竹内芳郎(故人、1924年 - 2016年)は、「注1.講壇哲学者たちの説く<現象学>や<実存哲学>にたいして、かぎりない侮蔑と憎悪を抱く人たちだけを、己れの読者として選んでいるのだ.」と語る孤高の哲学者(國學院大學フランス語教授)です。サルトル、メルロ=ポンティらの訳者・解説者でもあり、若かりし頃の武田康弘(白樺教育館館長)の師でもありました。
竹田青嗣は今なおもっとも売れている哲学書の著者です。1991年当時はまだ新進気鋭の文芸批評家で、『現象学入門1989年』を書いたあとでした。武田はそれを高く評価し、竹内芳郎に紹介しました。人間のあらゆる活動の土台となる認識の原理(難解な現象学)をわかりやすく記述した竹田の著作は、しかし、能動的思想とは異なるために、両者を合わせることで新たな世界が拓けるのではないか、その可能性を考えて討論を企画し、実行したのでした。
以下に紹介するのは、1991年2月17日と、5月19日、および11月10日に開催された「討論塾」の記録(塾報)です。人のあらゆる活動の土台となる「認識の原理(現象学)」について、社会問題に取り組むときに必ず直面する対話(討論)成立の可能性について、現在なお大きな課題となっている問題の深く抉るような討論です。なお、この塾報の文責は、武田康弘です。
今なお、意味深い貴重な討論と思いますので、以下に載せます。
加えて、武田が、竹田青嗣を竹内芳郎に紹介する前の経緯=「竹田青嗣さんとの対談」と、「竹内芳郎さんとの出会いと交際」も添付します。興味深い出会いの物語です。
6.および7.は武田による竹内批判、竹田批判と言えるものです。この討論塾での討論は、後の武田による「※恋知(=哲学)提唱」へと繋がるひとつの契機となったのでした。
8.は竹田青嗣の名著「言語的思考へ」の書評(Amazonへの書き込み)です。参考までに。
1.討論塾 塾報 26 1991年2月17日 「社会批判の根拠」
2.討論塾 塾報 33 1991年5月19日 「自我論と真理論」
3.討論塾 塾報 46 1991年11月10日 「現象学の意義」
4.竹田青嗣さんとの出会いと対談 1990年7月23日
5.竹内芳郎さんとの出会いと交際 2022年4月9日
6.体験(明証性)から出発する哲学 ―「具体的経験の哲学」批判Ⅱ― 2011年10月20日
7.竹田青嗣さんの哲学書読みとしての哲学について 2022年4月18日
8.解題的紹介 竹田青嗣著「言語的思考へ」 2001年4月
参考:
柳宗悦と竹内芳郎に共通する問題(=知識人としての構え)に触れた論考があるので
以下に紹介します。
=> 市民の知を鍛える - 竹内哲学と柳思想を越えて -
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塾報26のオリジナルはすべて縦書きでしたが、読みやすくするため以下の変更を 加えました。
・横書きに変更 ・漢数字を数字に変更 ・話者名の記述を文末から文頭に変更
古林 治 2009年1月5日
第2版第1刷 PDFファイル(7.4MB)ダウンロード=>クリック
(両面印刷を前提とした構成になっています。)
竹田青嗣さんを問題提起者に迎えての第29回討論会は、2月17日(日)狛江市公民館で行われた。テーマは、〈発想の転換-社会批判の根拠〉である。
参加者は、秋本薫、荒川義光、石曽根四方枝、和泉雄一郎、奥田暁子、片岡敏郎、川口泉、金森ひろ子、佐野力、志賀二郎、杉山巌、鈴木太一、鈴木妙香、竹内芳郎、竹田青嗣、武田康弘、中土井鉄信、平田文夫、広瀬和之、藤野吉彦、皆川効之、綿貫信一とオブザーバー参加四名の計26名。進行係および文責は、武田康弘。
