以下に、タケセン(館長・武田康弘)70年の実存の冒険、「恋知への道のり」を紹介します。
長いので前編と後編に分かれてます。じっくりご覧になりたい方は、PDFにまとめてありますので、そちらをダウンロード願います。
少し経緯について触れます。
タケセンは、これまで「丸刈り強制撤廃運動」、「千葉県初の市民派市長誕生」、「白樺文学館設立」、「白樺教育館設立」、「公共哲学論争」など、前例のない革新的な社会活動の中心的存在となってきました。また、こどもたちのダイビング(伊豆七島でのキャンプ&ダイビング)の草分けで、43年間(1976年~2019年、ここ3年間はコロナ騒動でキャンプ場閉鎖)続けてきました(「月刊マリンダイビング」誌に10年連載)。
と同時に、ほんらいの意味での哲学者(恋知者)ですが、その事実を話しても誰も信じてくれません。
「そんなバカな、一人でそんなこと、できるはずがない!」 と咆える人。
あるいは、
「バックは一体何だ? 誰なんだ?」 と詰問するような人が後を絶ちません(笑)
そういうわけで、実感として理解してもらうには、タケセンのこれまでの「実存としての生」=体験を時系列に赤裸々に描いてもらうしかないと常々考えてきました。 それがようやく実現することになったというわけです。
じっくりご覧ください。
※「恋知への道のり 20年間の身体の闘いと、 私が輝く私塾と哲学の切り開き。」
=>PDF (5.3MB 2022年11月6日 初版第8刷)
20年間の身体の闘いと、
私が輝く私塾と哲学の切り開き。 (後編)
福嶋我孫子市長誕生までのドラマ 舞台裏を今だから明かせます。
これは、全くの偶然ですが、95年1月の千葉県初の市民派市長=福嶋浩彦市長誕生へと結びつき、翌年の情報公開条例の施行は、なんと福嶋さんの手で行われることになりました。実は、福嶋選挙を実際に行うことになったのはわたしなのですが、その4年前に始まる長いドラマがあるのです。今ならすべて明かせますので、簡明に記してみます。
わたしの発案ではじまった福嶋市議の 『緑と市民自治』紙(新聞折込で我孫子市全戸に配付)の編集(注1)はいつもわたしの自宅でおこなっていましたが、1990年の春、来年1月の市長選は、市民から候補を出したらどうでしょうか、との福嶋さんの話しに、わたしは、それはよいと応じ、市民運動をしている幾つかのグループに呼びかけて運動がスタートしましたが、なかなか候補になる人を見つけられず、坂巻さん(今の坂巻宗男市議の父で故人)が候補にあがりましたが、我孫子市の現状を変革するという点では疑問との声があり頓挫しました。そこで社会党の県議で市民グループとも近い栗山栄子さんに女性陣がお願いしましたが、現職との一騎打ちで勝つ見込みが少なく、1月の市長選の後にすぐ4月に県議選があるので、とても無理と断られ暗礁に乗り上げました。福嶋さんは、候補者が決まらなければ自分が責任をとって出るしかない、との思いでしたが、新左翼運動で筑波大学を退学になり、まだ力のない福嶋市議では選挙にならない、次はないので彼のためにも市民運動にもマイナスだと思い、悩みました。
わたしは、前年89年にNHKブックス「現象学入門」を出した竹田青嗣さんの見事な現象学解釈を広めるために、90年9月24日(祝)に我孫子市民会館で「ほんとう」とは何か(真理論)と題する講演と対話の会を催し、全戸配布の『緑と市民自治』紙に詳細な案内を出しました。これは従来のマルクス主義的な発想を認識論の元から断ち、新たな社会=市民運動を支えるための試みで、世界でまだ誰も取り組んだことのない画期的なものでした(自画自賛ですがホントウです)。この日は、福嶋さんは韓国に行っていて会にはでれなかったのですが、栗山栄子さんは聞きに来ていて、会が終了しても残っていました。
竹田青嗣さんと栗山さんと私の3人になりましたが、竹田さんがトイレに行っていた3分間で話しをつけました。わたしは栗山さんにどうしても市長選に出てほしい、その変わり、栗山さんが懸念している2点を解決する約束をしました。以前より栗山さんはわたしを信用していましたので、即座に了解してくれました。これで市長選は堂々とした選挙になる、日本初の女性市長を我孫子市から!とのキャッチフレーズは面白く意義深いし、福嶋さんがおわりにならなくて済む、ホッと安堵しました。
