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  • 206. 天皇system+ismとは、集団同調ismを生み、理性を育てません

  • 206. 天皇system+ismとは、集団同調ismを生み、理性を育てません

     人々の自立を妨げ、集団同調を強い、深く考えることを阻害する何かがこの国の社会にはある、と指摘する人はいます。でも、その原因について触れる人はいません。避けているように見えます。
     その真の原因は一体何なのか、それを明らかにしようと試みたのが館長・武田によるこの論考です。公平公正な本来の民主制(共和制)実現のためには避けて通れない王道でもあります。
    きわめて重要な話ですのでじっくりお読みください。PDFファイルも準備してあります。印刷される際にご利用ください。
    PDFダウンロード=>

     なお、この論考は客観的に分析的に語ったものですが、一方で内的な視点から語った同様の論考があります。以下を参照ください。両方併せて読んでいただけると、より深く了解可能と思います。

    私と共和制  楽しい公共社会を生むために +人類思想の三分類と恋知

     


       天皇system+ismとは、集団同調ismを生み、理性を育てません

     日本には、平安時代前期の村上天皇を最後として、江戸時代の後期に光格が再び天皇を名乗るまで800年以上の間、天皇と呼ばれる人はいませんでした。 天皇は権力を失い、京都周辺のローカル王になったからですが、とりわけ鎌倉時代の承久の乱(1221年)で、仕掛けた側の後鳥羽院が完全敗北し、隠岐に島流しの刑となり同地で死去した後は、京都の西側までもすべて鎌倉幕府が治めることになりました(北条義時と姉の政子による)。
    法然とその門下親鸞など12名の僧を死罪・流刑とした後鳥羽院は、自らが島流しとなり最期を迎えたのでした(左図)。
     
     その後天皇家は細々と生き延びてきたのですが(権力欲に憑りつかれた後醍醐による南北朝の戦いは例外)、その存在は、明治維新が成立した後でも、とりわけ東国では天皇を知っている民衆はほとんどいませんでした。明治政府は看板に書いて広めなくてはならなかったほどです。

     いまの天皇制は、明治維新の岩倉具視や伊藤博文、山県有朋らがつくった「近代天皇制」と呼ばれるものですが、それは、祭事(まつりごと)や武士の政治権力を聖化する儀式をして生家を立てていた一家の長を現人神(あらひとがみ・生きている神)として崇める政府神道(明治政府がつくった国家宗教)です。この政府がつくった宗教の総本山が「東京招魂社」(官軍側の死者だけを国家の軍神として祀る施設)でしたが、10年後に名称を「靖国神社」と改め、日本の伝統の神社でもあるかのように装ったのでした。

     知恵者である岩倉具視(※)は、まだ民衆にはあまり知られていなかった天皇を知らしめ、意識させるために、新しい元号制度を考案しました。数年に一度変わっていた元号(天災が起こったり祝い事があると変えていた)を、天皇の存在と結びつけ、天皇と時代名を一致させる「一世一元」にしたのでした。これにより民衆は、いやでも天皇を意識するようになり、時代名として元号を使うことで時間感覚まで古代の王制のように支配され、天皇教として無自覚に心身に入り込むことになったのです。太平洋戦争敗戦までの明治憲法時代(主権者は天皇で現人神)も、敗戦後の新憲法時代(主権者は国民となり天皇は「人間宣言」をした)も、同じ昭和時代と呼ばれ、それを誰もおかしいとは思わないのですから不思議です。

    ※元「文芸春秋」編集長で日本史の半藤一利さんと立命館APU学長で世界史の出口治明さんは、岩倉具視を「最大の陰謀家でやりたい放題」・「一番のワルで良心の痛みを感じない人」と書いています.『明治維新とは何だったのか』 祥伝社2019年5月刊

     敗戦で主権者が天皇から国民へとコペルニクス的転回をして民主憲法となりましたが、マッカーサー(米軍)の意向で、天皇は日本国民統合の象徴とされて残りました。これは、天皇を絶対視する日本人の心(明治以降の洗脳教育による)を利用して、統治をスムースに進め、将来に渡り日本をアメリカの従属国とするために考案されたもので、「東京裁判」で天皇の戦争犯罪を免責して東条英機にすべて罪を負わせるストーリーとセットでした。