討論会開始の前に、当塾の主宰者・竹内芳郎さんより事務局交替について、次のような話があった、「昨年9月より4人で分担するという変則的な形になっていたが、このたび、我孫子市在住の石曽根四方枝(いしぞね・よもえ)さんという方が専従として引き受けて下さることになった。新しい事務局は、紹介者の武田康弘さんを補助として3月からスタートする。」
武田:
はじめに、竹田さんの簡単な紹介と、この会を企画した意味についてお話したい。彼の本業は文芸評論だが、哲学・思想の分野でも幅広く活躍している。現在、和光大学で「現象学」と「民族差別論」を講義。(竹田さんは在日朝鮮人の二世。)また趣味でバンドを組んでコンサートを開いたりもしている。
私は、昨年四月偶然本屋で『現象学入門』(NHKブックス)を立ち読みして彼を知った。難解な現象学の意味と意義をこれほど簡明・シャープに説いた本はない。この本の主題をひと口で言えば、〈近代的理性による世界認識は、主観-客観図式を前提としているが、それは背理である〉ということ、そうした近代主義的なものの見方が何をもたらしたかと言うと「歴史の必然が個人の生の意味を規定し、心理学的決定論が人間のタイプを規定し・・」 という様々な倒錯である。平たく言えば、物には最適規格があり、人間には最適生活様式がある(堺屋太一)という思い込みだ。始めに理論や規範があるという逆立ちした思考法が、「社会主義」という人間を抑圧する体制を生みだした。私はこのような「知」の重圧による支配からわたしたちの心を解放すること=〈発想の転換〉をしなければ具体的な社会問題の解決も不可能だと思っている。
《問題提起》
竹田:
〔なお参加者は、『自分を知るための哲学入門』(筑摩書房)の終章を読んできている。〕
ぼくは、差別の問題について主に学生と考えてきた。武田さんは、地域の具体的な問題を解決するために苦労されてきた。その両者に共通する社会批判の方法、その思想的基盤について話したい。
私は大学を卒業した後、就職が出来ずにブラブラしていた時に、フッサールの「現象学の理念」という本に出会った。はじめて近代哲学の基本問題が何なのかがよく分かった。そうすると、それまで理解できなかった他の哲学者たちの言っていることも分かるようになった。
私は大学時代から革命とか人間の解放という理念を信じていたが、連合赤軍事件によって変革への道筋を元から考え直さねばならないと思うようになった。そんなとき現象学を知った。それは、全部行き詰まったときに一から考え直す方法を示唆しているように思えた。
学生時代、ぼく(達)は、社会の「最適規格」=どんな人間も気持ちよく生きられる一番よい社会のモデルがあると信じていた。それをマルクス主義は、大変精緻に描いていて説得力があった。しかし今考えると、マルクスがすぐれた思想家であったのは、その社会に生きる人々に希望や勇気を与えたからであって、よいモデルを作ってそこへ向かう道筋をつけるという思想のあり方には疑問がある。
では、そのマルクス主義を否定して出てきた〈現代思想〉(中心はフランス)はどうだろうか? 現代思想が何を行ったのかを整理してみると、
(a)どのような決定論も背理であるということを、言葉や価値そのものの破壊によって成し、(世界は言葉ではとらえられない→認識不可能論)
(b)制度(権力)と民衆の欲望の対立関係という従来の図式を否定 して、この二つは不可分な一体となっていることを示した。=一元論的社会観-システムそのものが問題、しかし人間はそこに巻き込まれている、だから主体は制度に手をつけられない。
