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98. 東京新聞/ 天下り根絶 『良識の府』が問う
   「公僕の原則 見失うな」

立法と調査

 2月20日付 東京新聞朝刊に画期的記事が掲載されました。当ホームページでもお馴染みの荒井達夫さん(現在:行政監視委員会調査室)が中心になって進めた『国家公務員制度改革とキャリアシステム に関する意見調査』 に東京新聞が注目したのでした。
  立法府で現在進行形で進められる公務員改革を支援する仕事として、キャリアシステムの本質的問題を民主制の原理にまで掘り下げて問題を浮き彫りにさせているのですから相当なインパクトがあるでしょう。
  ただし、インパクトはそればかりではありません。参議院職員とはいえ、現役キャリア官僚の一人である荒井さんらがキャリアシステムの根源的問題に踏み込み、なおかつマス・メディア上で私たち主権者に向かって、全体の奉仕者としての立場からわかりやすくその問題について説明したわけです。そんなまったく官僚らしくない行動に、多くの人は『嘘でしょう!』と思ったに違いありません。多分、担当した記者もそう思ったに違いありません(笑)。でも『全体の奉仕者=主権者への奉仕』が本来の公務員の仕事なのですから冷静に考えてみれば至極当たり前のことをやったに過ぎないとも言えます。
 真っ当なことを坦々とやる!これが大事ですね。

東京新聞

 なお、記事には識者4人のコメントが載っており、その取がタケセンとなっています。読みたい方はー>クリック
ちなみにこの記事は東京新聞(約60万部)だけでなく中日新聞(約280万部)にも掲載されたそうです。中日新聞版を見たい方はー>クリック

追記:

後でわかったのですが、河北新報(仙台拠点で約50万部)にも同じ記事が3月23日朝刊に掲載されていたということです。すばらしい!       2009年3月23日
もしかしたら他の地方新聞にも掲載されているかもしれません。ご存知の方いらしたらお知らせください。 2009年3月24日

 それから、この新聞記事に密接に関連する(問題の根源をえぐる)タケセンの文章を二つ紹介しておきます。 以前にもご紹介しました、参議院の≪国家公務員とキャリアシステムに関する意見調査≫に応えた武田論文(『立法と調査』に掲載)の中で、タケセンは、「主観性の知」の育成こそが知の目的であり、客観学は手段にすぎないと明示しましたが、その「主観性の知」を鍛えるためにどうしたらよいか?を簡明に記した文章を載せ(『知の目的=主観性の知を育成するためには?』 )、その後に、参議院に出した論文(「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念 )を再録します。
 新聞記事とあわせて、ぜひ、じっくりこの二つを読んでみてください。


知の目的=主観性の知を育成するためには?

事実学や客観知に対して、
意味論としての知=「主観性の知」とは、総合する知であり、創造する知であり、生と深く結びついた知だ、と言えましょう。したがって、それは、問題解決の知であり、創意工夫の知であり、臨機応変の知なのです。企画、立案し、設計する知であり、自由対話を支える知でもあるのです。

主観性の知は、
何よりもまず、自分の五感で「感じる」ところから始まります。
したがって、主観性の知を育成するためには、
さまざまな事象を「感じ取る」練習が基盤となるわけです。たえず、生活の中で、直接経験につき、そこから「感じ知る」という営みを習慣化することが求められます。
それと同時に、
感情の多彩さ・豊かさの育成が欠かせません。そのためには、日々の豊かな対話と共に、詩や物語、音楽や美術、映画、ドキュメント・・・をよく味わい知ることが大切です。偏った感情や激情ではなく、こまやかで深く、共感性と生命愛に満ちた感情の育成が、人間のよき生の絶対の基盤だからです。
また、
センスを磨くことは極めて重要です。数学の問題を解くにも、研究課題を見つけるにも、ことばを扱うにも、論争するにも、ものを選ぶにも、センスが悪ければよい成果は得られません。
センスは、自分から積極的にものごとに関わり、そこで失敗と成功を繰り返すことではじめて磨かます。他者の判断に従うのではなく、己を賭けて選択することがないと、センスはほんものにはなりません。センスとは情報ではなく、自分自身の内から湧き出る「よきもの」だからです。