     この象徴天皇制では、憲法3条にあるように、「天皇の国事に関わる行為はすべて内閣の助言と承認を必要とする」で、天皇に自由はなく、時の内閣に利用される仕組み=構造になっています。皇族と呼ばれる人たちの人権は著しく奪われていますが、同時に驚くほどの特権を与えられています。

     日本の国民=人間を、天皇と呼ばれる人間が象徴するという「日本国憲法」第1条(マッカーサーによる)は、意味不明です。象徴(シンボル)とは、目にみえないものを見えるもので表すのであり、人間を統合する象徴が人間だというのは、不可解で異様な話です。こういう役をやらされる人間は、ふつうに人間らしく振る舞い生きることがでず、絶えず、なにかしらの典型であることを求められてしまいます。

     天皇には、日本国籍がなく、住民票もないので、海外に行くにもパスポートは発行されません(できません)。法律上は、日本人ではないのです。

     ですから、3億数千万円の収入(すべて税金からです)がありますが、所得税も住民税も健康保険料も払いません。住居は、天皇家の住まいである京都御所ではなく江戸城ですが、これにかかる費用はもちろん別途税金です。また、天皇家の人々をお世話する宮内庁という役所の予算は 180億円程度ですが、今年の代替わりの儀式にかかった160億円や葬儀にかかる費用(昭和天皇の場合は100億円程度)は、また別ですべて税金です。あちこちに土地や建物がありますが、それは明治政府の伊藤博文が国有地を天皇家の所有へと名義を書き替えたからで、天皇家とは無関係の財産です。

     このほか、何から何まで特別待遇ですが、自由はなく、人権は奪われています。衣食住の雑事も付き人が行い、天皇家に伝わる200以上の宗教儀式をするのが日課です。このような存在に、無条件に敬語を使い、頭を下げるのは、なぜなのか、答えられる人は誰もいないでしょう。天皇について問うこと、問いを発するという哲学の行為をするのは、タブーとされていて、テレビも新聞も当たり障りのない話しかしません。恐ろしいまでに不思議な国です。天皇陵だと宮内庁が主張する場所は、調査研究が禁止され、主権者のはずの国民は真実を確かめられません。それを平然と通すのですから呆れます。

     このように、日本では、疑いをもつこと、合理的に思考すること、理性(綜合的判断能力)を発揮することが悪いことのようにされてしまいます。
    技術の追求や、自然科学上の探求や、事実学の暗記(クイズの知)は、いくらでもできますし、それらが優秀なら高く評価されますが、「社会」や「歴史」や「人間の生」についての本質論・意味論は、喜ばれません。天皇制を前提にして天皇教的な心性をもてば、よし、とされますが、なぜ、どうして、何のため、と哲学的な問いを発し、実証的に調べたり合理的に考えることは嫌われます。単なる既存の知の体系としての事実学だけがあり、意味論や本質論の知(ほんらいは最も大切な知の中心と土台)がないのです。だから、昔から「日本に哲学(恋知)なし」と言われます。哲学までも、近代西欧哲学(17世紀のデカルトに始まり~20世紀のハイデガーで終わった)の本を読むこと、その解説本を受験参考書のようにして記憶することですから、救われません。

     大きなタブーがある国では、勢い、大元から考える、洗い直す、というほんとうに知的な作業を避けるようになります。そういう空気が蔓延してしまうので、理性(綜合的判断能力)が鈍麻し、表層的な知(受験知・単なる事実学)を貯めこむ人間ばかりとなります。まるでクイズの知の勝者が優秀と言わんばかりになります。日本の基準(=東大が優秀とする東大病)でいえば、記憶力の弱いエジソンは、馬鹿でしかなく、学校の勉強が嫌いで成績はせいぜい中くらい、高校は落第し中退したアインシュタインは、落ちこぼれに過ぎません。
    世界で最も有名な日本人作曲家・武満徹も高卒ですから、芸大卒の作曲家より下となります。こういう例は枚挙(まいきょ)に遑(いとま)がありません。根本的に考える人は受験知には向かないので、そうでない「優秀者」!?ばかりが優遇される国になってしまいます。