わたしと激論して生き方を変えた佐野力さん(哲学研究会の中心メンバーでS&I社長、この後すぐオラクル初代社長)に選挙のトップをやってもらおう~~~これらを一瞬で決めました。
この選挙は女性市長が誕生するか(当時は日本には女性市長はいませんでした)と話題になり盛り上がりましたが、わたしが予想していた通りに負けました。2.5万票 対 2万票。票差もほぼ予想通りでした。
その4年後の春、またわたしの家で編集中、福嶋さんと二人で話していて、今度の市長選は不戦敗でもいいか、大きな選挙をやるのは大変だからね、と。正直なところ精神的な疲労感が残っていたのです。
ところが夏になり、事態は急変。いまの大井市長では能力不足でどうにもならない、福嶋さん、やらないか、と保守系4人の市議から声がかかったのです。保守系と社会党(今はないが)の市議で福嶋さんを推す、これは行政を変えられる千載一遇のチャンス、千葉版にも福嶋さんの記者会見が載りました。ところが、状況が不利になり、今まで市長選のたびに巨額の選挙資金を使ってきた大井市長は親戚の説得で降りることになり、福嶋市議一人が先行することになりましたが、秋谷明市議が名乗りを上げ、続いて新進党の松島わたる市議も名乗りをあげました。このまま三つ巴になれば、保守系が分裂なので勝てる見込みがありますが、一本化されればとてもかないません。
そこで、わたしは、親しい柏市の松崎公明県会議員(後96年より衆議院議員)に極秘の頼みごとをしました。外で合うのはマズイので、白山の村田源子さんの家を借り、じっくり話しました。わたしは以前から福嶋さんを松崎さんの家に連れて行き、社会問題や政治やらの談議をしていましたので、彼の人柄や考え方は松崎さんも知り、評価していました。そこで福嶋市長誕生に力を貸してもらったのです。秋谷さんも松島さんも親分格の松崎さんの家には行きますので、二人に、「互いに切磋琢磨してガンバレ!」とエールを贈ってもらうことにしたのです。一本化の逆をお願いしたのでした。彼はもう故人になられてしまったので語れます、証人は村田源子さんただ一人です。
最後までねじり合うような激しい激戦になり、途中で福嶋夫人の夏子さん(故人)は不安から周囲の人を驚かせる行為もしました。わたしは、夏子さんに約束しました。「必ず勝つ、今までみなわたしの言った通りになってきたよね。心配しなくていい」と。
3枚目の大前研一さんの推薦ビラを選挙前々日の明け方に仕上げて印刷所に運びましたが、これはおじさん層には効きました。その前に「緑と市民自治」で、わたしの教え子中心に若い子が顔写真入りで訴えた新聞は、画期的で、11万部刷り、新聞折込で2回入れたほか手配りでも2万枚。
選挙結果は、福嶋浩彦(38才民主リベラル)16,462 秋谷明(53才自民党系)15,091 松島わたる(59才新進党系)11,111 藤本正利(65才共産党)2,312
他陣営からは、女こどもの選挙とばかにされ泡沫候補とまで言われた私たちが勝ちました。
白樺文学館をゼロから創りあげる。
1999年2月に始まる「白樺文学館」をゼロからつくる作業は、わたしの人生の中でも最も忙しい時でした。わたしの哲学研究会の熱心な参加者でわたしとの討論=激論の中で人生を変えていった佐野力さん(日本IBM営業部長⇒S&I社長⇒日本オラクル社長)の発案で『志賀直哉文学館』としてスタートさせた事業でしたが、直哉の長男の直吉さんから「父の遺言により記念館の類をつくることは一切お断りします」との手紙が届き、頓挫してしまいます。そこでわたしの発案で9月半ばから『白樺文学館』として再スタートをすることになりましたが、そのドラマは【白樺文学館創成記】に詳しく記しています。面白い=凄まじい(笑)と思いますので、ぜひご覧ください。
土地の買い取り、理念づくり、資料取集、建物のコンセプトづくり、細部の決定、すべてをわたしがやりましたが、それについては、【創成期】をご覧いただくとして 【誕生秘話の4】のみを以下に転写します。
大沢家にて.左から武田、大澤夫人、周さん(武田の絵を描いているところ).
2000年6月10日 撮影:大沢治平さん 大沢家にて.左から武田、周さん.完成した絵を受け取る瞬間.
