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  • 179. 「恋知」事始め

  • 179. 「恋知」事始め

     自分の人生が、社会全体がすさんできていると感じる人は少なくないでしょう。
    私たちの「生」- 日常、仕事、学問、その他、人の営みすべて - の土台になる生き方が相当怪しくなっているからだと思います。
     されど、その生き方、価値観を国家が与えるという話はおかど違い。
    それでは戦前に逆戻りです。

     なので、繰り返し 「恋知の生を!」と主張します。
    今日はさらに具体的に書かれたものをまとめてご紹介します。
    いずれもタケセンのブログ「思索の日記」からの抜粋です。

     まずは「恋知の生」の前提である民主的倫理のお話から順を追って「恋知の話」4本をじっくりご覧ください。

    ● 民主的倫理とは何か? 一例として「さん」「くん」「先生」

    1.恋知の話(1)前提は民主的倫理・道徳を身につけることです。

    2.恋知の話(2)他者への迎合ではなく、自己のよき考えを貫くこと。関係性以上のもの。

    3.恋知の話(3)よい心、困った心。内からのよろこびの人生=「恋知」を始めよう〜〜

    4.恋知の話(4)「目の前主義」の現代人、意味・本質を知ろうとする努力がないと、底なしの不幸です。



    ●民主的倫理とは何か?  一例として「さん」「くん」「先生」
     ブログ 「思索の日記」2017-11-10 より

     民主的倫理とは、
    形式としての倫理、外からの押しつけとしての道徳、上下関係に基づく倫理思想とは根本的に異なるもので、
    内容としての倫理、ふつうの生活者の納得が得られる自然性をもちます。

     それは、人はみな等しく「唯我独尊」として生まれてきたというブッダの根本思想に基づく倫理ですし、
    日本国憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」を現実化する倫理です。

     こうした倫理を踏まえることは、民主政治が行われる前提であり、同時に民主政治を可能にする条件でもあります。特権者や絶対者はいないというのが自治政治=民主政治の根本ですので、政治のあるべき姿は、民主共和制となります。

     民主的倫理を知り守りそれに従う人生は、よろこびと充実をもたらし、生きる意味の濃い生活をつくります。自由と平等を現実化するのは民主的倫理に基づく人生です。個人生活においても社会生活においてもです。人生の意味と価値を豊かにし、互いに楽しく生きるための倫理、それが民主的倫理です。

    マチス
     

    一例として呼称。「さん」「くん」「先生」などについて言えば、
    すべてを「さん」付けで統一するという形の上の平等とは違います。

     討論の場では、経験のあるなし、年齢の上下などに無関係に「さん」付けで統一しなければなりませんが、
    教場では、教える人には「先生」と呼ぶのがふさわしいのです。もちろん強制はいけませんが、教えるのと教わるのとは立場が異なります。教場では種々の責任は教える側にあり、先生はその役割を担う人ですから、それなりの敬称には意味があります。

     内容で考えれば、機械的な「さん」付けが民主的とは言えません。
    幼いころから親しくしている間柄では、「君(くん)」付けがふさわしいこともあります。

     要は、実際の人間関係のありようを反映して、それにふさわしい呼び名にすることです。
    議員に「先生」付けは、笑話でしかなく、論外です。主権者の代行者を「先生」と呼ぶのは、愚かの証拠にしかなりません。

     民主的倫理とは、形式ではありませんので、なんでも「一律」ではないのです。
    中身・内容としてのよき自他の関係を考えて行為することがポイントです。

     

     (補足)
     わたしの息子は、小学5年生になるときに、「ぼくはお父さんの塾に行くことにしたよ。」と言い(なんでも自分で決める性格)通うことになりましたが、驚いたことに、はじめての日に、わたしを「先生!」と呼んだのです。「お父さん」と呼ばずに「先生」と言われて、わたしは、あ〜、なるほどね、と感心してしまいました。確かに、教場では「お父さん」ではなく「先生」なのだよな〜