     人間の生や社会のあり方と歴史について、理性的に考え、本質や意味を問うのは、とても大切なことですが、靄(もや)が立ち込めて明晰化されない天皇ismの精神風土は、それを妨げる困った存在です。土台が曖昧なのでは、一人ひとりのよき生=内容の豊かな生を生みだすことができなくなります。
    国会の議員や内閣の大臣や裁判官も、コンビニの店員や芸人や学校の先生も、
    ノーベル賞受賞の科学者も、職業による差別はないので、みな「さん」付けでよばれますが、皇室の人だけは、赤ちゃんからお年寄りまでみな無条件で「さま」付けです。すべて敬語です。
    【陛下】とは凄まじい言葉で、階段の上にいる天子=天皇に直接話すことはできず、階段の下にいる護衛を通さなくてはならぬという意味です。民主制とは二律背反の陛下という言葉が生きて使われる国は、大元から民主主義=主権在民とは無縁です。

     小学4年生(弟)とお父さんの対話
    「天皇ってなんで偉いの?」「国民の象徴だからさ」「象徴って何?」「シンボルさ、日本人のシンボルなんだ」「へ~、みんなの代表? 選ばれたの?」「その家に生まれたからだよ」「そこの家に生まれると偉いの?」「うん、まあ昔からあって、遺伝子が続いているからさ」「?? でも、みんな遺伝子が続いてるよ、続いていないと僕もいないはず」「まあ、とにかく偉い家なんだよ」「????」

     小学6年生(兄)とお父さんの対話
    「社会の時間に憲法をやって、門地によって差別されないって書いてあったよ。門地は、生まれや家柄のことだって。皇室だけは特別なのはへんじゃない?」「明治のとき、政府が天皇家は神の系譜で、天皇は生きている神だとしたからさ」「ええ、そんなことほんとうに信じてたの?頭悪いね。それに敗戦して憲法が変わったのに、おかしいと思うよ。」「明治政府が日本の歴史は天皇の歴史だと決めたので、まあ、嘘なんだけど、それを今でも引きずっているし、保守の政治家は、そういうことにしておいた方が都合がよいと考えているんだよな。」「なんだか元からまちがっていると思うよ。」「でも、日本では、そういうことにして、頭を下げないといけないのさ。ノーベル賞の人も、天皇には頭を下げるだろ。理屈を言うと嫌われるのさ。」「???ずいぶん変な国に生まれたな~~~、嫌だな。」

    ★最大の陰謀家と言われる
    岩倉具視(写真)は、公家の出身.


     幕末、江戸幕府が鎖国をやめて開国することを決めたのに対して、天皇の意向を無視して開国を決めたのはケシカランと言いがかりをつけたのが、長州と薩摩の下級武士たちでした。彼らは、尊王攘夷(天皇を敬い外国を打ち払え!)を標語して江戸幕府を倒すために戦争(内乱)を仕掛けて勝利したのでした。もちろん、その後は、攘夷から開国へ転回したわけです。
     田舎の武士たちによる政権は、自分たちの権力を正当化するためには権威が必要なので、後期の水戸学や国学により天皇家を利用して天皇教をつくり掲げたのでした。「現御神」(あきつきかみ)という比喩的に使われていた言葉を「現人神」(あらひとがみ)と変えて、文字通りの「天皇は生きている神」という思想をつくり、それに合わせて、学校では、「日本の歴史はずっと天皇が中心であった」という染脳・占脳教育が徹底されたのです。日本は世界に一つの神の国となりました。

     その戦前思想を復活させることを宣言しているのが、安倍首相の親友で政府の各種諮問機関(教育改革や皇室問題)の委員を務める八木秀次麗澤大学教授です。彼は「大日本帝国憲法」を讃える『明治憲法』(PHP新書)や欧米のつくった人権思想は間違(まち)がいだとする『反人権宣言』(ちくま新書)を書いて、戦前に文部省が強力に推し進めた国体明徴(こくたいめいちょう)運動の思想(「個人」と「人権」への嫌悪と否定=日本は血族国家であり天皇陛下が中心)復活させるべく努めています。それが「日本会議」の思想で、このメンバーである自民党や維新の会の政治家は、それを文部行政の場に活かそうとしています。皇室への敬愛と愛国心を植え付け、躾を厳しくし、戦前の家族中心主義を復活させることを目がけます。