2000年6月10日 撮影:大沢治平さん 熱心に写真に見入る周さん.
武田宅で. 撮影・武田康弘 白樺派の5人
画・周剣石さん(現在、中国精華大学美術学院教授) 白樺文学館パンフレット
(12ページ・発行5万部) |
● 誕生秘話 ●
4.白樺派の5人- 肖像画(周剣石・画)
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参考 | |
(1) | 白樺文学館 開館顛末記 「 9.佐野さんのこと、周さんのこと 」 白樺文学館オリジナルホームページより |
(2) | 白樺文学館 開館顛末記 「13.文学館の顔、小林多喜二への書簡」 白樺文学館オリジナルホームページより |
2009年 5月9日 武田康弘
続けて『白樺教育館』の建造と理念と現実。
わたしは、白樺文学館のすべてをつくり、2001年1月11日の開館のあと、8月末までは館長として運営にあたりましたが、その後は、本職に戻り、『白樺教育館』の建造に全精力を傾けることになりました。なんと超がいくつもつくハードな展開でしょう~~(笑)
まず、2001年秋から始まる教育館建造は、当然のことながら理念づくりからスタートさせましたが、建設費用の捻出には頭を悩ませ、とても苦労しました。文学館の所有者は佐野さんでしたが、教育館は土地も建物もわたしの所有ですから、う~んどうしよう。
佐野力さんは、わたしとの出合いで人生が変わり、日本オラクルの初代社長となり、9年後に株式店頭公開で巨額、否、超巨額のお金を得たのですが、経営の爆発的な成功を支えたのは毎週土曜日の6時間にもわたる拙宅での哲学研究会での学び=わたしが提示した思想でした。また家族ぐるみでの長年の親交もありましたから、教育・文化事業へのメセナになってくれるのでは、という希望を持ちましたが、佐野さんには個人メセナをする考えはありませんでした。
わたしは2年6か月間の仕事=文学館のゼロからの創造と館長を辞す退縮金として手取りで約2500万円ほど(総額は3000万円)を頂きましたが、これでは新たな教育文化事業は不可能で、建物だけでも無理です。そうした事情を妻の父に話して、建物については資金を出してもらうことになりましたが、限度いっぱいでも建築費用にとどきません。大成建設は、わたしの強い情熱と文学館建設も大成を指名たこともあり、また自宅も大成パルコンでしたので、大幅な値下げで協力してくれました。後から変更した追加の費用もゼロ円で、とても助かりました。
わたしの私塾の発展
我孫子児童教室⇒ソクラテス教室(白樺教育館)
1976年に私塾を古い平屋を借りてはじめました。全学議長として高校改革を成就させて、大学時代は現代日本の問題の根を哲学次元で探るために猛烈に勉学しましたが、それに応える教師はいないので独学と同じでした。日本の教育は元から間違っていることを強く実感していましたから、自分の考えとやり方を貫ける【私塾】には大きな魅力を感じて、多少でもお金が貯まったらすぐにはじめようと決意していたのです。
24才の時に一人でスタートさせましたが、何も分からず、家庭教師以外の体験もなしでした。先の見通しが立たず不安で指先まで痺れてしまうような日々でしたが、やりがいと面白味はたっぷりで、日々、新しいアイデアの現実化のために奮闘しました。生徒募集には、ガリ版で相当に過激な(笑)教育批判を書いたチラシをつくり、一軒づつ歩いて説明して回りました。4人からのスタートでしたが、2年後に急に生徒が増えて30名以上になり、授業も毎日が創意工夫の連続で、クタクタになるほどの充実。
でも、それは今日でも同じで、新しい子が入るとその子のためにどうするか、を考えます。進学教室に通わされてスレてしまった子への対処はうまくいかないこともあります。意味を掴(つか)もうとする基本がなくパターン知を仕込まれていると、意味論(哲学)としての知を獲得させることが困難になるのです。まだ小学生低学年だと、知を身体化させることが可能で、ただのやり方ではなく、中身・内容としての知(広義の哲学する知)が育てられますから、本人もわたしも楽しく、よろこびがあります。深く仲良くなれます。親も理解→了解し、協力する姿勢が必要ですが、頭も身体も固さがとれて、柔らかくしなやかになるので、知は対象物ではなく、生きて自分自身のものになります。身体化されるのです。
