公共哲学と公務員倫理
〜パネルディスカッションを振り返って〜
総務委員会調査室 荒井 達夫(あらい たつお)
パネル・ディスカッション中の
荒井さん
撮影:古林 治
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本年1月22日、参議院内閣委員会調査室、総務委員会調査室及び行政監視委員会調査室の3調査室共催による「公共哲学と公務員倫理に関するパネルディスカッション」が行われた。正式なテーマは、「公共哲学と公務員倫理−民主制国家における公務員の本質」であり、パネリストは、金泰昌氏(公共哲学共働研究所所長)、武田康弘氏(白樺教育館館長)、山脇直司氏(東京大学大学院教授)と荒井達夫の4名であった。このディスカッションについては、既に『立法と調査』別冊(2008.2)で全貌を紹介しているが、ここで改めてその意義と感想などについて述べることにしたい。
1.公共哲学との関わり
調査室の仕事は、議員等の依頼により様々な問題について調査・分析し、政策を提言することである。私が担当する公務員制度について言えば、「公務員の不祥事が続く中、懲戒処分が適正に行われていないが、法制的にどこに問題があり、どのような法改正が必要か」という調査依頼に対して、国会質問のためのアドバイスのほか、さらに政策案の骨子まで作成するという仕事がある。また、「公務員制度改革の議論が混迷の度を深めているが、そもそも改革の思想や立脚点をどこに置くべきか」という調査依頼もある。これらの依頼は党派を問わず、内容も様々であるが、仕事の基本は個々の議員の要望に応じた情報提供、これに尽きると言える。このような仕事をしていると、「自分は何のために、何に向かって働いているのか」と考えることがよくある。また、そのような自問自答なしには、仕事をしっかりこなしていけないと考えている。その際に思考の土台となる大元の思想が必要ではないか、と考えてきたことが、公共哲学に関わることになった理由の一つである。
さらに最近では、官製談合の全国的蔓延や、年金記録の消失、年金保険料の横領、厚生労働省の薬害肝炎問題、防衛省事務次官の汚職事件など、深刻な公務員の不祥事が立て続けに起きていることから、民主制国家における公務員はどうあるべきか、公務員の在り方の根本を改めて問うべきではないか、と考えるようになった。これらの不祥事では、まさに公務員の民主的資質や「全体の奉仕者」の意味が問われていると思われたからである。公共哲学と公務員倫理との接点であり、パネルディスカッションを企画し、実施することとなった最大の理由がここにある。
このような問題意識は、社会一般に広がってきているのではないかと思われる。国会質疑でも、明らかにこのような問題意識から、公共哲学に関する議論の重要性について取り上げたものがある 1.。また、人事院は、平成17年度の『年次報告書』や平成19年8月の『給与等に関する報告と給与改定に関する勧告』の中で公共哲学について言及しており、昨年秋の臨時会では、人事院総裁が「幹部職員について公共哲学や公務員倫理に関する思索型の研修を取り入れるようにしてきている」との国会答弁を行っている 2.。これらも当然、社会一般の問題意識を踏まえたものと思われる。なお、最近、総務省などが「新しい公共空間」という言葉を頻繁に使うようになっているが 3.、これも公共哲学の議論の影響を受けていると考えられる。
2.「学問としての公共哲学」に対する疑問
近年、全国のいくつかの大学で公共哲学の科目が新設されており、広がりは速度を増していくと予想される。また、公共哲学を公務員試験の科目に加えるべきと主張する大学人も出ており、公共哲学の公務への影響は無視できないものになりつつある。しかし、私は、公共哲学が公務の世界で注目されていく中で漠然とした不安を感じていた。それは、「学問としての公共哲学」において通説的見解とされている、いわゆる「公・私・公共三元論」が憲法の民主制原理・国民主権原理に反するのではないか、と感じられたからである。
公共哲学を公務部門に導入するに当たっては、民主制原理・国民主権原理との整合性は絶対条件であり、この点に関しては、わずかな疑念も許されないところである。ところが、「公・私・公共三元論」に対する疑念は膨らむばかりだったのである。特に『公共的良識人』(京都フォーラム)における金泰昌氏と武田康弘氏との連続対談 4.において、これは明白なものとなった。『公共的良識人』は、佐々木毅・金泰昌他編『公共哲学』全20巻(東京大学出版会)刊行の元にもなった権威ある学術誌である。また、金泰昌氏は「学問としての公共哲学の最高権威」、武田康弘氏は「民間人の民主主義哲学者」であり、この二人の議論は学術的にも社会的にも極めて重要な意味を持っている。連続対談において両者は、「公・私・公共」と国民主権の理解をめぐって鋭く対立したのである。
