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97. 武田康弘館長による【哲学】する公開講座
  ー市民アカデミア2008 の総括

 公開講座『公務員を哲学する−市民社会と公共性を考える』ー市民アカデミア2008の第一回目は9月26日に 山脇直司さん講師による『公務員倫理の哲学とソーシャル・ガバナンス』というテーマでの講義が行われました。内容は公共哲学から見えてくる公務員倫理の問題についてで、いくつかの問題提起が見られました。
 第二回目は、10月24日に 竹田青嗣さんによる講義でした。テーマは、『市民社会の哲学的基礎』で、きわめて明晰に市民社会の原理をつかみ出し、そこから公務員倫理というものが何かを浮き上がらせるような講義でした。

 さて、三回目は武田康弘教育館館長による講座で、テーマは『「主観性の知としての哲学vsキャリアシステムを支える思想」』ですが、三回目の肝はテーマの内容だけではなく、講座を進める方法そのものにもあります。予告どおり、後半部分では、「自由対話」によって参加者皆で哲学する試みが行われ、好評のうちに終了と相成りました。
今日は、この新しい試みの重要性を考えて講師自身の意図を本人から語ってもらうことにしましょう。その内容は、今ある哲学の枠組みそのものを根源的に変えようというラディカルなものですから、あちこち(学者さんたち)から波風立つこと請け合いです(笑)。でも、フツーの人たちからはごく自然に受け止められること間違いなしです。じっくりお読みください。

  なお講座の内容の方ですが、このページの最後に、その土台となった論文、【「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念】について少し触れます。

全体写真

哲学は「研究」ではありません。「実践」であり「啓蒙」ではないのです。

タケセン

 2008年「市民アカデミア」(大阪経済法科大学主催)『公務員を哲学する−市民社会と公共性を考える』の最後は、わたしが講師を務めましたが、わたしの企ては、従来の大学講座(一般市民を対象とした啓蒙)の発想とスタイルの双方を変えたいというものでした。「講義&質疑応答」ではなく、参加者が講師の問題提起を受けて【共に哲学する実践】を目がけたのです。

  残念ながら、参加者の意識はわが白樺同人を含めてまだまだ主体性が弱く、【生きた主観性の躍動】というレベルには達しませんでしたが、わたしは、企てをためらうことなく実行したのでした。

タケセン

 哲学とは「客観学」ではなく、ほんらい生きた対話であり、そのことは、理論=言語の次元で主張されただけでは意味を持たず、実際に主観性を鍛えあう熱い試み=生々しい実践でなくてなりません。「研究する」ものではなく、実際にやりあう=「躍動する生きた対話」なのです。大学講座で「勉強」する(教えてもらう)ことではないのです。

 思想や哲学は、従来のスタイルそのものを変えなければ、いくら思想内容を変えたところでひとつの前進もない、それがわたしの不動の確信です。

タケセン

 ついでに言えば、倫理や道徳も同じです。古代の王制や封建社会や近代天皇制の下でつくられた「道徳」(為政者に都合のよいイデオロギー)を学んでもダメで、自由・平等・博愛の民主制社会にふさわしい新しい倫理は、ふつうの生活者の「生活世界から立ち昇る善美」につき、みなの話し合いによって生み出すものなのです。

 本を読んだり本を書いたりすることは一つの手段であり、そのこと自体に価値があるのではないのです。しかし、この基本認識がきちんとできている人は極めてまれです。従来の知のスタイルの中に留まって、その中で「哲学する」ことは本質的には不可能だ、という認識を哲学に関与している人さえ未だに持てずにいるのですが、これは本当に困ったことです。「アカデミズム 内 哲学」では、生きた動詞としての哲学にはならず、哲学は死んでしまいます。

 ヨーロッパの啓蒙時代は18世紀であり、日本の啓蒙時代は明治から敗戦までです。もうとっくに終わっているのが「教えるー教えられる時代」なのです。いま何より必要なのは、一人ひとりが自ら考える力を引き出しサポートする仕組み・態勢のはずです。「相互に考え・語り合う時代」をつくり・生きることが求められます。したがって、いま哲学は、哲学が大学内の一科目になる以前の「実際に人が生きている現場」から立ち昇ってくる問題にダイレクトに応答するという初心に戻らなければいけません。形而上学としての哲学では、趣味の世界にしかなりません。なぜ?どうして?なんのため?を具体的現実に即して考える営みが必要なのです。

 互いの主観性を広げ、深め、豊かにするための実践はいかに可能か?