     明治政府が拵(こし)らえた近代天皇制は、思想としては稚拙(ちせつ)ですが、国家権力をフルに用い、一世一元の元号制度などを新設し、学校教育で小学1年生からの天皇制の刷り込み教育により、おそろしいまでの威力を発揮しました。しかし、それは、一人ひとりの精神的自立や自分の思想を育むことを元から疎外し続けてきました。今でもなおその負の遺産は清算できずにいますので、日本人の【思想音痴】はますます進んでいます。イデオロギーがフィロソフィーの代りをするのが日本文化です。

     戦前は、生きる意味や価値は、自分で考えるのではなく、国=天皇が定めたのです。滅私奉公、公=天皇への奉仕と恭順と愛をもって臣民の一人として上位者に従って自分に与えられた仕事に精を出す、というわけです。「教育勅語」や「軍人勅諭」に集約された思想です。天皇を頂く政府に反対する者は非国民とされ、警察(特別高等警察)により弾圧されました。天皇への不敬罪や治安維持法で逮捕された人は数十万人にのぼり、1600名ほどが殺されました(獄死は400名余り)。そういう反民主的な政策で思想を取り締った政治家や官僚の子孫が、今も政治の中心にいるのですから、本音では戦前の反省などしません。非道徳この上ない話です。

     敗戦後の新憲法下の今日でも、天皇という言葉=記号は、人々の意識を鈍麻させ、催眠術のような力を持ち続けていますが、それは、明治政府がつくった「近代天皇制」(天皇を現人神とする国体主義-その象徴が靖国神社)を思想レヴェルで検証批判し、新たな人間性豊かな思想を生み出す営みにひどく不足するからです。個々人の存在に立脚する【実存思想】と楽しい公共社会=市民国家をつくる【公共思想】を生みだすフィロソフィー(恋知)の営みがなく、政治のイデオロギー次元の思考しかないことが、一番の原因です。個々の事象だけが問題となり、綜合的判断能力=理性が曇らされてしまうからです。

     社会の中心に天皇というタブーをおき、こどもたちの素直な疑問にきちんと答えられないような国は、不健全・不健康というほかありません。社会について、国のありようについて、タブーをつくらずに自由に考え、発言し、対話することがなければ、ほんとうの前進もなければ、問題の解決もありません。【差別を制度化している国】を続ければ、個々人の理性(綜合的判断能力)は失われ、個別の事実情報の集積と技術知と趣味の領域における思考のみとなります。人間が人間としての豊かさを開発し、新たな人間性のよろこびと意味充実の生をつくることは不可能です。

     理性が靄(もや)に包まれて鈍麻したのでは、どれほど事実学を積み上げ、どれほど情報を収集しても、人間の生きる意味・価値に資することはありません。あふれる《人間愛》と広がり深まる《理性》に欠ける国、技術知と情報の暗記とパターン化した知を仕込む国では、いつまでも「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン)が続いてしまいます。人間性豊かな知が育たないのです。

     大きなタブーをなくすことは、みなの幸せをつくるために何よりも必要ですが、天皇ism=天皇教という宗教を知らずに身に付けてしまう日本というシステムの内に生きている私たちにとり、まず何よりも重要なのは、その自覚・意識化です。

     生まれた時から、元号で誕生年を呼ばれていて(昭和〇〇年生まれ、平成〇〇年生まれ)、親族が亡くなった年も元号で言われ、墓石も元号表記ですから、いやでも天皇教=元号教の中に閉じ込められます。明治維新のつくった「一世一元の元号」という宗教は、日本が天皇中心国家だということを無意識領域にまで刷り込みます。天皇の死・退位によりまた1年=元年に戻るという不合理極まりない時間管理(役所は元号を強要)には呆れますが、天皇≒元号の時間と時代を生きるのが世界で唯一の人々=日本人というわけです。

     冷静に日本人と日本社会を見れば誰でもが分かりますが、見事なほどすべて「形と序列」です。その二文字ですべてが収まり説明できてしまうのは、笑えるほどです。一人ひとりの関心やよろこびから出発せず、中身・内容が膨(ふく)れて形となるのではなく、自由で豊かな想念が広がるのでもなく、固い形式と上か下かの序列意識に縛られて生きています。日本という国は「天皇教=東大病=官僚主義」の三者一体による支配だとするのは、以前からのわたしの見方ですが、わたしの大学クラス(ソクラテス教室・大学クラスin白樺教育館)の生徒であった参議院調査室の荒井達夫さんは、この指摘に感動して、「・・武田さんは哲学的にさらに深く鋭い分析を行っている。ここまでキャリアシステムの問題の本質を明らかにした説明は他には存在しないと思われる」と『立法と調査』(297.2009.10参議院事務局刊)に書いています。