この最初の教室(我孫子市寿、緑との境-上の写真)は、二部屋あわせて9畳の畳部屋で、昔ながら汲み取り便所、わたしも始めての経験で水はいりません(笑) 1976年~1982年まで6年間でした。その後、友人の飯泉善充さんから誘いがあり、今の場所(我孫子市寿1-20-1)に引っ越したのです。
我孫子で友人となった飯泉善充さんが観賞用と食用の川魚を売るために、簡素な建物を建てたのです。その一室(1階の右側)を教室として使ったらどうか、家賃は今と同額で、という話しだったので快諾したのです。1982年からです。
14年後に善充さんが成田に養魚場を借り、引っ越すことになった為、わたしの思想と教育実践を応援してくれていた善充さんの父の飯泉ひろしさん(ひろしは決の字のつくりの部分が央なのですが、漢字変換ができませんのでひらがなで書きます)が、建物付きで土地を格安で譲ってくれることになりました。ただし、私塾だけの年収では銀行では借りられないと思いましたが、ひろしさんの友人で本町で材木商を営む横山さんが千葉銀行に話すと、無条件ですぐ貸してくれました(ビックリ)。教室を2階にして、1階を阿部事務所と合同オフィスに貸した賃料で毎月の返済ができましたので、ラッキーでした。
ただし、2階は改装しないと使えませんでしたので、業者に頼んで改装しましたが、できることはわたしと教え子でやりました。幼いころから来ていた有紀子ちゃんはずっと通って手伝ってくれましたし、高校1年の森君と息子の弘人も大学生たちも棚や机の組み立てをしてくれました。
振り返ると、95年が全力投球の福嶋市長選。そして、96年の春休みに改装をした後、99年から文学館の建築・創造がはじまり、それが2001年に完成すると、2002年から教育館を建造するという超超高密度な時間となりました。よくぞまあ死ななかったもの~~(笑)
いや、2002年後半には自宅を新校舎ができるまでの教室に改造する工事も行った!
土地の広さと形(変形四角形)に合わせて、綿密な位置取り、内部空間の設計、細かな寸法取りを終え、予算をなんとか工面して、2003年に片付け、引っ越しをし、解体作業、その後、基礎の基礎として固い岩盤層まで6メートルの鋼管を262本打ち込み、その上に大きな基礎をつくり、建前へと進む。片付けは大変な作業で、角松旅館の長女・さよちゃんが連日お手伝いに来てくれ、引っ越しは、鎌ヶ谷とわの会の面々と阿部憲一君。みなさんどうもありがとう~~~。
この後の具体的な建造にまつわる話しはたくさんありますが、書いたらキリがないので、すべてカットしますが、この土地には因縁があります。
わたしが長年親しくお付き合いしてきた故 飯泉ひろしさんが格安で譲ってくれたものですが、飯泉さんは、白樺派の柳宗悦、兼子夫妻や志賀直哉と親交があった我孫子でも唯一と思われる一家です。ただし、そんなことは、わたしのみならず、誰も知りませんでした。
ところが、わたしが『白樺文学館』を創るとき、柳宗悦全集の書簡集を読んでいたら「飯泉さん」という言葉が何度も出てくるので、ひろしさんに話して書簡集をお見せすると、「ああ、これはわたしの父親のことで・・」と思い出話をされたので、はじめて白樺派と深いつながりがあることが分かったのです。
この新発見の事実は、「我孫子の文化を守る会」から依頼された20周年特別講演会で発表しました。白樺教育館ホームページ 「飯泉賢二さんのこと」をご覧ください。
念願の新校舎ができ、 お披露目パーティーを2004年2月1日に行いました。61名の方がかけつけてくれました。お祝いの音楽は、ベートーヴェン合唱幻想曲でラストの盛り上がりは強烈!