問題は、「全体の奉仕者」である公務員にとって生命線とも言うべき民主制原理・国民主権原理の関係で生じているのであり、現段階における議論を整理しておくことは、公務員の在り方や倫理を考える上で必要不可欠と思われた。そこで、金泰昌氏と武田康弘氏を含め、公共哲学の第一人者が参加するパネルディスカッションを行うことを提案することにした。公共哲学が公務員の在り方や倫理にどのように関係し貢献できるのか、を議論すれば、同時に「公・私・公共三元論」と民主制原理・国民主権原理の関係も整理できるのではないか、と考えたのである。このようなテーマのパネルディスカッションは、良識の府である参議院の調査機関が担当するにふさわしい事務であると思われた。
3.「市民の公共」と「政府の公」の区別
公共哲学が公務の世界で重要性を増しつつあることは間違いないが、問題はその中身にある。それは、国家公務員法第96条が、服務の根本基準として「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない。」と規定していることとの関係である。私はこの規定を、国家公務員は「全国民に共通する社会一般の利益」のために働かなければならない、と理解している。国家公務員法は、民主制原理・国民主権原理を柱とする憲法を実施するために制定されているのであるから、これは論理上当然のことであり、多くの普通の公務員は、このように理解しているのではないかと思われる。しかし、このような法解釈が「公・私・公共三元論」と両立しない可能性があるのである。
「公・私・公共三元論」では「政府の公」と「市民の公共」を論理上明確に区別するため、それに整合する形で国家公務員法を解釈するとすれば、「全国民に共通する社会一般の利益」(=「市民の公共」)とは別の「政府の公」を追求するのが国家公務員である、という民主制原理・国民主権原理に反する結論になるからである。この点については、パネルディスカッションで、金泰昌氏は、「論理上、『市民の公共』に反する『政府の公』も認める」 5.との発言をされていることから、無視できない重大な論点であることが明らかになったと考えている。また、金泰昌氏は、「主権は国民に帰属しているが、天皇に寄託され、行使される。」 6.とも主張されているが、この憲法解釈に疑問・異論があることは明らかである。公務員でこのような解釈をする者は、皆無に近いと断言できるであろう。このような発想が源にあるとすれば、「公・私・公共三元論」の妥当性がさらに問題になると思われる。(この2点がパネルディスカッションの主要な論点となった。)
「学問としての公共哲学」は、民主制原理・国民主権原理との関係であまりにも重大な問題を含んでおり、現状のままでは公務の基本思想として採用することは妥当でないと言わざるを得ない。パネルディスカッションには人事院からも多くの関係者が傍聴に来ており、関心の高さが伺われたが、人事行政の専門家である彼らも、私と同様の印象を持ったのではないかと思われる。「市民の公共」と「政府の公」の区別は、明治憲法下ならともかく、日本国憲法下の公務員制度には適合しない。「公・私・公共三元論は、現状説明のための理論であり、公共哲学の原理ではない。」と明確にならない限り、今後「学問としての公共哲学」を公務員研修等に採用することは困難になった、と見るべきであろう。
このように主張を明確にすることは、「学問としての公共哲学」の発展のためにも重要ではないかと思われる。なぜなら「公・私・公共三元論」は、現状説明のための理論として見れば、日本国内の諸問題を考える際に非常に有用な視点を提供する理論と言えるからである。例えば、薬害肝炎問題は、厚生労働省における「公」と「公共」の乖離の問題と言うことができるし、また、防衛省事務次官の汚職事件は、「滅私奉公」が「滅公奉私」に転じた事件として説明できる。問題の重要な側面を際立たせて、わかりやすく説明できる理論なのである。さらに、金泰昌氏が提唱する「活私開公」は、「全体の奉仕者」である公務員に求められる民主的資質そのものと言えるのではないか、と思われる。ところが、「公・私・公共三元論」を公共哲学の原理や思想の大元の考え方であるかのような説明がされているために、民主制原理・国民主権原理との整合性を考えれば著しい論理矛盾となり、また、主張の全体が曖昧で不明確、さらには意味不明なものになってしまっているように思われる。この点については、私は個人的にも非常に残念に感じているところである。
4.公務員にとって「哲学する」とは
パネルディスカッションでは、「公・私・公共三元論」の妥当性と国民主権の憲法解釈に関する議論で時間がとられ、「哲学するとは何か」、「公共するとは何か」、また「公務員が哲学することの意義は何か」という問題について議論することができなかった。しかし、公共哲学について議論するのであれば、本来はここまで至る必要がある。この点について、私は次のように考えている。