     こういう生き方は、天皇教的心性によるものと命名するのがピタリですが、では、天皇教とはいかなるものかを見ていくことにしましょう。

     自覚的な宗教者ならば、例えば、「わたしはクリスチャンで、聖書を拠り所にして生きています」と言いますが、天皇教には経典はなく、あるのは、最初に天皇を名乗った天武(在位673年~689年)が、自らの支配と権力の正当性を主張するためにつくらせた「日本書記」だけです。

     天皇教とは、儀式だけがある「型」の宗教で、特定の中身はなく、その時々の都合で変わり、世俗の価値を中身とするので、【世俗価値(世間価値)を絶対化する宗教】と言えます。よく言えば柔軟で何にでもなります。中身がなく仰々しい儀式で神秘的なムードを演出して、人を従わせる宗教ですから、日清日露から第一次世界大戦、シベリア出兵、中国侵略(満州国建設)から対米戦争に至る70数年は皇軍=戦争の顔・象徴であり、敗戦後は戦争放棄=平和の顔・象徴となります。昭和天皇の裕仁は、一人で両極端の二役をしたわけです。
     繰り返しますが、天皇教は、形だけで中身はその時々の世俗の価値を肯定するだけですから、抵抗感が少なく、知らずに深く意識を犯されて、無自覚に世俗価値を絶対化する世俗主義者=天皇教者になります。これでは、永遠に「私の精神の自立」は育ちません。理性なき人間の誕生です。

     このように世俗価値をそのまま肯定し、さらに絶対化する役目を果たす宗教は、世俗の成功者を讃え、偉いものとしますので、批判者ははじめから排除です。この排除と差別の文化は、左右を問わず政治家に端的に表れていますし、こどもたちの文化にさえなっています。金や権力や肩書や学力における「エリート」以外の人間はカスですし、権威や権力(肩書のある人)への批判者は疎まれ、冷遇されます。
     ほんとうは、厳しい批判がなければ、人間も社会も窒息してしまうのですが、それを知らないのです。街をゆく人も電車の中の人もみな灰色で、希望のない顔をしています。近視眼的で遠くを見る目をもたず、輝きも艶もありません。輝いて見えるテレビの芸能人は、ミカンにワックスを塗ったような外面の艶で、内側=精神のパワーからくる健全な美ではありません。つくりもので、見事なまでの型の文化です。

     超越性の原理をもつ世界宗教は、世俗の価値を相対化して、これでよいのか、を問います。世俗の利害損得や成功をそのまま肯定するのではなく、世俗価値を超えた視点からの洗い直し・問い直しをし、複眼的な視点をもつことで精神の世界をつくり、独自の見方=人生を可能とする役割を果たしますが、天皇教はあべこべで、世俗主義ですから救われません。空気に合わせ、忖度する生き方しかないのです。みながそうだからわたしもそう(呆)。こういう集団同調主義(天皇教の別名)は、個人の内的なよろこび、輝きや色気を消し、灰色の世界しかつくりませんので、結局は世俗の価値を追い求め、挫折する人生(ごく一部はお金&肩書に逃げる人生)を歩み続けるほかないのです。【意味充実】の得られない堂々巡りで人生が終わります。

     自らの考え方・生き方を反省し批判検討して、新しい人生を創造するという実存の生=恋知の生は、天皇教の生き方とは全く異なる「わたしが輝く人生」ですが、それについては、2013年に「恋知」第2章に書きましたので、ぜひ熟読をお願いします。宗教者の生とも世俗教者(=天皇教者)の生とも次元を異にする人間のほんとうの生き方です。超越的な真理を求める不毛性を知ることは、一神教に陥らない条件ですし、元号を使わずに世界暦(ユリウス暦を少し修正したグレゴリオ暦)を用い、皇族と呼ばれる人々を「さん」づけで呼ぶこと=対等性を確保するのは、天皇教の呪縛から解放される条件です。