 それに応える思想とそれを現実のものとするためのスタイルを考案し実践することーそれを目がける活動こそいま真に求められているのであり、それをわたしは恋知としての哲学=民知と呼んでいるわけです。

 以上のような理念・考えから、
11月21日(金)のわたしが担当した講座では、わたしの話は40分に留めると宣言し(笑)、その通りに実行したのです。ただし、時間を短くした分、内容は、分明・明瞭でかつ刺激に富むものとしました。

キム・テチャン
キム・テチャンさん

 また、当日参加された金泰昌(キム・テチャン)さん(「公共哲学」シリーズ全20巻の編集責任者)からも「15分間スピーチ」をしてもらいましたが、少し残念だったのは、わたしの話
=@「東大病」のこと。Aほんらい客観学は知の手段であり主観性の知こそが目的であること。B明治の国権派がつくった「天皇の官吏としての官僚制」に基づく政治は、客観学の支配により各人の主観性を無価値なものとみなすことが必要で、それが天皇教(=序列の絶対化による集団同調主義)という国家宗教と一体化した政治と軍事と教育を生んだこと。Cキャリアシステムを支えているのは、未だに清算が済んでいないそのような想念であること。
から話題がそれてしまったことです。

 わたしもまた、もっと明瞭に踏み込んで(キツク・笑)主題が浮かび上がるようにすべきだったと思います。それが反省点です。

 【共に哲学する】を実現するには、まだまだ多くの創意工夫が不可欠だな、と強く感じました。今後の課題です。宿題としましょう。

武田康弘

 以下は、後半の自由対話時間中の一こま。

キム・テチャン
 参加者同士の対話。
荒井
おなじみの荒井達夫さんのコメント
キム・テミョン
こちらもまたお馴染みの金秦明(キム・テミョン)さん
主催者
主催者側のお一人、3回を通して参加。
こんな講座は生まれて初めて経験したと、
少々興奮気味にコメント。

 以上で終了、なんですが自由対話はさらにアルコールが入って活発になりました(懇親会の話です)。雰囲気伝わりますでしょう?
『そりゃ、違いますよぉ!』、『え〜、なんでぇ?』、『きゃあ、アハハ・・・』
懇親会

 さて、講座のテーマは、『「主観性の知としての哲学vsキャリアシステムを支える思想」』ですが、実はこの講座のたたき台になった論文【「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念】は、以前お知らせしたように、参議院調査室からの論文依頼 『「国家公務員制度改革とキャリアシステム」 について』に対する回答論文そのものです。
 公務員制度の問題は長年さまざまな人が指摘し、実際に制度改革が行われてきました。しかし、実効があったかといえばNoでしょう。これは教育改革にも似て、制度を多少いじった程度で解決するような問題ではないことを意味します。もっと根源的に、私たち自身が抱える歪んだ想念というものに正面から立ち向かわねば解決できないように思います。その『歪んだ想念』を鋭くえぐりぬいたのが、この論文です。是非、じっくりご覧になってください。これは【学】や日本の【教育】が抱えこむ根源的問題にも通底すると私は信じています。

 それでは皆様、良いお年を。


「キャリアシステム」を支えている歪んだ想念

武田 康弘(哲学者、白樺教育館館長、我孫子市白樺文学館初代館長)