意味論としての知=主観性の知が知の目的であり、それは人間がよく生きることに直結している知なのです。人間を幸福にするのは、主観性の知の力だと言えます。
ところが、日本の教育はこのことについて全く理解していないために、ただ事実学・客観学を集積することが価値だとしています。「客観神話」に深く侵されているのです。これでは、知は競争(勝ち負け)にしか過ぎなくなり、生の豊かさを育むものにはなりません。

2009年02月23日
武田康弘

「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念

武田 康弘(哲学者、白樺教育館館長、我孫子市白樺文学館初代館長)

 キャリアシステムとは、明治憲法下において行われていた高等文官試験制度(1887年に制定された「文官試験試補及見習規則」がその原型)の残滓ですが、その実態は、悪しき官のエリート主義=東大法学部支配です。これを真に廃止するためには、何よりも先ずそれを支えている想念の明晰化が必要ですので、以下に記します。

 わたしは、わが国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」と名づけていますが、これは、哲学的に言えば客観学への知の陥穽といえます。日々の具体的経験に根ざした主観性の知の追求がないのです。日本の教育では、私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに困った問題です。
 また、これと符合する、クイズの知・記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。

 人間の生についての思索をパスし、主観性の知を中心に据える努力を放棄すれば、後は客観学の集積を自己目的とするほかなくなりますが、それでは知は生のよろこびとは無縁となり、かえって人間支配の道具になり下がります。生々しい人間の生と現実までが、既成の知と固い概念主義の言語の枠内で管理される対象に貶められてしまうわけです。そのような管理を公(おおやけ)として人々の上に立って行うのが東大法学部卒の官僚である、というのが明治半ば以来100年以上に亘ってキャリアシステムを支えてきた暗黙の想念でしょう。この非人間的な想念は、わたしが「東大病」と呼ぶ客観学への知の陥穽と表裏一体をなし、堅固な序列主義とステレオタイプの優秀者を生みました。

 明治の国権派であった山県有朋らは、自由民権運動を徹底的に弾圧し、天皇神格化による政治を進めましたが、「主権者=天皇」の官吏として東大法学部の出身者を中心につくられた官僚制度は、客観学の集積によってふつうの人々の「主観性の知」を無価値なものとする歪んだエリート意識に依拠しています。その意味で、天皇教による近代天皇制と、キャリアシステムに象徴される官僚主義と、受験知がつくる東大病は三者一体のものですが、人間の生のよろこびを奪うこの序列・様式主義は、明治の国権派が生んだ鬼子と言えます。

 現代の市民社会に生きるわたしたちに与えられた課題は、民主主義の原理に基づいて国を再構築するために、いまだに清算が済んでいないこのシステムを支える想念を廃棄していく具体的努力です。客観学の知による支配を打ち破ることは、そのための最深の営みなのです。

 読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。

 従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます。このことは、わたしの32年間の教育実践(小学1年生より大学生・成人者まで)と哲学的探求から確実に言えます。では、なぜ、この不幸な逆転に長いことわが日本人は気付かないできたのでしょうか。それについては、わたしが『主観を消去する日本というシステム』(ブログ「思索の日記」2006年1月10日))に簡明に記しましたので、以下に写しましょう。

 

 封建制の武家社会と符号した「型の文化」は、明治に輸入された近代ヨーロッパ出自の「客観学」と織り合わされて日本的な様式主義・権威主義・序列主義を生みました。

 山県有朋らが明治半ば(1880年代後半)に固めた天皇神格化による政治は、主観の対立が起こる前に主観そのものを消去する様式道徳を植えつけることによって可能になったのです。近代天皇制とそれを支える東大法学部卒の官僚支配の社会は、型の文化と客観学の融合がつくり出した「個人を幸福にしない世界に冠たるシステム」だと言えるでしょう。
 豊かな主観性を鍛え育てる古代ギリシャ出自の恋知(哲学)や古代インド出自の討論は無視され、主観性とは悪であるかのような想念が広まったのです。曰く「君の意見は主観である」(笑止です−主観でない意見とは意見ではありませんから)。したがって日本の勉強や学問とは、パターンを身につけ、権威者(出題者)に従い、人の言ったことを整理して覚えることでしかありません。決められている「正解」に早く到達する技術を磨くこと、エロースのない苦行に耐えることが勉強だ、というわけです。

