人の能力(客観&主観いずれについても)を評価する社会的なモノサシ」の具定例を挙げていただくと分かりやすいと思いますがいかがでしょうか?
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知の歪み (タケセン=武田康弘)
2009-10-01 21:46:34
丹羽さん
ていねいな書き込み、ありがとうございます。
わたしは、知のありようについて、その歪みを指摘したわけです。
知の目的と手段の逆転について、その自覚を促すのが意図です。
キツイ言い方になっているのは、わたしたち日本人は、あまりにも「客観主義」におかされている度合いが強く、ふつうの言い方ではなかなか「届かない」と思ったからです。
明治政府がつくった3本の柱が、@近代天皇制(靖国神社に代表される国家神道がその思想的支柱)とAそれを支える行政官僚支配の政治とBその官僚を養成する東京大学(法学部)ですが、その意味で「主権在官」と言われる120年間に及ぶ官僚支配は、東大に象徴される知のありよう(客観主義)にその「根」を持っている、というのがわたしの見方です。
なお、わたしの主張する「主観性の知」を意識した教育は、フィンランドをはじめ北欧諸国では、すでに実行に移されています。
また、「主観性の知」と「客観学」との関係については、後ほどこのブログでご説明致します。
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本物の哲学とは (荒井達夫)
2009-10-02 22:25:23
「また、分析、あるいは哲学思想(荒井)などという大それたものでなないでしょう。東洋の、しかもその辺境に位置する島国に特有の現象では? 」(I)
「その島国に生まれ、そこに住んでいるわけですから、足元をよく見て、それを改善していく努力が「公共世界」に生きる者の役目だと思っています。」(武田さん)
このやり取りには、「哲学とは何か」ということが、良く見て取れるように思います。
「明治政府がつくった3本の柱が、@近代天皇制(靖国神社に代表される国家神道がその思想的支柱)とAそれを支える行政官僚支配の政治とBその官僚を養成する東京大学(法学部)ですが、その意味で「主権在官」と言われる120年間に及ぶ官僚支配は、東大に象徴される知のありよう(客観主義)にその「根」を持っている」というのが武田説ですが、このような分析は、過去誰も行ったことがない深く、鋭いものであり、それがキャリアシステムの問題を解く鍵であると私は考えたわけです。
まさに「日本という島国に生まれ、そこに住んでいる者が、足元をよく見て、それを改善していく努力」の結果であり、それこそが「本物の哲学」であると思います。「東洋の、しかもその辺境に位置する島国に特有の現象」という程度の浅い思考では、キャリアシステムの問題の本質的な解決は到底不可能でしょう。