     英語の教科書では、先生も「ミスター」で、文化の違いですが、日本ではなじまないのではないでしょうか。教場でも先生を「さん」付けするという合意ができれば、そう変えてもいいとは思いますが、少なくとも今は無理でしょう。愛称で呼ぶのはよいと思いますし、また大学や大学院になれば、「さん」付けはあり得るでしょう。

    武田康弘


    ●恋知の話(1)
     前提は民主的倫理・道徳を身につけることです。
     ブログ 「思索の日記」2017-11-6 より

    武田康弘

    2017年10月15日
    撮影・西山裕天

    誰であれ、基本道徳・倫理がないと、よきものは何も生まず、不幸です。


     経験の豊かな人の話をまず謙虚に聞く。
    そういう態度があり、それをしっかり実行した上で
    自分の感じ、想い、考えることをきちんと伝える努力をすることが必要です。

     人に話しをするときは、誰であれ、心を持って話すこと。
    冷たい態度や慇懃無礼な態度を取るのは、一番いけないことであり、道徳・倫理の基本に反します。

     人が訪ねてきたときに門前払いにするのは厳禁です。失礼極まる態度であり、そういう人に幸福が来ることはないでしょう。
    玄関の中に入ってもらい、それから話をするのです。こういう常識すら弁えない人では、どうしようもありません。

     ざっくばらんな飾らない態度はよいですが、それは、ぞんざいであること、無礼であることとは違います。優しい心遣いがない人であっては、自他を共に不幸にします。

     いまの日本には、恩を忘れる、それどころか恩をアダで返すような人が後を断ちませんが、それでは、言葉もありません。

     内容的に乏しいことや非人間的であることを、形式を踏まえることで誤魔化(ごまか)すのが、ほんとうの非礼・無礼というものです。それは民主的倫理とは無縁の態度であり、よき生の障害です。「恋知の生」は、それとは逆で、形式主義を排して、内容を豊かで濃いものにしようとする生き方です。そのためには民主的倫理・道徳を身に付けることが必須です。

    武田康弘

     

    ●恋知の話(2)
     他者への迎合ではなく、自己のよき考えを貫くこと。
     関係性以上のもの。
     ブログ 「思索の日記」2017-11-5 より

     身内であれ他人であれ、他者の意に合わせてしまう、
    関係性をよくするために、他者の意向に迎合する、忖度する(笑)

    という生き方は、納得を生まず、よろこびを生まず、人間の生きる価値を減じます。

     エゴという意味はでない自分をしっかり貫くこと。
    自分の五感につきよく考え、普遍性のある考え方を育てること。

     目先の損得や利害を超え、関係性を害するかとビクビクするのではなく、しっかり対話し、よく吟味された「ほんとう」を貫くことがないと、人生は価値あるものになりません。

     近い人であれ遠い人であれ、闘うべきは闘わないと、生きている意味が薄まり、やがては消えていきます。
    関係性の齟齬(そご)を避けようとする弱い精神は、よきものを何も生まず、生きるよろこびの少ない灰色の人生と社会を生むだけです。

     平板でつまらない人生、管理主義で息がつまる社会、エロースに乏しい魅力のない世界は、闘うことを忘れ、自分から発するよきもの=普遍性を貫かない人々がつくります。

     

     繰り返します。

     関係性を害するかとビクビクするのではなく、しっかり対話し、よく吟味された「ほんとう」を貫くという基本的な姿勢をもたなければ、関係性は、必ず仲間主義・家族主義・同調主義にしかなりません。善美とは無縁のつまらない世界です。

    武田康弘


    ●恋知の話(3)
     よい心、困った心。
     内からのよろこびの人生=「恋知」を始めよう〜〜
     ブログ 「思索の日記」2017-11-4 より

    広々と開かれた世界へ。
    明るさ・楽しさのある生き方に。
    嬉しさが増す人間関係を。
    面白みとよろこびの多い生活へ。
    意味の濃い人生に。
    前向きで豊かな精神を。