たしかに現代思想のこういう説明には、ある種のリアリティーがあり、また採るべき点もあるのだが、それは同時に人々の元気をなくしてしまう。しかし思想が人間の生の意欲を奪うなら、思想には意味がない。私は現代思想から、一言でいうと〈社会構造は変えられない、 しかし反社会的心情は忘れるな〉というメッセージを受けとった。だがこのような心情=ロマンをただ持ち続けることには意味がない。
私(の世代)は、絶えず社会問題が引っ掛かっているのだが、若者は社会について考えない。不全感は持っているが、それは他人との恵まれ方の違いだとしか思わない。私は私のもつ問題意識と、若者のもつ多様な不全感とをどうやってつなげていこうかと考えてきたが、社会の問題を「構造論」として説明すると、構造主義であれ、記号論であれ、ただの「知的ゲーム」としてしか受けとらない。身のまわりの世界がすべてになっているために実感としてはほとんど届かない。「構造論」 は、社会変革への暗黙の了解という前提があってはじめて意味を持つものだが、現代の若者にはその前提がない。しかし、社会について考えずに自閉すれば、ただの事実としての人間になってしまう。
たしかに自分の思い=ロマンや理念を、現実と対立させ自分だけの信念として抱え込めば、ロマン的独我論に陥るが(私は長いことそうだった)、しかし逆に現実の中でそれを失うと、単に生存するだけの人間に落ちこむ。だから緒論としては、〈ロマンや理念は、自分の中でそのまま持ち続けるのではなく、他人(社会)の中で試し、そのことで自我のありようをたえず刷新してゆくこと〉が必要だと言える。
あるべき社会の理想に行き着けねばダメだ、と思うことはない。社会は不断に変え続けてゆける。その可能性を手放さずに、自分の生を社会とのつながりの中で捉え、肯定できるように生きること。そして皆が、そういう通路をもてるような条件を、〈社会=他人との関係〉の中につくってゆくべきなのだと思う。
最後に差別の問題について。
ぼくは、差別をなくす運動を、告発・糾弾の形でやるのには反対だ。
それをやっていると、ただの差別の問題(少数者の問題)には触れないでおこうという事になって差別の意識そのものは、いつまでも温存されてしまう。多数者が、差別をするような意識が生まれてくる根を、自分で了解して行く道筋がつけられれば、差別することの愚かしさ・バカバカしさに気づく。そうならないと、差別はなくならない。この事と、先の社会意識を持たない若者と、どう通じて行くのがよいのかという問題は、どこかダブっているように思える。
武田:
では、異論・反論の前に、竹田さんの問題提起で、分かりにくかった点や、確かめておきたい事がありましたら、それを出して下さい。
片岡:
竹田さんは、サルトルやメルロ・ポンティなどの、現象学や実存主義を踏まえた「マルクス主義」についても否定するのですか。
竹田:
そうです。ダメだと考えます。前衛党があって大衆を啓蒙して・・ というのは、ぼくの考える一人ひとりが納得を作り出してゆく社会とはまったく違います。
平田:
最適規格の社会のモデルを作って、それに向かって進むのがマルクス主義だとは私は考えていない。竹田さんのマルクス主義の整理には問題がある。
竹田:
その表現の問題は一旦保留にしておいて、私の考えを言います。労働と教養を積んでいけば、人倫が社会的に実現してゆく、とヘーゲルは言った。それを受けてマルクスは、労働が疎外され商品が物象化される資本主義社会のシステムを根本的に改めなければ、人間の本質的な関係性は実現されないとした。ここにマルクス思想の重要な点があると私は思っていますが、違いますか。
平田:
それはそうだとも思いますが、構造を変えれば、自動的に人間も変わっていくとは、マルクスは言っていないと思う。主体と客体の弁証法もあるし・・
武田:
その問題は、後で討論のテーマとして取り上げます。他にご質問は?