【恋知】(ソクラテスの造語=プロソピアの直訳語)の実存思想による教育と活動は、ここから更に発展して今日に至っていますが、今年は、白樺教育館活動を支える社団法人「白樺同人社」もできました。ワクワクしますね~~~。教え子の西山裕天君が煩雑な手続きをしてくれました。
白樺教育館のさまざまな情報は、 ホームぺージ「白樺教育館」に詳しく載せてありますのでご覧ください。副館長の古林治さんの製作です。 文学館のオリジナルホームぺージも 文学館創成期もみな古林さん製作。
『ソクラテスのフィロソフィー』の核心を簡明に記しましょう。
ソクラテスのいう恋知=哲学の核心。
恋心がなければ、人間の現実は成立しません。
わたしたち日本人はとりわけ誤解していますが、 現実の損得利害という次元も、憧れ想うという恋する次元に支えられなければ、ほんらい成立しないのです。
ものやお金、さまざまな知識、それらがどれだけあっても価値は生じません。
そこに意味と価値を生じさせるのは、惹きつける=魅了するという作用です。それは「恋心」と呼ばれますが、何かに惹きつけられるという恋心が生じることで、はじめてわたしたちを取り巻く世界は意味をもち、色づきます。灰色の世界から彩色の世界に変貌するのです。
だから、ロマンや理念の世界が豊かに広がることがないと、人間にとっての現実は成立しないのです。色を失った魅力のない事実人(犬ではなく人であるというだけ)と事実学(意味論のない受験知)だけの世界に陥ります。
多くの日本人は、この人間の生の原理を知りません。逆転しているので、いつまでも不幸です。
小学校から大学まで、このフィロソフィーの根本意味を教えていません。だから、恋心にとらわれることなくしては、ほんらいの学も知も成立しないことを知らないのです。ただの「事実学」の羅列、その取得-暗記に耐える苦行が知や学だとしています。意味論=本質論こそがほんらいの知であることを教えない教育は、人間抑圧のアイテムにすぎません。昔の白黒映画「ローマの休日」は、恋が人を人間に変えることを教えています。
古代ギリシャ神話で、規則主義・管理主義で厳禁の精神=「必然の神アナンケ」を打ち負かしたのが、「恋心の神エロース」です。人を支配するという発想をもたないエロース神が世界の中心になってはじめて、外的秩序の強制(古代王政)から、一人ひとりの自由と悦びの内的秩序による国(ポリスの民主政)が生まれました。
エロース(惹きつけるもの・恋心)は、『個人』の中にしか生じませんし、また、個人はエロース豊かに生きることで、わたしの存在を肯定でき、意味充実の生の世界を拓くことができるのです。
ギリシャ神話のエロースが、なぜフィロソフィー(恋知・哲学)の神なのか?
プラトンによるソクラテスの対話編で、世界文学の古典として名高い『饗宴』は、エロース=恋愛の話ですが、そこでは、エロースについていろいろ語られます。
ギリシャ神話で、エロースは最も古い神です。世界の始源、混沌・カオスからはじめに生まれたのがエロース(恋愛)とガイア(大地)とタルタロス(地底)です。
エロースはまた別の話では、美の神アフロディティ(別名ヴィ-ナス)の子どもとも言われます。
男神エロースと人間の女性ブシュケーの愛の物語は、甘美でこども向けのギリシャ神話にも紹介されていて楽しく魅力的です(これはローマ時代に付け加えられたお話ですが、ブシュケーの話はまるで親鸞の「他力思想」の神話版のよう)。
大地(物質)があってもそれだけでは「無」と等しく、何も起きず始まりません。恋愛=惹きつける作用が生じることで、あらゆる出来事が生まれ、あらゆる事象に意味と価値が生じます。
ゆえに、始源なのです。
ソクラテスによる造語であるプロソピア(フィロソフィー)とは、「恋愛」と「知」を足した言葉であり、プラトンがつくった史上最も名高い学園『アカデメイア』(私塾のような自由な学園)の主祭神が恋愛を象徴するエロースなのは、その惹きつける=恋い焦がれるという作用こそが、あらゆる人間活動の始まりだからです。
動かす作用こそ始発であり、それは、何かに惹きつけられる=恋するという「心」の作用です。その作用を起こさせる神が、エロースなので、エロースは特別な神とされました。
ギリシャ神話の神々のトップはゼウスですが、ゼウスもエロースのいうことはすべて聞かねばならず、エロ-スには誰もかないません。エロースはその矢で熱烈な恋心を起こさせるので、支配者ではないのですが、誰も逆らうことができません。
「恋知者(哲学者)とは、この世の支配者をはるか下に見下ろす者である」と『国家』の中でソクラテス・プラトンがいうのは、そういう含意です。