 キャリアシステムとは、明治憲法下において行われていた高等文官試験制度(1887年に制定された「文官試験試補及見習規則」がその原型)の残滓ですが、その実態は、悪しき官のエリート主義=東大法学部支配です。これを真に廃止するためには、何よりも先ずそれを支えている想念の明晰化が必要ですので、以下に記します。
わたしは、わが国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」と名づけていますが、これは、哲学的に言えば客観学への知の陥穽といえます。日々の具体的経験に根ざした主観性の知の追求がないのです。日本の教育では、私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに困った問題です。
また、これと符合する、クイズの知・記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。
人間の生についての思索をパスし、主観性の知を中心に据える努力を放棄すれば、後は客観学の集積を自己目的とするほかなくなりますが、それでは知は生のよろこびとは無縁となり、かえって人間支配の道具になり下がります。生々しい人間の生と現実までが、既成の知と固い概念主義の言語の枠内で管理される対象に貶められてしまうわけです。そのような管理を公(おおやけ)として人々の上に立って行うのが東大法学部卒の官僚である、というのが明治半ば以来100年以上に亘ってキャリアシステムを支えてきた暗黙の想念でしょう。この非人間的な想念は、わたしが「東大病」と呼ぶ客観学への知の陥穽と表裏一体をなし、堅固な序列主義とステレオタイプの優秀者を生みました。
明治の国権派であった山県有朋らは、自由民権運動を徹底的に弾圧し、天皇神格化による政治を進めましたが、「主権者=天皇」の官吏として東大法学部の出身者を中心につくられた官僚制度は、客観学の集積によってふつうの人々の「主観性の知」を無価値なものとする歪んだエリート意識に依拠しています。その意味で、天皇教による近代天皇制と、キャリアシステムに象徴される官僚主義と、受験知がつくる東大病は三者一体のものですが、人間の生のよろこびを奪うこの序列・様式主義は、明治の国権派が生んだ鬼子と言えます。
現代の市民社会に生きるわたしたちに与えられた課題は、民主主義の原理に基づいて国を再構築するために、いまだに清算が済んでいないこのシステムを支える想念を廃棄していく具体的努力です。客観学の知による支配を打ち破ることは、そのための最深の営みなのです。
読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。
従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます。このことは、わたしの32年間の教育実践(小学1年生より大学生・成人者まで)と哲学的探求から確実に言えます。では、なぜ、この不幸な逆転に長いことわが日本人は気付かないできたのでしょうか。それについては、わたしが『主観を消去する日本というシステム』(ブログ「思索の日記」2006年1月10日))に簡明に記しましたので、以下に写しましょう。