    恋知を提唱する筆者

     疑似的な一神教である天皇教=世俗の価値に無批判に従う生き方ではなく、キリスト教などの一神教の超越性の原理でもなく、私の存在の内奥にある善美の座標軸を基にする恋知の生は、信仰でも○○主義でもありませんから、誰にでもできることで、少しも難しくありません。意識の二重性、自分の考えや行為を見ているもう一つの私の意識の声を聞く練習=自問自答を基盤にして自由対話する生き方こそが、人間のもっとも優れた生き方と言えます。それは、特定の見方や宗教に囚われていなければ、誰でもすぐ始められます。

     上位者からの要請でもなければ、立派な肩書をもつ人の上から目線(日本では左右とも肩書人は皆そうです-程度が異なるだけ)のソフトな誘導でもなく、体系的な強い思想(一神教や西欧哲学史のお勉強による)でもない。染脳‐占脳からは最も遠くにありながら、決して揺らぐごとのない意味充実の私の人生を可能にするのが、自分の具体的体験に基づき自分の頭で考えたことを交換・交歓・交感し合う恋知という実存の生です。それなくしては、人間の人間としての生は成り立ちません。勝ち負けや利害損得を超えた「明晰な理性+豊かな愛情」は生じないのです。

     この恋知という発想と態度による実存の生こそが、優れて公共的な社会を生みます。国民国家(国籍にこだわり民族的共同体という幻想に依拠する)という狭隘な思想から、公民国家(シチズンシップに基づく市民的共同体による)という開かれた思想への転換によるのです。

     公民国家=市民国家とは、わたしはこの国・社会をつくる主体者だという能動的な意識により、あなたとわたしの意思とお金(税金)を出し合ってつくるものです。主権者であるあなたとわたしを超えた存在はありません。超越者や絶対者はいないのです。これがほんらいの民主制度であり民主政治であり民主性の社会です。官とは、市民的公共に奉仕する組織であり、それと異なることはできません。


    筆者と金泰昌公共哲学編者と山脇直司東大教授および参議院調査室の荒井達夫によるパネルディスカッションを載せた『立法と調査』 2008年2月別冊号

     このわたしの思想-論考は、恋知第3章『民主制・公共思想』に記しましたが、これは、わたしと金泰昌(※東大出版会のシリーズ『公共哲学』20巻の最高責任者)および山脇直司東大教授との討論に端を発し、東大や千葉大等での公共哲学運動と深く関係したもので、参議院調査室を舞台に展開された公共哲学論争の顛末と結語を記したものです。白樺教育館のホームページでも読むことができます。(※最初の10巻は東大総長の佐々木毅さんと金さんの共同編集)

     では、どのような社会・国をつくるのがよいか。その骨子は、すでに2017年にfbやBlogで発表していますので、一部加筆して以下に載せます。
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     バーチャル政党=【民主共和党】(民主政を前に進める共和主義)、瑞々しい「水の国=日本」にふさわしい人間に優しく平等な国へ~~~

     基本の考え

     まず、首相のほかに【大統領】(日本の顔=元首で政治権力は持たない・ただし、首相の国会解散を拒否する権利をもつ)を選ぶ。
     ふさわしいのは学問・芸術に通じた品格の高い人-例えば石橋湛山(哲学者・経済学者・ジャーナリストで55代総理大臣)。※ 高野岩三郎(戦前に東大教授を辞して社会問題研究所所長・戦後に改組されたNHKの初代会長。庶民派にして高潔)。大原孫三郎(中国電力やクラレの創始者で白樺派の同伴者-心優しい博識の実業家)のような人。
     国旗は「日の丸」が候補。国歌は「さくら」(日本古謡)が候補。国花もさくらなので、ピッタリと思う。共に国民の自由な議論で決まります。「君が代」は、明治天皇に捧げられた皇族の歌なので(ゆえに皇族は歌いません)、主権者が国民に変わった現代には不似合いです。なお、歌詞は古今和歌集からで、天皇とは無関係です。

     元号は個人の趣向で自由に用い、役所や公共機関では、世界歴(ユリウス暦を修正したグレゴリオ暦)を使用する(今の元号の義務付けは不合理で間違いが生じやすいので。例えば、パブロ・ピカソ1881年~1973年、棟方志功 明治36年~昭和50年ではとても困りますし、時間が通年とならずブツ切れになるは不味いです)。