善美に憧れ、真実を求める人間の人間的な心=精神は、エロースがもたらすもの、惹きつけられ、憧れ思う作用=恋愛こそが一切の始源である、この卓見が古代ギリシャのソクラテスを特別な存在にしています。
わたしの想いと考えと行為
わたしは、何かするとき、それが世間的に価値があるかないか、とは考えないのです。意識して考えないというのではなく、自分がやりたいと思うと、そこに向かってしまいます。
だから、なんでも私にとっては自然です。【私塾を開こう!】と思ったのは、学校教育(東大病)はよくない、面白味がなく、競争主義で、変な人間を育てている、だから、わたしが人間味ある教育に挑戦するぞ!それは凄く価値ある仕事でドキドキする、そんな感じです。
哲学というのも対象として哲学という学問がある、とは始めから思っていませんでした。哲学(正しくは恋知)すること、何がホントウかを知ろうとする探求心があり、燃えるのです。だからわたしには、大学で哲学を修めるというのは無意味なことでした。哲学とはわたしの生き方、わたしの存在し方のことで、対象物ではないのです。わたしが哲学なのです。
どうもそのようなわたしの思いや考え方が、世間一般とはズレているようなのですが、それはわたしの幼少期からの体験が影響しているのでしょう。わたしには、世間価値に従う心がとても少ないのです。すべての価値はわたしが生み出します。実存とは学問や思想のことではなく、生身のわたしの生のことです。実存の冒険は、わたしの心にある善美への憧れであり、わたしにとっての真実の追求として行なわれます。自他のエロースを豊かにし広げていくためにね。
一般的によい、一般的に優れている、一般的に価値がある、というのでは、生きるに値しないのです。わたし自身が心の底から納得する=腑に落ちるという深い私性=普遍性を目がけて生きてきましたので、どうも一般人とは折り合いが悪いのです。
●恋知・実存・公共マークの意味 自由・理性・愛情について。
自由は、人間性の土台。「自由から逃れることはできない」「自由の刑に処せられている」(サルトル)という逆説的言い方もあるほどです。自由は、人間存在の原事実です。人間的な生を可能とするには、自由であることを明晰に自覚することが必要です。
理性は、部分的な知識=各個別学問の足し算とは次元を異にする頭の用い方で、総合的な判断能力のことです。分析的な能力と記憶により得られる知ではなく、それらを手段として用いながら、全体的・立体的な総合判断をする力です。
そのためには、自身の体験に基づく身体性を伴う認識をベースに、全体を俯瞰する直観知を磨くことが必要です。「論理ゲーム」を超えるセンスとイマジネールの豊かさが求められますので、日々の生活仕方を工夫しないといけません。受験知がどれほど「優秀」でも理性は得られません。
愛情は、生命体としての根源で、愛情に乏しければ、すべてに意味がなくなります。愛情とは言葉ではなく、心身全体から発するよろこびの感情です。愛情は海であり、理性は船です。海のない船には、意味も価値もありません。
自由を中心にもち、理性がそれを取りまき、愛情がすべてを包む。それがわたしの創った恋知・実存・共和マークの意味なのです。世界に広めたいと思います。
以下は、表紙のブレイクの版画と、エロース(キューピット)像の説明です。
表紙は、ウイリアム・ブレイク(詩人で版画家で画家・英国人1757年~1827年)の版画で、トマス・グレーの詩『詩歌の進歩』(雄大な叙事詩)に付けられた挿絵の1枚。
全12枚で、6枚を武田自宅、6枚を白樺教育館に展示しています。
白樺派の柳宗悦は、本格的なはじめての著作が『ウィリアム・ブレイク』(我孫子に移ってすぐに出版した800ページの世界水準を抜く大作)でしたが、晩年まで寝言で英語のブレイクの詩を口ずさむほど(兼子夫人の証言)敬愛していました。
なおこの版画の中央には小さなエロース(英語ではキューピット)が描かれていますが、弓矢の代わりにヴァイオリンをもっているのは、ブレイクの独創で素晴らしい! 音楽の神ミューズと恋愛の神エロースとは重なります。画は視覚ですがそれを超えた聴覚、特別な芸術としての音楽と詩を明示するアイデアは、ブレイクならではの卓越。
「エロース」はギリシャ語、英語で言えばキューピットです。史上もっとも名高いプラトンの学園「アカデメイア」の主祭神がエロースです。知や美や詩・音楽への恋心を表しています。 この写真の像はルーブル美術館にあるもので、紀元前ヘレニズム期の製作。素焼の優美なお人形、高さ33cm。
世俗価値=利害損得を超えた、善美への憧憬や真実の探求を目がける人間の心のシンボル(象徴)です。
2022年 8月 24日
武田 康弘 70歳