奥田:
「真・善・美」のとらえかたについて、個人的なものでよいか、普遍化が必要か。
竹田:
単なる趣味ならば個人的なものでよいと思うが、それを越えた普遍性は、対話による人間の関係の中でつくりあげてゆくものだと考えている。
奥田:
それは、大変な作業ですね。 ・・また普遍化のための絶対的基準は必要ないのですか。
竹田:
たしかに手間暇がかかる、しかし絶対的な基準を立てれば、真・善・美は消えてしまう。人間の関係性の中でそれをつくってゆくプロセスそのものが重要だ。始めに絶対的基準を置くと、それにどれだけ近づいたかということになってしまう。基準は人の心の中にあるとしか言えない。真・善・美を感じる基本の能力があるから、これは美しいとか、これはほんとうだとか言い合えるのだ。プロセスにこそ意味がある。
広瀬:
人間の関係性という時、その中身をもっと具体的に明らかにしてゆくことが必要なのではないか。
竹田:
これからの課題だと思う。
中土井:
社会を不断に変えていくといっても、その内実がどういうものかつかめない。私は自分を掘り下げていっても突き当たるものがない。 もし私のような人間が多いとすれば、社会を変えても、良くなるとも悪くなるとも言いようがない。・・はっきりとしたモデルがないと、どうしたらよいか分からない。
竹田:
最適なモデルがあると考えるのがダメだと言ったので、モデルそのものを否定したのではない。
武田:
そう、具体的な運動に即してつくるもの。
志賀:
社会への異和感はどうして生じるのか、それが生じるキッカケは何か。
竹田:
それは考えてみたことがない。視点は逆になるが、こんなことは言えると思う。自分の異和感を説明するのに、何らかの「物語」をつくる。そこに強いリアリティーがあれば、その「物語」の中で自分を了解していける。人間は、たくさんの言葉で世界をさまざまに編んでいる。それが物事を考える環境としてすでにある。それが思想や文学やの世界だが、そこに何かのキッカケで魅かれて入っていく。だが、一般的にそのキッカケが何かと言うのは難しい。
平田:
個人と社会との通路(パイプ)とは何か。
竹田:
社会問題を解決していく具体的な道筋のこと。独裁国家ではその通路が閉ざされているが、日本はそうではない。
平田:
議会はそのパイプに入るのか。
竹田:
入ります。
------- 一時限目おわり。-------
武田:
では、本格的に〈討論〉を始めます。
平田:
現代の思想状況は危機的だが、皆は平気で生きている。一体なにをよすがに生きているのだろうか。そのことを軸として話しをしていったらどうかと思う。これが前置きで、わたしは、さっき言ったマルクス主義の捉え方の問題から入っていきたい。竹田さんの結論には私は賛成だが(とくに『哲学入門』のP.240 L.2-9)これは、マルクスの言ったことと同じだと思う。マルクス主義を否定して、ポストモダンを総括してという作業をしなくても出てくる結論ではないか。それにマルクス主義が、モデルになる社会像を立てたという竹田さんの整理は間違っている。定式化したものを拒否するのがマルクス主義なのであって・・
竹田:
弁証法とは妥当を導く方法であり、マルクス主義とは固定したモデルを立てないものであり、私の言っていることと同じだと言うわけですね。もしそのようにマルクスを読めるならそれでもいいでしょうが、私がマルクス主義というのは、さっき言ったようなことです。経済構造を政治権力を取ることで変えていく等のことをマルクスは言わなかったですか。
平田:
特定の集団が大衆の心を代弁するというのは、マルクス主義ではないと思う。私が考えるマルクス主義の一番大切な点は、自覚的な具体的経験を媒介にして認識は発展するものだということ。
竹田:
それがマルクス主義だと言うのなら、なにも異論はない。話し合うことはなくなる。
竹内:
今日は発言が多いので、私は控えていたのですが、少し介入させて下さい。マルクス主義の捉え方についてですが、竹田さんの出された前衛党の問題はレーニン主義などから派生的に出てきたことで、マルクス主義の本質的な問題とは違います。社会主義や共産主義はマルクス以前からあった思想で、どこにマルクスの独自性があったかというと、最適な社会のモデルを打ち立てたというのではなく、歴史の過程のなかで歴史法則として実現されるものとした点です。個人の理想・空想ではなく歴史の理論として打ち出したわけですが、おそらくそのことにも竹田さんは反対なのではないですか。
