以上、飯泉さんの名が出てくる主だった箇所を「柳宗悦全集」第21巻上より抜粋してみました。この飯泉賢二さんの三男で、飯泉家を継いだのが、私と長年親交があり、今年亡くなった泱(ひろし)さんです。泱さんは、晩年までずっと数学と宗教学の研究を続けました。
泱さんは、子どものころ(現在の学制で言えば小学6年生まで)柳宗悦さん兼子さんに「テニスなどしてよく遊んでもらった。」と語っていました。下の写真は、その当時の飯泉さんの庭(我孫子町三丁目)に張ってあったテニスのネットです。
また、賢二さんの一番下(8番目)の娘さんが、現在、茨城県指定の文化遺産になっている「穂積(ほずみ)家住宅」に嫁いだ万里子さんです。
兼子さんの歌唱に魅了されていた賢二さんは、初めて生まれた女の子(万里子さん)に声楽の道を歩ませようとしてピアノを習わせ、お茶の水にあった芸大の分教所で声楽のレッスンを受けさせました。受持ちの先生は、兼子さんの高弟の一人-四谷文子さんでした。1949年の結婚披露宴には、柳夫妻もお祝いに濱田庄司の大皿をもって駆けつけ、兼子さんが二曲歌ってくれたのだそうです。 |
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