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  • 227. 恋知エピソード1 Love of thinking
       1991年討論塾 討論会

  • 227. 恋知エピソード1 Love of thinkin
       1991年 討論塾 討論会
       ー 竹内芳郎・竹田青嗣・武田康弘 ー 


    竹内芳郎氏(63才) 1987年 竹内氏自宅で
    武田康弘(35才)  撮影:佐野力

     竹内芳郎(故人、1924年 - 2016年)は、「注1.講壇哲学者たちの説く<現象学>や<実存哲学>にたいして、かぎりない侮蔑と憎悪を抱く人たちだけを、己れの読者として選んでいるのだ.」と語る孤高の哲学者(國學院大學フランス語教授)です。サルトル、メルロ=ポンティらの訳者・解説者でもあり、若かりし頃の武田康弘(白樺教育館館長)の師でもありました。

     竹田青嗣は今なおもっとも売れている哲学書の著者です。1991年当時はまだ新進気鋭の文芸批評家で、『現象学入門1989年』を書いたあとでした。武田はそれを高く評価し、竹内芳郎に紹介しました。人間のあらゆる活動の土台となる認識の原理(難解な現象学)をわかりやすく記述した竹田の著作は、しかし、能動的思想とは異なるために、両者を合わせることで新たな世界が拓けるのではないか、その可能性を考えて討論を企画し、実行したのでした。

     以下に紹介するのは、1991年2月17日と、5月19日、および11月10日に開催された「討論塾」の記録(塾報)です。人のあらゆる活動の土台となる「認識の原理(現象学)」について、社会問題に取り組むときに必ず直面する対話(討論)成立の可能性について、現在なお大きな課題となっている問題の深く抉るような討論です。なお、この塾報の文責は、武田康弘です。

     今なお、意味深い貴重な討論と思いますので、以下に載せます。

     加えて、武田が、竹田青嗣を竹内芳郎に紹介する前の経緯=「竹田青嗣さんとの対談」と、「竹内芳郎さんとの出会いと交際」も添付します。興味深い出会いの物語です。
     6.および7.は武田による竹内批判、竹田批判と言えるものです。この討論塾での討論は、後の武田による「恋知(=哲学)提唱」へと繋がるひとつの契機となったのでした。
     8.は竹田青嗣の名著「言語的思考へ」の書評(Amazonへの書き込み)です。参考までに。

      注1.竹内芳郎の処女作「サルトル哲学序説 筑摩書房 1972年4月20日」の冒頭から

    1.討論塾 塾報 26 1991年2月17日 「社会批判の根拠」
    2.討論塾 塾報 33 1991年5月19日 「自我論と真理論」
    3.討論塾 塾報 46 1991年11月10日 「現象学の意義」
    4.竹田青嗣さんとの出会いと対談 1990年7月23日
    5.竹内芳郎さんとの出会いと交際 2022年4月9日
    6.体験(明証性)から出発する哲学 ―「具体的経験の哲学」批判Ⅱ― 2011年10月20日  
    7.竹田青嗣さんの哲学書読みとしての哲学について 2022年4月18日
    8.解題的紹介 竹田青嗣著「言語的思考へ」  2001年4月

    参考: 

    柳宗悦と竹内芳郎に共通する問題(=知識人としての構え)に触れた論考があるので
    以下に紹介します。
    => 市民の知を鍛える - 竹内哲学と柳思想を越えて -  

    ※ 

    「恋知」については以下を参照ください。
    「恋知」事始め
    恋知第1~4章

     第2版第1刷 PDFファイル(7.4MB)ダウンロード=>クリック
     
    (両面印刷を前提とした構成になっています。) 

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    体験(明証性)から出発する哲学
    ―「具体的経験の哲学」批判Ⅱ―  2011年10月20日

     わたしは、高校3年生の時、竹内芳郎著の『サルトル哲学序説』に出会い、深い悦びを得ました。それ以降、この意味の塊のような本は、わたしの思想の基点となりました。

     しかし、わたしは竹内さんとは異なり、高校・大学時代の一時期を除いてマルクス主義には懐疑的です。巨大理論は生理的に受けつけないからです。わたしにとっては、自らの心身の声に従う生き方(自然・自由・ふつう・健康)以外の生はあり得ませんので、体系的な哲学や社会理論には魅力を感じません。というよりも、そのような理論構築物は、日々を創造しながら生きるこの今の「私」を抑圧する無用の長物としか思えないのです。

     1986年に出版された『具体的経験の哲学』(竹内著・岩波書店)は、その標題に惹かれました。わたしは、『サルトル哲学序説』をはじめどのような本を読むときも、自らの体験に照らしてその意味を汲み取るという習慣を持ちますので、「具体的経験」という概念=言葉はわたしにピッタリなのでした。けれども、わたしは、竹内さんの「具体的経験」が「理論を賦活させるために理論のなかに不断に復元されるべき或る種の次元でしかない」(はしがき2ページ)というのには、なにか釈然としないものを感じました。竹内さんは、「自分の具体的経験は、自己異化の作用をはじめから含んでいるからだ」と説明し、それは、「マルクス主義という客観主義的な理論体系と切り結ぶ」ためだと言います。

     わたしは、人間の生き方や社会のありようについて考える時、「客観主義的な」思想は成立しないと見ています。それは認識論の原理(現象学)を踏まえれば分かります。もちろん社会の構造的理解は必要であり可能ですが、そこから「よい生き方」や「どのような社会が望ましいか」を導くことは不可能です。よい生を拓くことと、社会の構造的理解や歴史解釈とは、別次元の話ですから。いま私たちがどのように生き、どのような関係をもてば生産的になるかを考えるための条件は、互いの主観性を尊重することにあります。人が内的に通じ合い相互性を得るには、まずは、主観性に徹することが必要です。徹することではじめて意識の地下水脈が通じるのです。だから「民主的倫理」(自然な人間性を肯定する倫理)の基盤は、互いの主観性の肯定・尊重・開発にあると言えるでしょう。