竹田:
そうです。いま竹内さんがマルクス主義について言われたことば、表現が違うだけで基本的には私と同じだと思いますが。
竹内:
マルクス主義からの発想の転換を果たそうとする時、それをマルクス主義以前の社会主義に見られる、単に理想社会の実現を目指したものと歪めてとらえてしまうと、発想の転換そのものがおかしなものになってしまう危険があるでしょう。
次に平田さんにですが、あなたがマルクス主義の核心だとして出されたことはなにを典拠にして言っているのですか。ごく初期の『経済学・哲学草稿』などに依拠されているように思えますが、『資本論』やエンゲルスの思想を踏まえれば、とてもあなたのようなマルクス理解は出てこないと思います。また、竹田さんの具体的な人間関係(討論や対話)の中で真・善・美を追求するという構えは、マルクスの中にはなかったことで、そこに竹田さんの思想のユニークな点があると私は思います。あなたの言うようにマルクスもそうだったとは、とても思えない。
平田:
私は、資本論を読んでそう思ったのですが。
竹内:
では、今までのマルクス主義に依拠した社会主義運動に対しては、どう思われますか。
平田:
ダメだと思う。スターリン体制の問題がある。
竹内:
いや、ユーゴや中国のような国々もみなダメになっている。スターリニズムに限らず、マルクス主義に依拠した社会主義体制全体が崩壊 しているのです。
平田:
正しいマルクス・レーニン主義が実現されたのは、1917~1922年のごく短い期間だ。この期間のことを詳しく調べることが必要だ。その後のスターリン主義についてはマルクスやレーニンに責任はない。また、歴史必然といっても不可避だというのではなく、おおざっぱな見取り図を提示しただけ。
武田:
「客観的可能性」ということですね。
竹内:
ルカーチの言葉ですが、それが最も優れたマルクス主義の理解だとされていたものです。
広瀬:
ぼくは、マルクス主義と現象学を同時に捉えたいという立場だ。 『経哲草稿』の「疎外された労働」の概念が重要だと思っている。
竹内:
疎外された労働をもってマルクス主義だというのは、彼自身が清算した「哲学的良心」への逆もどりでしかない。やはり歴史の中で実現されていくものという所が核心で、それをのがしたらマルクス主義ではなくなる。少し前までよく言われた〈進歩的・反動的〉という事も、歴史には法則性があって進むべき道が決まっていると考えられていたからだ。その歴史法則を作るために、資本論で資本主義社会の科学的分析を行ったり、生産力等のさまざまな概念を導入したわけだ。
ところで問題はマルクス主義からどう転換をはかるかだが、私は基本的に竹田さんの提起に賛成する。ただ、ひとつ気になるところがあるので、次に述べたい。
それは、竹田さんの思想の整理の中でサルトルが抜けていることです。サルトルは、あなたの出された発想の転換の問題を彼なりの方法で追求し続けた。それが「全体性」と「全体化」との差異です。
私たちはそれぞれの具体的経験の場で個別的な関心を抱いて生きているが、そこには、潜在的にではあれ人生全体への判断・全人生への選びがある。それが「全体化」である。スターリニズムの「全体性」を物神化したマルクス主義を排して、人間の具体的・個別的に生きている場から発する「全体化」作用において、社会の問題を捉えていこうという発想の転換をしている。が、あなたはそれに対決していらっしゃらない。
基本的には、竹田さんの言われていることと、私の『具体的経験の哲学』とは同じなのだが、ひとつ大きく違うのは〈自己客観化〉の問題だ。現象学はコギトから出発するために、ヘタをすると自閉的になる。それを破る必要性をフッサール自身も気づいていた、それが晩年のメタバシス(地盤遷移)の思想だ。それをはっきりさせたのはリクールだが(自己の自己への異化作用・自己からの距離化)、この自己異化の思想があなたにはない。
客観的な世界から出発して自己を規定するという、マルクス主義の間違えを発想転換するところまでは正しいと思うが、では自己の具体的経験から出発しながら、客観的世界をどう取り込んでくるのかが見えない。例えばあなたはエコロジー問題には関心がないと言っていたが、そういう問題を自己客観化の契機を媒介にして、自分自身の場にとり込む必要はないのか。