 これで主観性−主体性が育ったら奇跡です。自分の意見を言ってはならない、これはわが国の基本道徳です。主観とは悪だ、という恐ろしい国で自説を主張する人は、数えられるくらいしかいません。日々の具体的経験から自分(主観)の考えをつくり、情報知や東西の古典に寄りかからないで話すことのできる学者が日本に何人いるでしょうか。自分から始まる考えと生=主観性のエロースを育成することが抑圧され、集団同調の圧力が日本ほどひどい国は、一部の独裁国家を除いてはありません。個人の思いは「考え」として表出されること自体が悪とみなされるのです。和を乱すな!です。客観学に支配され、まっとうな知(官知ではなく民知)が育つ土壌がないのですから、型はまりの紋切り人、先輩の言を守るイエスマン、古典を引用するだけの暗記マンしか出ないのは当然です。

 このように同じ土俵で右派と左派が対立しているだけという不毛性から脱却するための基本条件は、客観とは背理であることの明晰な自覚に基づいて、主観を鍛え、深め、豊かにしていくことです。皆が納得する普遍了解的な言説は、魅力的な主観からしか生まれないはずです。のびのびと楽しく主観性を表出することができる環境をつくること、それが日本社会をよく変えていくための第一条件です。エロース豊かな魅力ある個人の育成なくしては何事も始まりませんから。

 おぞましい主観主義やヒステリックな自己絶対化は、「自由の行き過ぎ」が原因ではなく、それとは逆に、あらかじめの正解を強要する客観主義の想念に個人を閉じ込めておいた上で自分の意見を求めるという矛盾した要求−虐めのような主観消去の詐術が生み出すものです。個人の輝きを発揮させずに元から消してしまう「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン)は、主観をその深部で殺す仕掛けによってつくられています。その中で弱い一人の私が入手できるのは、ただの「わがまま」だけということになります。

 客観神話が支配する精神風土の中では、わがまま(自己絶対化)の領域拡張に精を出す以外に個人の生きる術がありません。制度によって自己実現が保証された一部のエリートを除いては。私(主観)の感じ方、心、思い、考えが尊重されずに、制度知の示す正解・権威的な人や組織が与える正解を日々暗黙のうちに強要される環境のもとでは、ひとつメダルの裏表=主観主義(自己絶対化)と客観主義(官知・制度知・権威知)が交互に提示されるだけという不幸で愚かな不毛性の世界からの脱却は困難です。

 客観神話に呪縛された社会の中では、はっきりと堂々と主観を述べる個人が出ないのは当然の話です。主観が主観として存在しないこと−それが日本社会の最大の問題なのです。いま一番必要なのは、上下意識やありもしない正解(客観)に脅迫される観念を払拭する思想的、実際的努力です。恐ろしいことに、私たちの社会では、主観は主観になる前に消去されているのですから。

 

 以上ですが、
このような「客観学」の集積に依拠したエリート意識がまかり通る知的環境においては、個々人の豊かなエロースが花咲く文化は生まれようがありません。そのステレオタイプの知が生む象徴の一つがキャリアシステムであり、それは客観神話の精神風土がつくる悪しき「文化」なのです。いま皆でこれを支えてきた歪んだ想念を廃棄する仕事に本気で取り組まなければ、わが国の未来は開けない、わたしはそう確信しています。貴重な一人ひとりの主観性の領野を大胆に拓き、それに依拠する自前の民主主義社会をつくり出していきたいものです。

※参議院発行―『立法と調査 別冊・特集号―国家公務員制度改革とキャリアシステムに関する意見調査』―2008年11月28日発行 武田康弘の部分(50〜52ページ)のみ

 


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2009年3月3日
中日新聞PDF追加 2009年3月15日
河北新報への掲載を追加 2009年3月23日
追記 2009年3月24日
古林 治

 
 
 
 
 
 
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