去る10月8日(日)に、3回目の白樺討論会を開催しました。第3回目は、稲垣久和さん(東京基督教大学教授・東大出版会のシリーズ「公共哲学」16・宗教から考える公共性の編者)と白樺教育館副館長の私・古林治(専門職・哲学するふつうの市民)との討論を中心にして行いました。
今日は簡単にそのご報告です。
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左から稲垣さん、タケセン、古林.
まだ討論はじめの頃なので緊張感が漂ってます. |
この日の討論会の題材は、稲垣さん著『靖国神社「解放」論』をめぐっての質疑応答から始まりました。
この本は『公共哲学』の視点から靖国問題を見た時に、どのような解決策があり得るかという思想的な試みといえます。
討論では、その思想が私たち市民が生きる現実社会において、どれだけの有用性を持つかを吟味し、さらにより有用なものとするためには、どのように考えたらよいか、そのことを探ることとなりました。14:00から18:00までの濃密な4時間、異論・反論のビシバシ討論が行われたのでありました。 |
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討論中の稲垣さん.
ちなみに、白樺討論会は国籍、人種、年齢、性別、学歴、職業、等にかかわりなく、裸の人間同士、対等の立場で討論の内容そのものを愉しく吟味する会です。このような場は滅多にお目にかかれるものではないでしょう(私はここ以外、知りません)。
というわけで、大学教授もここでは、『先生』ではなく単なる『さん』付けですので、稲垣さんもはじめはかなり戸惑われたかもしれません。お疲れ様でした。 |
途中でコメントを入れる進行役のタケセン.
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途中、厳しい質問を発する参加者の一人・荒井さん.
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参加者の一人、大学生の中西さん.この日はカメラマン兼任です. |
4時間の討論が終わって、皆で和気藹々の図. 左はカメラマンの染谷さん.
討論会終了後、残った人たちで23:00まで討論会レビュー・反省会を行いました。さらに砕けた雰囲気でざっくばらん.(以下の写真を参照.)
レビューでは、厳しくも和やかな4時間の討論を通じ、『公共哲学』をさらに深め広げていくためには何が必要か、次回討論に繋がる課題が浮かび上がってきたことを確認しました。 それは以下の2点になるでしょう。
1. |
公共哲学の主な主張の一つに、『公vs.私二元対立から公=公共=私の三元論へ』がありますが、これを、私たち市民にとってわかりやすい、より普遍的な考えとするには、どうしたらよいのか。 |
2. |
公共哲学を基礎づける哲学を明確にしていく必要がある。それは何なのか。
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というわけで、次回の白樺討論は、急遽、以下のように決まりました。
12月9日(土)15:00〜 第4回白樺討論会 「主観性の知」をめぐって
山脇さんとタケセン(武田康弘 教育館館長)との討論です。
哲学のありよう、その意味と意義についての大テーマです。
これは、まさに上記【2.公共哲学を基礎づける哲学を明確にしていく必要がある。それは何なのか。】に直接かかわるテーマでもあります。
請うご期待!
以下は討論会レビュー・反省会の様子です.
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対話は楽しく激しく創造的に! |
二十歳そこそこの若者と50代のオジサンたちとの愉しい対話?? |
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今日の討論の片割れである私・古林でした。
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おまけ:ブログに載せたタケセンのコメントを以下に載せておきます。参考までに。
2006/10/12のBlog
10.8討論会を終えて、再び民知という全体知について。
10月8日の稲垣さん(宗教哲学者)との討論に先立ち、白樺の知の理念(民知)にについて、9月25日のブログに明瞭に記しておきましたが、正直のところまだまだ民知という全体知による討論には難しさがあることを感じました。
心身全体による会得という本来の知によって、現在の学知の不毛性を乗り越える必要を改めて感じた次第ですが、そのためには、恋知(哲学)の初心に帰ることが何より必要です。日々の具体的な経験を自分のことばで考え、語り合う営みが。
(「白樺ML」には忌憚のない鋭く本質を抉るメールが何通も寄せられていますが、ブログでの公表は差し控えます。稲垣さん、古林さん、ごくろうさまでした。参加者のみなさん、ありがとうございました。)
以下が民知という立体としての知=全体知の結論部分ですが、ぜひ、全文もお読み下さい(クリック)
私たち白樺同人がいう「民知」とは、この生活世界から立ち昇る「全体知」(立体的な主観性の知)のことで、それは、誰でもが普段の生活の中で物事を判断している「知」ですから、馴染みのある親しみの知です。ただ、これを放置せずに、全体知のレベルを上げることに意識的に取り組もう!というのが、民知の運動=実践というわけです。自他の専門知を現実に生かすための知=全体知を鍛えるのが目的です。全体知に秀でた人はいますが、全体知の専門家!?などは存在しません。範囲を限り、平面化することで一般性を得る「部分知としての専門知」は、生活世界から立ち昇る「民知」という「全体知」(立体的な主観性の知)の中ではじめて意味と価値をもつ、これは原理です。
武田康弘
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