竹田:
よく分かりました。ぼくの考えを言います。サルトルの思想は、実存から出発していかに全体に達するかという所が納得できない。個々の人間にとって最大の関心は、自分の生からどれだけエロスをくみとるかということで、そこから離れられない必然を持っている。
竹内:
それは解る。
竹田:
そこから社会へ、サルトルは論理なしに飛び越している。人間のなかで社会の問題が内面化していく必然性を、ただ全体に達するべきだと言うのではまずい。
竹内:
そうは言っていない。全体がまずあってそれに達するというのではなく、自分の生にはいやおうなく世界全体が巻き込まれている。それを自覚・顕在化して自分の思想を少しずつ全体化する必要があるだろうということ。
竹田:
確かに、自分の人生は自分の人生であるということの全体性を持っている→(死に限定された全体性)しかしそれと世界の状況全体に関わっているということの間には、大きな開きがある。
竹内:
仏教でさえそれを認めている(縁起思想) 人間のみならず、他の生物ともつながっている、それを自覚していく必要があるのではないか。
竹田:
実存論的に言うと、そういう答えは導き出せない。世界全体に、事物的・連鎖的に関わっているのは当然だが、そのことと世界全体がどうあるべきかとは、すぐには結び付かない。
竹内:
世界全体に関わっていることを自覚すれば、その次に自分の人生の選択をする場合に、〈どうあるべきか〉を考慮するようになってくる。
竹田:
その考えを、ぼくはおかしいと思っている。実存論的に、自分の人生が大事であるということから、自覚すれば考慮する、には至らない。
竹内:
あなたは具体的に生きている場を、あまりに自我論的に限定しすぎる。具体的経験の場には、「自我」が出てこないことも多い。
竹田:
ぼくは、自己という場から出発することを立場にしているのです。フッサールは、方法論的に独我論的な考え方をとる必要があるとして、ずっと独我論的視点で発想している。ぼくもそれに倣っているので、それを、「どうも独我論的だ」と言われても困ってしまう。
竹内:
竹田さんの発想の転換の根拠は認めるが、「自我」というものは、具体的経験の場の中の一つの実体でしかないのに、それを具体的経験全体の枠のように考えるのは哲学的にいって成立しないのではないか。
武田:
〈具体的経験のこの意識〉と〈自我〉の違いですね。しかし竹田さんのいう自我は、純粋自我=実体としての自我ではなく自我の働きそれ自体 - のことです。
竹田:
ええ、自我という言葉を違ったふうに使っているのです。アイデンティティ(自己同一性)は、現象学的な「純粋自我」の場から出てくる、自己も他者もその場から出てくるわけです。純粋自我の場は、あらゆる経験の第一歩です。
竹内:
それは分かりましたが、ただ私のように考えれば、具体的経験としての意識の場に、自己以外にエコロジーや湾岸問題のような直接経験を規定している状況も入ってくるし、自分自身を他者の目で見ること (自己異化)も可能になる。しかしあなたの見方では、自閉的になってゆく危険がある。
竹田:
その議論はいずれ時間をかけてやりましょう。
竹田:
ただ直感的にひとつ言えることは、私の周りには、社会のことなど考えないで、パチンコばかりやっていたり夫婦げんかばかりしている人たちが多くいるが、その人たちを否定的に見ることはできない。その人たちの人生はそれ自身でちゃんと意味をもっている。その人たちは全体性に達していないとは考えない。
竹内:
それも分かります。私も具体的経験はどこまでも尊重しようと言っているので、倫理的命題を外から押し付けようとはしない。ただ相対的にではあれ、どちらの生き方が正しいかは問えるでしょう。あなたの言い方では、いい加減な生き方でもよいということになって、相対主義に陥りますよ。
竹田:
いや、相対主義にはなりません。私はそれでよいと言っているのではない。どちらが価値かと考えると、生き方の規範をつくることになってしまう。そうではなく、個々の人生の内側によいとか・すぐれているとかは探られるべきもので、そのように実存の側から見なければ、結局、世界全体をより深く知った人間が一番偉いということになってしまう。