     天皇家は、ほんとうの住まいである京都御所に。江戸城は、江戸公園として国民みなに開放。

     天皇は、国事行為は行わず、文化的行為と国際交流を行い、基本的人権が保障される(いま天皇がしている国事行為は大統領が行う)。

     簡単ですが、骨子です。この線で市民(=公民)憲法案も出さねば、です。基本となる1条から5条の骨子は、以下です。

    1. 1条 日本国の主権は、公民にある。

      2条 元首は大統領で、公民の直接選挙で選ばれる。大統領は国事行為を行う が、政治権力はもたない。ただし、首相の国会解散への拒否権をもつ。

      3条 皇室は、伝統と文化の象徴としての役割を担う。住居は京都御所とする。

      4条 戦争放棄 日本国は、武力の行使、武力による威嚇を行わない。専守防衛に徹する最低限の軍事力は持つが、いかなる理由でも海外への派兵は行わない。

      5条 人権の尊重 個人の思想と行為は、公共の福祉に反しないかぎり、最大限に尊重される。(個々の人権規定は現日本国憲法を踏襲し、さらに徹底させる。在日外国人の人権保障も加える)

     

     なお、日本の初代大統領としては、優しさと強さを併せ持つ人、明晰で品位の高い人、国際感覚に優れた人が適していますので、わたしは、官邸の圧力で降板させられるまではNHKの顔だった国谷裕子(くにや ひろこ)
    さんを推します。

     なにはともあれ、オープンに共和制の意味や意義について語れる状況を生みだすことは、とてもよいこと、大事なことです。
     大きなタブーがあることは、ひどく不健康ですからね。
    細かな話はともかく、みなが、明治維新政府によってつくられた水戸学に基づく「明治天皇制=国体思想=靖国思想=国家神道」の国家カルト的な精神風土から解放されて自由になることは、何より大切な「はじめの一歩」と思っています。
     集団同調主義(天皇教)でもなければドライな強権でもなく、水の国=日本にふさわしいしなやかで自由な共和主義って、いいでしょ~~~

    ※ 高野岩三郎は、戦前、東大に経済学部を創設した人で、日本統計学のパイオニア。東大教授を辞し、白樺派の同伴者でもあった実業家・大原孫三郎の発案と出資でつくられた「大原社会問題研究所」の所長となり、最新の統計学を基に労働運動などの研究に取り組んだ。その陣容は東大や京大に匹敵し、研究内容は日本最高峰と評された。今年2019年は創設100周年にあたり、法政大学内に移されて存続している大原社会問題研究所では、記念行事を行っている。なお、「高野岩三郎伝」(岩波書店)は、必読文献。

      彼はまた、敗戦後、民間人による憲法草案(憲法研究会による)の作成者の一人だが、それは、高野が鈴木安蔵に 「鈴木君、憲法の問題は政府にまかせては駄目だから、我々の手で運動を起こさねばならぬ、すぐに着手するように」 と言ったことによる。憲法研究会のこの草案は、GHQが「日本国憲法」草案をつくるときに参照した。ただし、高野自身は天皇制を残すことには強く反対して共和制への移行を主張し、草案とは別に「日本共和国憲法私案要綱」を出している。

     戦後に改組されたNHKの初代会長も務め、放送の民主化に尽力した。
    海外に開かれた港町の長崎に生まれ、自由な下町の神田で育った高野は、家父長制とは全く無縁で、根っからの共和主義者だった。理と情を併せ持ち、誰からも愛された反骨の人。


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     中身・内容を見、聞き、感じ、考えるという知り方ではなく、形式・名前で自他を判別するような人間であっては、人間性のよさ=魅力に乏しい「肩書人間」に堕ちます。それでは、【人権】いう最も大切な価値を知ることはできません。外面(そとづら)人で、心身から湧き上がる人間愛と全体を見て意味を捉える理性に欠ける人になるからです。形式と序列の人生をやめなければ、日本人は永遠に不幸です。モノ、カネ、カタガキしか分からない愚かさから抜け出て、実存者(恋知の人)として生きることを貫き通しながら、妥当性の高い公共社会(公民国家)をつくるのです。イデオロギーではなくフィロソフィーを!

    武田 康弘 2019年11月20日



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