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35.飯泉賢二(いいずみけんじ)さんのこと
  ‐ 柳夫妻との親交 ‐

 前回触れたように、柳宗悦・兼子(やなぎむねよし・かねこ)夫妻と親交を持ち、タケセンとも深いかかわりのあった飯泉家についてタケセンから話をしてもらいましょう。


飯泉賢二さんのこと     武田康弘
- 柳夫妻との親交-

 今年―2003年1月15日に逝去された我孫子市本町三丁目の飯泉泱(ひろし)さん(1911年3月生まれ)と私は、長年にわたり親交をもち、寿一丁目の我孫子町役場跡の地所(「白樺教育館」建設地)を譲り受けたのですが、その泱さんの父―賢二さんのことは、今まで世に全く知られていませんでした。
 しかし実は、我孫子で柳宗悦(やなぎむねよし)兼子(かねこ)夫妻と最も親しく交わり、志賀直哉(しがなおや)を我孫子に呼ぶにあたって一番骨をおったのが、多才、多感な青年実業家で大地主でもあった飯泉賢二さん(1879年〜1959年)なのです。

飯泉賢二
  1920年代の
  飯泉さん
 (推定/
  下記の写真も同様)

 賢二さんは、初め大蔵省に勤務していましたが、すぐにやめて印刷業を起こし、その後、東京駅前の「丸ビル」内に事務所を構えました。

飯泉賢二 柳宗悦全集の書簡集に幾度も出てくる「飯泉さん」というのは、この賢二さんのことです。(この今まで知られていなかった事実は、2000年5月に私が「我孫子の文化を守る会」から依頼された20周年記念講演会「白樺派に学ぶこと」の中で初めて公にしました)

 以下に、「柳宗悦全集」(筑摩書房)第21巻上から、幾つか抜粋してみましょう。

 


 

「・・電報をうけとった日、すぐ交渉が始まって即刻まとまって了った、それも先ず最良に行った。・・・結局千五百八十円買うことにきまった、・・手付けは飯泉さんが百円だした、受け取りもすんだ、今度こそは大丈夫、金のワキザシだ。それで登記期日は今日から十日目と決めた。・・・委細は飯泉さんに頼む方がいいだろうから第一登記の時に用いる印を送ってほしい・・・登記の委任は飯泉さんに頼むからそう思っていてほしい・・・家を直す事の計画や指図はやはり君がもう一度見にきて大工にいいつけないといけないと思う、それで八月初旬ここへ一度来ては如何、飯泉さんの云うには東京の大工(物のわかる奴)を一人つれてきて、それに指示をさしてこの土地の大工をつかうのが、いいものが出来て安上がりだと云う事だ。・・・」(1915,7,16志賀直哉宛〔封書〕)


「・・そんなわけで弁天山と地所とをとり換えるようにするのはいつでも出来ると思う、それ故今は一先づ弁天山の方を定めて了うのが得策になる。右の事は飯泉さんと相談したが(地所の事は弁天山が駄目になった時飯泉さんが知らせてくれたのだ)飯泉さんは、どうしても弁天山の方が得だと云っていた。

康子様
 先日はお手紙を下さって有難う、又我孫子に御出になる様になった事を嬉しく思っています、人事に起る妙な偶然事を不思議に思います。兼子には飯泉さんから電話ですぐ知らせました、喜んでいるでしょう、・・・」(1915、7.17志賀直哉、康子宛〔封書〕)


「手紙受け取った、大変世話でもしている様に思われているが、そんな事はない。只君がいないだけ、空家と物を話している様な気がする、例の牧師に家をかす事は飯泉さんの反対でやめる事にした。・・・」(1915、8,2 志賀直哉宛〔はがき〕)


「・・・それで右の井戸を掘る価格見積もらせてみた、別紙の通りだ、高い様に思えるが勿論東京等でやらすより遥かに安いと家のものは云っていた。然し尚高い様に思えるから一応飯泉さんにも相談し、別の井戸掘人に見積もらそうと思う、・・・」(1915、8,18志賀直哉宛〔封書〕)

 以上、飯泉さんの名が出てくる主だった箇所を「柳宗悦全集」第21巻上より抜粋してみました。

 この飯泉賢二さんの三男で、飯泉家を継いだのが、私と長年親交があり、今年亡くなった泱(ひろし)さんです。泱さんは、晩年までずっと数学と宗教学の研究を続けました。

飯泉決
  在りし日の飯泉泱(ひろし)さん.
 ソクラテス教室の高校生の一人に数学を教えているところ。
(1984年)
かつての飯泉家。外から門を見たところ。
門

 

 泱さんは、子どものころ(現在の学制で言えば小学6年生まで)柳宗悦さん兼子さんに「テニスなどしてよく遊んでもらった。」と語っていました。下の写真は、その当時の飯泉さんの庭(我孫子町三丁目)に張ってあったテニスのネットです。


  かつてこの場所で、飯泉泱(ひろし)さんは柳宗悦・兼子夫妻からテニスを教わったといいます。左側が泱さん。
(1917年頃、推定)

 

 また、賢二さんの一番下(8番目)の娘さんが、現在、茨城県指定の文化遺産になっている「穂積(ほずみ)家住宅」に嫁いだ万里子さんです。


  穂積万里子さん.(左は武田百代さん、2002年12月)


  茨城県高萩市にある穂積家(1994年11月撮影).大きな旧家で、この敷地内にある池で映画のロケが行われたこともあります。映画の題名は『河童』、監督は石井竜也 です。

 兼子さんの歌唱に魅了されていた賢二さんは、初めて生まれた女の子(万里子さん)に声楽の道を歩ませようとしてピアノを習わせ、お茶の水にあった芸大の分教所で声楽のレッスンを受けさせました。受持ちの先生は、兼子さんの高弟の一人-四谷文子さんでした。1949年の結婚披露宴には、柳夫妻もお祝いに濱田庄司の大皿をもって駆けつけ、兼子さんが二曲歌ってくれたのだそうです。


2003年7月22日 古林 治

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