広瀬:
狭い経験の中から出て、社会や世界のことを考えないと〈ほんとう〉 はつかめない。やはり対話や討論をする中で自己を異化することが必要だと思う。社会・政治の中で自分が生かされているのだという自覚も大切ではないか。
竹田:
その通りだと思う。ただ、自分と他人との具体的関係が大事というそのすぐ外側に、政治や社会の問題が隣接していると考えるのはまずい。少しブレーキを掛けたい。頭から、社会の問題が大事だから考えるべきだと言うと、社会問題を変えてゆく可能性もせばまってしまうからだ。そうではなくて、人間が社会の問題を考えることで他人とつながり、話し合いの中で互いに納得を作りだしてゆけるような(関係性のエロスを持てるような)形になれば、多くの人々がそこに入って くると思う。
広瀬:
そこが出発点になるということは了承します。しかしそうしないと問題が解決しないとするならば、具体的な方策を示すべきではないですか。
竹田:
そこの所は力不足で考えられていないのです。
片岡:
「関係性のエロス」などと言えば、サルなどにも見られる群居性の本能と同じことになる。現象学的な視点から実存論的に見るなどと言っても、これでは結局〈二項対立〉に戻ってしまう。
竹田:
いや、自分が自分に問うてみて楽しいかどうかを確かめるのが関係性のエロスであって、客観的に群居本能があるからそうしているという話にはならないでしょう。
片岡:
「関係主義」と「自我主義」をともに乗り越える必要があるのに、竹田さんのように、自我の立場をとるなどと言えば、またスピノザ(客観的にこう言える)が出てきてしまいます。また〈真理合意説〉にしても、自我論の中で発想すれば、合意してくれる他者も幻想の可能性があるわけで、真の一致・合意は得られない。他者問題は、自我論的には乗り越えられない。まず他者ありきだとする具体的経験からの現象学の方がよい。
竹田:
なにが乗り越えられないのですか。
片岡:
自我を破った他者を創設できない、だから「合意」は得られなくなる。
竹田:
合意=「妥当」というのは - いろいろと話していく中で、彼はこう考えているのだという確信がやってくる - そのことを言っているだけです。真の合一などというのは論理的にはないですよ。関係性というのも、全部自分なりの確信として成立しているのではないですか。
武田:
自分の意識の外には出られないのだから、他に成立する場所はないでしょう。私の意識の働きが「妥当」をえたというだけの話なのですから。
片岡:
えー ・・・ちょっとぼくは分からなくなってしまいました。
武田:
では、他に発言されていない方どうぞ。
綿貫:
社会問題は、やはり自分に関わリがなかったら問題にしていけないと思う。
竹内:
関わりがあると自覚するかどうかが問題。自覚して生きる方が価値としては高い。
武田:
価値だとすぐ言うのはまずい、皆それぞれ、そのように生きざるを得ないという側面が強いのだろう.
竹内:
それはそうなのでしょう。が、やはり良い生き方だとか、くだらないなあと思わせる生き方があるのは、認めざるを得ないと思う。
竹田:
ただ、それをどのように誰が決めるのか、決められるのかは、大変に難しい問題だ。これは誤解かもしれないが、竹内さんの中に、どこかに「真理」があるんだという思いがあるように感じる。
竹内:
私は、理念としては「真理」を置きますよ。そうでなければ討論は成立しない、あなただって、自分の説の方が正しいと思って話しているのでしょう。
竹田:
いいえ違います。なにかに達しようと思って討論しているのではありません。互いにその言わんとするところを納得できたらと思い、その可能性を信じるから話すのです。どうも「真理」の捉え方に少し違いがあるように思う。二人が話していて、最終的に一致しなければいけないというのではなく、〈線路があっても行き先は決まっていない。しかしそれを進んでゆけば、どこかに行けるという互いの信頼感、もしかすると一緒に何か生みだせるかもしれないという信憑〉そのことをぼくは「真理」と呼ぶのです。竹内さんの言い方は、駅があってそこに行けるはずだと感じさせるところがある。
竹内:
私の言い方がまずいかもしれない。いつか『具体的経験の哲学』を下敷きにして討論してみませんか。