    竹内宅来訪 1988年8月28日 
    各大学の哲学教師を連れて。
    武田(36歳)竹内(64歳)

     「客観主義的」な考えが有効性をもつのは自然を対象とした学問や技術の分野であり、人間の生き方や社会のありようについて考察するときは、「主観性の知」によらなければならないはず、それがわたしの不動の確信です。右であれ左であれ、「客観的な正しさ」という想念は必ず他者を抑圧し、権威主義・管理主義を招来します。民が主体の民主主義は、互いの自由(主観性)を承認し合うという土台の上に成立するルール社会です。民主主義という社会思想と、民主的な生き方という関係性の倫理は、「主観性の知」にその基盤をもつのです。


    さて、いよいよ本題です。

    具体的経験には、本を読んだりテレビを見たりという「間接経験」と自分の五感で直接経験する「体験」の双方が含まれますが、わたしは、この両者の違いをよく意識することが重要だと考えてきました。それが、20年前の『竹内芳郎「具体的経験の哲学」批判』6000字(91.10.30)のテーマでした。

    今年の『白樺教育館』のパンフレットには、その時に書いたものを簡略化して載せていますので、以下にコピーします。

    「情報化された知 と 心身全体での会得」

     「活字・音声・映像の溢れるような情報の中で、私たち現代人は、〈情報化された知〉と〈心身全体での会得〉との相違をあまり自覚しなくなっているようです。
    このことが、子どもたちの教育の場において深刻な問題を生みだしています。
     現代は、受験主義の手法が支配しているために、なまの直接経験をもつ余裕がなく、記号や観念の操作が優先されます。しかし、〈五感〉を使っての認識や思考錯誤がおろそかになると、現実と観念が遊離する結果、自分の力で「意味をつかむ」ことが出来なくなります。
     「心身全体による会得」という知の方法を身につけないと、当否を確かめる最終の根拠である内在が希薄化し、生き生きとした現実感が消えるのです。これは、実に恐ろしい現代の病と言えましょう。」

     物事の確かめの最終の根拠は、体験=心身全体を用いての確かめ(認識論では「内在」と言う)にありますが、それは「客観的真理」だというのではなく、人間の認識にとってこれ以上は遡れないという意味で、「明証性」が得られるとよびます。

     この「明証性」は、よく五感を働かせて確かめる直接経験(体験)がないと得られませんので、情報化された知(活字や映像や人伝ての話し・・)を基にした生き方をしていると、内的な確信はやってきません。内的な確信がなければ人は権威に頼る生き方をするほかなくなりますが、それが現代の専門知の権威による支配(=官僚集団による支配)を導く深因なのです。クリア―な実感、イキイキ・アリアリとした現実感は、知識以前の直接経験(体験)がつくる「明証性」の領域ですので、これが失われれば、人間の自発性・主体性も消えてしまいます。そうなれば、一人ひとりの内的な欲望から出発するまっとうな生は始まらず、外なる規範と要請によって生きる外的人間に陥ります。

     現代人が抱く不全感や疎外感は、自分の内側からの声と衝動がないために、何事においても内的な追求ができないところに生じるのですが、心身の奥から湧き上がる内発的な生という基盤が失われてしまうという根源的な不幸は、なまの直接経験の重大性を知らず、記号や観念の操作を優先する小賢しくかつ脆弱な「知」(単なる事実学の総和)から生じているのです。

     その意味で受験主義の勉学は、人間性を元から奪い、深い不幸をつくる根源悪と断じるほかありません。「東大病」の克服は必須です。

     

     


    写真は、2011年10月16日 
    サンシャイン神奈川のレストランで 
    竹内芳郎さん・87歳(クリックで拡大します)
    撮影・武田康弘 

     

     話を戻しますが、
    意識存在である人間が、心身ともに健康に生きるための基盤は、クリア―な実感、イキイキ・アリアリとした現実感をもてることにありますが、それは体験がつくる明証性の領域のことでした。したがって、哲学の土台・基盤とは、「体験」なのです。日々のさまざまな体験を流れゆくままにしないで「私」に根付かせること、体験を意識化する作業は、意識存在である人間がよく生きるための絶対条件です。

     哲学的な理論好きが哲学者なのではありません。知識の有無は関係なく、体験をよく省察する人が哲学者なのです。哲学とは絶対的真理を求めることではなく、また、世俗を超越することでもありません。哲学とは、自らの内側から内発的に生きることを可能にする根源知=意味論としての知なのです。その知のためには、体験によって得られた明証性の領域を省察し、同時にそれを吟味する対話が必要です。各自の異なる体験により得られた明証性を示し合うことが、豊かな認識をもたらす条件になります。哲学(人間の生)に客観的真理はありませんから、認識は「正しさ」の追求ではなく、「豊かさ」の追求なのです。目的はよく生きること。イキイキ・アリアリとした現実感の基に、囚われなく、自由に、自然に、健康に、自分自身として内発的に生きることです。

     わたしは、竹内芳郎さんのいう【具体的経験の哲学】をさらに還元して、【体験から出発する哲学】(学としての哲学とは異なるほんらいの哲学)を提唱しています。それは、明証性から出発し、明証性に戻る哲学とも言えます。「理論としての哲学」ではなく、「いまを生きる哲学」(日々の体験を哲学する実践)です。

    武田康弘



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