    率直に意見を聞き合い、言い合える開かれた自己へ。

    一番いけないのは、
    他者を拒絶する心。
    人を切ること。
    耳を傾けないこと。
    固く閉じた自己。
    その閉じた自我を防衛するためにつく誤魔化(ごまか)しと嘘と捏造(ねつぞう)
    それは、嫌な人間関係を固定化し、問題の解決を不可能にします。

    仲間以外は受け入れない閉じた人として生きているあなた、
    閉じた家庭環境の中で生きている(生きざるをえない)あなた、
    まず、他者を受け入れる表情や態度や話し方(声)を工夫してみましょう〜〜〜〜


     ぎこちなくてもよいので、やわらかく、楽しげな表情をつくる練習を鏡の前で毎日してみてください。
    にこやかな表情で周りの人に話す実践を少しづつはじめてみましょう。
    自分が、わたしの家が、自国が、信仰が、に拘(こだわ)らずに、頭から心身から力を抜いて、遠く(とりわけ雲や空)を見て、広々とした気持ちのよい世界を想うのです。

     楽しく開かれたイメージを他者に与える表情や言動は、自他をともに幸せにしますから、なによりお得で、徳を生みます。
    情緒音痴の尖がり顔や無表情は、一つの得も徳もつくらず、自分も他者もみなを不幸にします。


     心の内からのよろこびを生きるのは、人生の最大の価値ですが、そのためには、ちょっとした心構えと日々の練習があればよい、と思います。はじめてみませんか?

    武田康弘


    ●恋知の話(4)
     「目の前主義」の現代人、
     意味・本質を知ろうとする努力がないと、底なしの不幸です。
     ブログ 「思索の日記」2017-11-1 より

     「〇〇とは何か」という本質を知るためには、意味としてのつながりを理解しようとする気持ちがないとできません。
     本質とか原理は、直接見ることができませんから、五感で感じ知ったことから類推したり考えることをしないと、意味を捉えることは不可能です。

     それには、直観に基づきつつ、いま見えるものがそのようになった時間的な変化を知ることが必要です。つながりを知り、そこからその事象を捉えようとする営みがないと、目の前にあることの意味・本質はつかめません。

     しかし、いま、多くの人が(とりわけ管理教育世代以降は顕著)、目の前の事態を知ること以上はしない傾向にあります。時間的な変遷を知り、事象の意味をしっかり掴(つか)もうとしないのです。そういう作業は、うっとうしい、分からない、めんどうだ、という人が多く、彼らは、内容のある話を真剣に聴き考えてみることから逃げてしまいます。

     その時その場の「快」「不快」でのみ生きるので、生き方・考え方は、単線的になり、結果主義になります。

     プロセス=時間的経緯とその意味を捉えようとする営みがないと、人間にとって価値ある認識ができないのですが、そのことが分からず、「好きと嫌い」と「快と不快」のレベルから進めないので、内面世界が豊かになりません。

     判断も行動も反射的でしかなく、精神的な深みや大きさとは無縁のまま生きてしまいます。

     したがって、事象の本質を知ろうとせず、分かりやすい結果を追いかけることになりますが、それは精神世界をもつ存在である人間にとって底知れない不幸です。とても残念な生き方で、生の失敗とさえ言えます。

     現代は、お金をいくらもっているか、どれほどの権力を行使できるか、また、物やサービスという目の前に見えるものだけが価値だという風潮がありますが、それでは、人間の豊かな生は拓けず、即物的な存在にしかなれません。それは恐ろしい悲劇です。観念存在である人間は、物質的欠乏には耐えられても、意味の不足には耐えられないからです。

     時間をかけ、手間暇をかけ、結果ではなく過程を大切にし、じっくりしっかり生きること。個々の事実に振り回されずに、事象の意味を知り、本質を捉える努力をし、考えることを人生に組み込まないと、永遠に不幸です。価値ある自分の人生がはじまりません。例え巨万の富があろうとも、それは何の関係もないことです。

    武田康弘


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