竹田:
ぜひやりたいですね。
武田:
他の方どうぞ。
川口:
雑誌『状況』のなかで、竹田さんの文だけが浮いている、というご友人のご指摘はその通りだとおもうが、竹田さんは旧態の左翼運動を変えようとお思いになって書かれているのでしょう。
竹田:
ぼくは、反動だと言われることもあります。(笑) 今の社会に違和を感じて、エコロジーその他の運動をすることはまったく正しいと思う。ただ、その運動を旧い体質の人々(マルクス主義的な考えの人々)が領導していたのではいつまでたってもダメだ。人民というか市民の人たちが、自分の力でその旧い形を突き崩していって新たな、互いに合意を作り出してゆくような運動に変わる必要があると思う。社会変革への可能性がなくなれば、実存的にも人間は枯れてしまう。ところが今のやり方では行き詰ってしまう。もっと多くの人がそこに入ってゆけるようにするにはどうしたらよいか、それを考えられたらと思っているのです。
川口:
話は変わりますが、〈妥当〉というのは、皆が対等な理想の状況の中でなら言えるでしょうが、権力的な上下関係のあるところでは成立 しないのではないか、今ある良いとか正しいとかの基準は支配階級の作ったもので、それをマルクスは「イデオロギー論」として暴いたのだと思いますが。
竹田:
そうでしょうが、どんな社会でもその社会なりの合意はあるわけです。しかし人間は、それをまた編み直してゆける可能性を必ず持っている。
川口:
マルクスはそれをやったのではないですか。
竹田:
確かにマルクスは、自分で世界像を編み直したのですが、しかし一般的にいってどういう形で人々はその合意を持っているのか、そしてそれを編み直していく根拠はどこにあるかということについては、あまり考えなかったと思う、 ・・・マルクスの世界像の編み直しは大変すぐれたものだったわけですが、今はもうリアリティーを持ちません。それをどう編み直していったらよいかは現代思想も答を作れませんでした。だからぼくは、そもそも世界像を編み直すとはどういうことなのかという原理の方を考えているのです。
平田:
竹田さんの言う、互いに話し合って妥当を作りだしてゆくというの は確かに良いことだと思うが、私たち労働者の生活はそれが出来るような余裕を持たない。やはりこの社会の制度を変えていかないと、そうした理想も実現できないのではないか。
竹田:
意識と制度の関係は、論理的に言うとニワトリとたまごの関係ではない。社会のありかたを変える条件がどこにあるかといえば、人々が〈こんなふうにすれば社会が良くなってゆく可能性があって、かつそれをすることが自分の生にとって意味がある〉と思うことなのです。
それが条件の第一歩なので、制度を変えれば「皆が妥当を作りだして生きてゆくようになる」という言い方は、残念ながら原理上成立しないのです。
武田:
もうあまり時間がありません、発言されていない方、感想等を手短にお願いします。
佐野:
今日は、大変すばらしかった。〈なにが正しいかということは決まっていない、それは私たちの生のありかたから出てくるもので、対話や討論によって作りだすもの〉という話は元気がでる。ただ、実際に会社の経営をしたり社会運動をしていると、即断しなければならないことも多くて悩むが・・・
金森:
時間もないですしね。
鈴木:
佐野さんでも悩むという話を聞いてうれしい。やっぱり人間なんだなあ。(笑)
藤野:
ウトウトと気持ちよく聞いてしまいました、〈ナンセンス・コミカル〉の路線で生きてきた私も、共感するところばかりでした。
秋本:
時間的などいろいろと限られた条件の中で、話し合いによって妥当を導いていくのは実際には大変です。具体的にどうしたらよいかにつ いて、これから考えていかなければならないと思う。
和泉:
竹田さんのお話は、我孫子でも聞きましたのでよく分かり共感します。やはりこの原理を、自分の身のまわりのことにもあてはめてゆくことが大切だと思います。なかなか難しいことではありますが。
竹田:
今日は、皆で私の本を読んでいただいて、こうして話ができて、とてもうれしかったです。二か月に一度ぐらいでよければ、顔を出してみたいと思います。ありがとうございました。
------------- 一同、拍手 -----------
(文責・塾報作成:武田康弘)