 封建制の武家社会と符号した「型の文化」は、明治に輸入された近代ヨーロッパ出自の「客観学」と織り合わされて日本的な様式主義・権威主義・序列主義を生みました。
山県有朋らが明治半ば(1880年代後半)に固めた天皇神格化による政治は、主観の対立が起こる前に主観そのものを消去する様式道徳を植えつけることによって可能になったのです。近代天皇制とそれを支える東大法学部卒の官僚支配の社会は、型の文化と客観学の融合がつくり出した「個人を幸福にしない世界に冠たるシステム」だと言えるでしょう。
豊かな主観性を鍛え育てる古代ギリシャ出自の恋知(哲学)や古代インド出自の討論は無視され、主観性とは悪であるかのような想念が広まったのです。曰く「君の意見は主観である」(笑止です−主観でない意見とは意見ではありませんから)。したがって日本の勉強や学問とは、パターンを身につけ、権威者(出題者)に従い、人の言ったことを整理して覚えることでしかありません。決められている「正解」に早く到達する技術を磨くこと、エロースのない苦行に耐えることが勉強だ、というわけです。
これで主観性−主体性が育ったら奇跡です。自分の意見を言ってはならない、これはわが国の基本道徳です。主観とは悪だ、という恐ろしい国で自説を主張する人は、数えられるくらいしかいません。日々の具体的経験から自分(主観)の考えをつくり、情報知や東西の古典に寄りかからないで話すことのできる学者が日本に何人いるでしょうか。自分から始まる考えと生=主観性のエロースを育成することが抑圧され、集団同調の圧力が日本ほどひどい国は、一部の独裁国家を除いてはありません。個人の思いは「考え」として表出されること自体が悪とみなされるのです。和を乱すな!です。客観学に支配され、まっとうな知(官知ではなく民知)が育つ土壌がないのですから、型はまりの紋切り人、先輩の言を守るイエスマン、古典を引用するだけの暗記マンしか出ないのは当然です。
このように同じ土俵で右派と左派が対立しているだけという不毛性から脱却するための基本条件は、客観とは背理であることの明晰な自覚に基づいて、主観を鍛え、深め、豊かにしていくことです。皆が納得する普遍了解的な言説は、魅力的な主観からしか生まれないはずです。のびのびと楽しく主観性を表出することができる環境をつくること、それが日本社会をよく変えていくための第一条件です。エロース豊かな魅力ある個人の育成なくしては何事も始まりませんから。
おぞましい主観主義やヒステリックな自己絶対化は、「自由の行き過ぎ」が原因ではなく、それとは逆に、あらかじめの正解を強要する客観主義の想念に個人を閉じ込めておいた上で自分の意見を求めるという矛盾した要求−虐めのような主観消去の詐術が生み出すものです。個人の輝きを発揮させずに元から消してしまう「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン)は、主観をその深部で殺す仕掛けによってつくられています。その中で弱い一人の私が入手できるのは、ただの「わがまま」だけということになります。
客観神話が支配する精神風土の中では、わがまま(自己絶対化)の領域拡張に精を出す以外に個人の生きる術がありません。制度によって自己実現が保証された一部のエリートを除いては。私(主観)の感じ方、心、思い、考えが尊重されずに、制度知の示す正解・権威的な人や組織が与える正解を日々暗黙のうちに強要される環境のもとでは、ひとつメダルの裏表=主観主義(自己絶対化)と客観主義(官知・制度知・権威知)が交互に提示されるだけという不幸で愚かな不毛性の世界からの脱却は困難です。
客観神話に呪縛された社会の中では、はっきりと堂々と主観を述べる個人が出ないのは当然の話です。主観が主観として存在しないこと−それが日本社会の最大の問題なのです。いま一番必要なのは、上下意識やありもしない正解(客観)に脅迫される観念を払拭する思想的、実際的努力です。恐ろしいことに、私たちの社会では、主観は主観になる前に消去されているのですから。

 以上ですが、
このような「客観学」の集積に依拠したエリート意識がまかり通る知的環境においては、個々人の豊かなエロースが花咲く文化は生まれようがありません。そのステレオタイプの知が生む象徴の一つがキャリアシステムであり、それは客観神話の精神風土がつくる悪しき「文化」なのです。いま皆でこれを支えてきた歪んだ想念を廃棄する仕事に本気で取り組まなければ、わが国の未来は開けない、わたしはそう確信しています。貴重な一人ひとりの主観性の領野を大胆に拓き、それに依拠する自前の民主主義社会をつくり出していきたいものです。

※参議院発行―『立法と調査 別冊・特集号―国家公務員制度改革とキャリアシステムに関する意見調査』―2008年11月28日発行 武田康弘の部分(50〜52ページ)のみ


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76. 市民自治を創る
75. 12.23 キムさん・タケセンを軸にした白樺討論会〈第5回白樺討論会〉
74. 12.9〈第4回白樺討論会〉 山脇氏・武田氏
73. 10.8〈第3回白樺討論会〉 稲垣氏・古林氏
72. 9.9〈第2回白樺討論会〉 山脇氏・荒井氏
71.「白樺教育館の活動は、日本における注目すべき動向」 ―高い評価を頂きました
20.問題提起としての書評 -「公共哲学とはなんだろう」-
69.『6.3金さんとの対話』の感想 ー 染谷裕太、中西隼也、 中野牧人、楊原泰子、古林 治、清水光子(+川瀬優子)、 舘池未央子
65.民知・恋知と公共哲学
64.民知=恋知とは?(柏市民新聞・依頼原稿)
63.8・7会談−竹田青嗣氏・山脇直司氏・武田康弘氏
61.民知宣言!「公共哲学」編者ー金泰昌氏来館・会談


2008年12月30日
古林 治

 
 
 
 
 
 
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