大分前のこと、2002年5月26日に白樺教育館にて、前にもご紹介した『柳兼子伝 -
楷書の絶唱 -』の著者 松橋桂子さんとの雑談会がありました。タイトルは[柳兼子の思い出話]。 『柳兼子伝 - 楷書の絶唱 -』というすばらしい著作がなぜ生まれたのか、まずその辺の話から。松橋さんの動機を尋ねてみると。 これほどの歌唱力を持った柳兼子という女性歌手は一体どんな人間であったろう。これほど魅力的な人間の生とはどんなものであったろう。多分それが個人的なきっかけだったと思う。 『柳兼子伝 - 楷書の絶唱 -』を読めば、その論旨、動機が明確であることは良くわかります。一方で、その膨大で正確、緻密な資料をどうやって手に入れたのか、そのあたりの苦労もちょっと聞いてみました。 兼子がベルリンへ発ったとき、あちらで兼子を出迎える夫妻のフルネームがわからなくてかなり苦労しましたね。著述の中で次の一節があります。 この事実を調べるため、麻布にある外交資料館で当時(70年ほど前)の海外渡航名簿(パスポート)の京都、新潟を調べまわってやっとわかったんです。 一つの例を挙げてみましたが、こうした作業を全編くまなくやったわけですね。気の遠くなるような作業です。書きたいことが非常に明確であること。それを実現するために手間暇を惜しまずエネルギーを注ぐ姿勢。私はウォルフレンの『日本権力構造の謎』にも通じるものがありますね、と尋ねると、私も武田さんの『1998年の私のエクリチュール』でウォルフレンを知り、大変共感を覚えました、と松橋さん。
さて、柳兼子という女性が一体どんな人物であったか、これは『柳兼子伝』を読めばわかるのですが、このあたりもっと突っ込んで聞いてみました。 朝鮮で初めてのコンサートを催したのは27-28歳の頃。当時レパートリーが少なかったので学生時代、学友が習っていたソプラノの曲も歌ったりしていたようです。また二度目のコンサートの曲目に最初のコンサートで歌った曲目を選ぶことは決してしなかったといいます。このあたり、兼子の聴衆への誠意と意地が感じられます。 また、その昔、音楽大学に入るためには、受験の成績、実力というより、それ以前からの教授陣とのつながりが求められたそうです。受験時にはそれがモノをいったのですね。兼子はそのことを公然と批判していました。こんな話も紹介してくれました。 東京下町で生まれた兼子の歯に衣着せない物言いは率直で真摯(しんし)であり、正当性に満ちており、当時の日本では中々受け容れられない性格であったようです。ただ一方でこんな一面もありました。 当時は時代が時代ですから、芸術家であり、一女性であると同時に、母親であること、主婦であることも全(まっと)うしていました。宗悦(むねよし)に対しても言うべきことは言うが、常に一歩身を引き、従うという婦徳も備えていました。 さほど強烈な個性を持つ二人、兼子と宗悦の関係はどうだったのでしょう。 - 生まれ変わったらとしたら誰と結婚しますか。 宗悦は兼子に対し、常に『自分自身の芸術をなぜ追及しないのか。』と厳しく迫りながら、宗悦自身の活動、白樺派の活動を支えさせ、なおかつ主婦としても母親としても完璧さを要求していたようです。歌に関しては兼子を一度も褒(ほ)めたことがなかったといいます。 一方、柳といることで、(資金集めとしての)音楽活動を続けざるを得ず、芸術論を闘(たたか)わし、社会活動を続け、さまざまな優れた芸術家(バーナード・リーチや 志賀直哉、あるいは 河井寛次郎など)との交流をもてたのも事実でした。おそらくそれがなければ、兼子は自身の上り詰めた高みに至ることはなかったのでしょう。 柳宗悦は思索ばかりでなく、現実の中でさまざまな活動を続けてきましたが、事実上、それらはすべて兼子によって支えられてきたと言っても言い過ぎではないようです。 ここに突出した生活者、創造者としての兼子と類稀(たぐいまれ)な知行合一の学者・思想家との稀有(けう)な出会いがあったと思われます。両者の関係は他人には知るすべもありません。 さて、本のタイトルは、『楷書の絶唱』ですが、【楷書】という文字が入っているのはなぜでしょうか。 兼子は母親から長唄や生け花などの習い事を最も厳しい先生につけられて徹底的に楷書を習わされたといいます。 柳兼子の公式ステージの最後は、門下生と開いた『清瀬保二歌曲の夕べ』でしたが、兼子の歌はまさしく【楷書の絶唱】であったようです。何とも意味深くまたドンピシャのネーミングです。ちなみに、最晩年のこの公演は松橋さんにとってとても重要なものでした。何と言っても、敬愛して止まない柳兼子、そして松橋さんの師でもある清瀬保二(きよせやすじ)の曲目だったからです。この【柳兼子伝 - 楷書の絶唱 -】は清瀬保二と柳兼子の追悼事業という意味合いもあったようです。 最後に、兼子が墓場まで持って行きたかったものを結果的に暴くような形になることはとても辛かったと松橋さんは言っていました。でもこんな話もあります。 ある日、柳夫妻の共通の知人たちが[兼子と宗悦]談義をしていたそうです。 この話を聞くと、この著書が現れたことをきっと兼子は喜んでいるだろうと私は思います。ようやく姿を見せ始めた白樺派の一人、柳兼子の存在はこの著書なしにはありえないわけですから。
1975年11月5日第一生命ホールにおける兼子83歳時のライブ。
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| 2002年10月9日
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