まず、「哲学する」というのであるから、思想の原点は日々生きる生身の人間に求める他はない。そこで何より重要であるのは、個々人がすべて異なる欲望を持った存在であることの深い自覚である。「私」の心の在り様=欲望の自覚と肯定が、他者の心身に対する配慮を生み、そこから実存に基づく「公共」が開かれる。「公共」は、普通の市民の常識に基づく以外にはあり得ない(市民の公共)。一人一人がそれぞれの主観を重んじ、「私」を立脚点として「よき人生とは何か」「よりよい社会とはどのようなものか」と問い、自由対話を交わすところから「公共」の世界は開かれる。このように発想の原点を「私」から開く「公共」に置くことは、近代市民社会の原理と通底し、世界に通用する普遍性を持つ思想であるから、必然的に地球的規模での公共である世界平和につながる。
(なお、この考えは私のオリジナルなものではなく、武田康弘氏の主張に基づくものである。武田思想は、基本的人権の尊重、特に思想・良心の自由の保障を核心とし、国民主権、平和主義を柱とする日本国憲法を支える民主主義哲学であり、近代市民社会における公共哲学の原理となり得ると思われる。)
公務員が「哲学する」場合も、基本はまったく同じである。このような意味での「市民の公共」を前提にして、はじめて民主制国家における「全体の奉仕者」である公務員の哲学が成り立つと考える。公務員の仕事は、民主制国家を支えることであるから、常に「市民の公共」とともにあり、その実現に助力することが本来の任務と言えるからである。したがって、公務員も、まず一市民であるとの深い自覚の下に、その立場で思考し行動する必要がある。そうでなければ、民主制国家の実現は不可能であると思われる。
なお、パネルディスカッションでは、公共哲学は公務員試験になじまないことで全員の意見が一致した。択一式であれ、論文式であれ、単なる哲学知識の確認テストにならざるを得ないが、これでは「哲学する」こととは無関係の無駄な労働を受験生に強いることになってしまう。意見の一致は当然と思うが、それが明確にされたことに大きな意義があると言えよう。ただし、口述試験等で憲法の依拠する民主制原理・国民主権原理について確認することは必須ではないか、と私は考えている。
5.終わりに
パネルディスカッションで、特に金泰昌氏と武田康弘氏は鋭く意見が対立し、結論を見るに至らなかったが、公共哲学の公務における意義を考える上で非常に示唆に富む有意義な内容であったと考えている。今後再度のディスカッションで議論がさらに深化し、発展することを期待したい。また、公共哲学は、本来市民による対等の立場での対話を神髄とするものである。そこで、パネルディスカッションでは「さん」付けによる丁々発止の議論を行うことにしたが、「非常に面白い」との感想も聞かれた。率直な自由対話が傍聴者の思考を大きく刺激し、活性化につながったとしたら、素晴らしいことである。かつてない試みのため不手際もあったが、概ね「成功」と言えるのではないだろうか。すべてを前向きにとらえて、先につなげていきたいと考えている。
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1. |
第166回国会参議院内閣委員会会議録第18号30頁(平19.6.14) |
2. |
第168回国会衆議院総務委員会議録第4号13頁(平19.11.6) |
3. |
分権型社会に対応した地方行政組織運営の刷新に関する研究会『分権型社会における自治体経営の刷新戦略−新しい公共空間の形成を目指して−』(平17.4.15) |
4. |
「楽学と恋知の哲学対話」『公共的良識人』第193号(平19.12.1) |
5. |
「パネルディスカッション 公共哲学と公務員倫理」『立法と調査』別冊(2008.2)16,23頁 |
6. |
同上29頁 |
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いかがでしたでしょうか。
参議院という場で、哲学次元まで掘り下げて公務員倫理についての自由対話が行われた事自体、奇跡的な出来事だと私は思っていますが、さらに踏み込んで議論しようとする荒井さんの姿勢は素晴らしいとしか言いようがありません。
もとより一度のディスカッションで結論など出るはずもありませんが、真剣な対話の継続はその可能性を感じさせてくれるものです。
もし、これで金さん【金泰昌(キム・テチャン)氏(73才 公共哲学共働研究所所長)】の反論が載ったりしたらさらに議論が活性化し、ますます面白くなると思うのですが、いかがでしょう。
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