金泰昌さんによる「公共哲学」の要諦ー公と公共の分離への批判
金泰昌さんが中心の月刊新聞―『公共的良識人』紙(東大出版会によるシリーズ『公共哲学』の基盤となる思想が現されていて、出資者は衣料品の通販会社による「フェリシモ財団」)の5月号は、8面すべてを使い、土田修さん(東京新聞記者)世古一穂さん(金沢大学大学院教授)金泰昌さん(公共哲学共働研究所所長)による鼎談が載せられています。
わたし武田康弘は、2007年に金泰昌さんと計34回にわたる哲学往復書簡を交わしましたが、そのうちの30回分は3回に分けて『公共的良識人』紙に掲載されました(2007年7月号・8月号・12月号)。 最後の12月号においては、金泰昌さんによる「公共哲学」の要諦―公と公共とは違うものであり、これを分けて考えなければならないとする主張と、その考えは「民主主義の原理」を逸脱する思想であり受け入れ難い、とするわたしの主張が厳しく対立しました。
この論争は、参議院調査室及び人事院の注目するところとなり(金泰昌さんは国家公務員研修の特別講師を13回も務めていた)、2008年1月の参議院におけるパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」(参議院ホームページで公開)が行われることになったのです。出席者は、金泰昌さんとわたし武田康弘のほか、山脇直司東京大学大学院教授と荒井達夫参議院総務委員会調査室次席調査員(当時)の4名でした。
パネルディスカッションでの激論の後、金泰昌さんは、自身の公共哲学の要諦であった「公と公共の分離」の主張をほとんどしなくなっていましたが、最新刊(5月号)の『公共的良識人』紙における上記の鼎談では、再びこの違いについて強調しています。―「公にする」と「公共する」との重要な差異をぼかす官のたくらみが隠されている云々、という具合に。これはとても重要な思想問題ですので、わたしは、再び、否、三度、否、四度(かな・笑)金泰昌氏による公共哲学=「公と公共の分離」の主張への批判をできるだけ分明・簡潔に書いてみました。
- まず、確認ですが、公共の担い手は、市民としてのわたしたち自身です。
ただ、戸籍などの管理や、横暴な者からの安全確保や、社会保証や、多額のお金を必要とする事業は、わたしたち市民が直接担いにくいので、市民(=主権者)がお金(=税金)を出し合い、代行者(=議員)を選び、人(=役人)を雇っておこなうわけです。 - だから、役人の仕事(これを金泰昌氏は「公」と呼ぶ)=「官」は、市民の公共を支え、市民の代わりに公共を担うのであり、それ以外の目的があってはなりません。ほんらい、主権者の意思(公論)の集合がstateとしての国家であり、民主主義の社会においては、それ以外に国家意思があってはならないのです。
市民の共通利益とは異なる国家の利益は存在しない、これは原理です。 - したがって、「公と公共は違うもの」「国家と利益(公)と国民の利益(公共)はちがうこともある」という金泰昌氏の主張は、民主主義とは異なる原理の是認になってしまいます。それは「主権在民の民主主義」を進める上で、大変困った考え方だと言わざるを得ません。
- 確かに、現実の政治家や官僚の意識は、この原則から離れ、しばしば自分たちはふつうの民とは違うのだという歪んだ「エリート」意識に支配されるようです。しかし、それが悪しき誤った観念であることを示し、正すためには、上記の民主制国家の原理・本質を明晰に自覚し、そこに座標軸を定めなければなりません。
ふつうの生活者の誰もが納得できる考え方に則って国を運営していく以外に道はない、それが市民主権社会=民主主義国家の原則であり、「日本国憲法」が現す理念なのです。 - 金泰昌氏が「公」と呼ぶ「官」と、市民的公共性の世界を別に考えるというのは、現実の歪みを深いところで是認し、その上に現実問題の解決を考えるという「弱い」思想でしかありません。言葉の表層に見えるイデオロギーは強いのですが、それを支える哲学が脆弱なのです。物事の原理を曖昧にしてしまうと、ほんとうには社会問題の解決は出来ません。
哲学とは、ほんらい根源的と言う意味でラディカルな営みです。公共哲学は、従来の「学」を超えて深いところで現実を変えていくものでなければならない、それが武田思想=武田による公共哲学の理念です。