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17. 人が生きるということ/哲学の本質

 今日はとてもとても重要な内容をお伝えします。

 私たちの日常生活 - 家庭や学校や職場での人間関係、勉強やスポーツ、遊び、それに芸術や科学、学問、社会問題、政治 などなど- 。
そうした人間のあらゆる活動の基本になくてはならない考え。これをはずしたら最早、人間が人間でなくなってしまうという大事なお話です。。
 それをタケセンからの3つのメッセージでお伝えしましょう。

 書き言葉で単純明快に誰にも伝わるように表現することは不可能ですが、そのさわりだけでも感じ取ってもらえればうれしいですね。もっと興味のある方は白樺フィロソフィーに参加してください。

 1.自我 「狂気性」 純粋意識
 2.ソクラテスープラトンのイデアとは?
 3.哲学の答え=存在問題の(A君への手紙) 


自我 「狂気性」 純粋意識

 私の自我=エゴは強大だ。
 私の上に立つ者は存在しない。私を貶(おとし)めることのできる人間など、現存する人類には一人もいない。そして、何よりも私は私に負けない。・・・。

 しかし、この誰よりも強大な私のエゴは、自他の不幸をつくらない。自他の幸福をつくる。エゴは、真・善・美を希求するとき、豊かで悦(よろこ)ばしいイデーやロマンを追求するとき、浄化されて天上的なものとなる。そのときエゴ=自我は、純粋意識(フッサール)へと高まる変化を起こすからだ。
真・善・美というそれ自体としては幻想でしかない価値を追求する激しい情熱―聖なる狂気(ソクラテス)、唯一それのみが、本物の「理性」を生み出すことを可能とする。

 他の動物と異なり、人間とは先験的狂気性=幻想価値をもつ生物だ。人間が人間をやめない限り、この先験的狂気性=広大なイマジネーションの世界から逃げることはできない。
 言葉のふつうの意味での〈狂気〉に陥(おちい)らないためには、己の「狂気性」への自覚が求められる。「私は正常だ」と主張する人ほど危ない!のだ。己の存在の「狂気性」に目をつぶることー自分で自分を騙(だま)す自己欺瞞(ぎまん)が、人間に狂いや過ちをもたらしてしまう。管理者たち、特に日本の官僚の言動を見ればよい。彼らの正常?とは、どれほど狂っている!ことか。

 《人間という種は、先験的狂気性=幻想価値=広大なイマジネーションによって世界を認識しているのであり、文字どおりの正常や客観や真理というものはない》という原理の了解が、自他や世界を知り・考えるための前提−出発点である。人間に苦悩や悲惨をもたらすのも、また栄光や悦(よろこ)びをもたらすのも、この「狂気」の力である
 人間を人間たらしめているものは、「正常」(俗なる正気)の世界ではなく、幻想価値(聖なる狂気)の世界である。このことの明瞭な自覚化によって、はじめて有用な思惟(しい)=「理性」が始まる。人間にとっての「現実」とは、幻想価値によって成立しているのであり、文字どおりの現実という想定は背理なのだ。幻想なき現実は無である。
 己の「狂気性」への自覚がなければ、「理性」は有用なもの、価値あるものとはならず、自他を抑圧するヘリクツの重しにしかならない。

 自覚的―積極的に、幻想価値を生み出すイマジネーションの力を働かせることで、ふだん無意識のうちにつくり上げてしまっている固着した幻想価値の世界を溶かすことができる。そうすることで、囚(とら)われの自我=エゴからの脱却が可能となる。自縛(じばく)が解け、自由な純粋意識の活動が始まるのだ。

 私のエゴは、
柔らかく、しなやかで、愉(たの)しく、心豊かな、人間味あふれる文化=生き方をつくり出すために燃える。開かれた社会をつくるために、偽善や権威主義(天皇制・元号制度はその象徴)や抑圧や暴力を減らしてゆくために燃える。そのとき、エゴは、完全に燃焼することで純粋意識に変わる。

 真・善・美のイデア=幻想価値こそが人間にとっての真実在だということを知らない自我主義者 - 正常主義者 - 現実主義者からは、腐臭が立ち上る。人間存在の幻想性=先験的な意味での狂気性についての無自覚が、エゴからの脱却を阻(はば)んでしまうからだ。
 人間とは、意識存在であり、物体やシステムではないのだ。意識は、全てを成り立たせる究極の動因であり、したがって因果連関(科学)では捉(とら)えることができない。逆に、諸学問・諸科学を成立させている幻想価値(イデア)を産出する現場が意識なのだ。 


(注) 私 とは、エゴ=自我 と 純粋意識 の双方を含んだ概念です。

                       (2002年8月19日 武田 康弘

注意: 

哲学には[ 絶対に正しい]、[絶対に善い]というものはありません。
[真・善・美]とは、したがって、より本当のこと、より善い、より美しいものをめがけるという意になります。
参考: 哲学する生(普遍性・一般性・絶対性)

古林 治


ソクラテスープラトンのイデアとは?

武田 康弘

 人間にとって、真に実在するものは、意味と価値の世界である。

 単なる事実というものはない。

 人間にとって、単なる物質性―例えば「椅子(いす)という物質」が実在するわけではない。真に実在するものとは、「椅子の意味」である。

 この原理を徹底させることが、イデア論の意味であり、目的です。イデアとは、哲学の核心なのです。

 したがって、イデア論を否定し、否定したことで生じた論理的破綻(はたん)を、「目的因」(雨が降るのは、植物が育つのに必要だからだ)の導入で糊塗(こと)したアリストテレスの学問は、神学に通ずるものであり、「学問体系」ではあっても哲学ではありません。
 不幸なことに、キリスト教をバックボーンとするその後のヨーロッパ哲学の主流は、神学を隠し持つ哲学=哲学・学へと変質したのです。

 神学的哲学=悪しき形而上学(けいじじょうがく)=学問主義的哲学から<哲学>を取り戻すためには、イデア論の了解が不可欠です。

2002年9月11日  武田 康弘

注意: 

多くの哲[学者]は、イデア論を、真理が存在するという客観主義、形而上学の源泉であると誤解しています。残念なことです。
興味のある方は竹田青嗣氏の著作【プラトン入門 ちくま新書】をご覧になってください。

古林 治


哲学の答え=存在問題の(A君への手紙) 

武田康弘

 人間が存在していることの理由を問うことはできません。
「私は何のために存在しているのか?」と問うことは、背理なのです。何のために?誰のために?などと言う目的はありません。私は、ただ人間として存在している=実存しているだけです。

 わたしを取り巻く一切の世界を意味づけ、価値づけ、秩序づけ、目的を与えているのは、人間の意識=私です。私の意識こそが出発点であり、究極の動因なのであり、それが何のため?と問うことは、悪しき形而上学(けいじじょうがく)=宗教にしかなりません。

 この世のすべてに意味を与えているのは、私の幻想価値=イデアであり、人間は、自分を肯定できるような理念やロマンを能産し続ける存在=実存なのです。能産(のうさん)し続けることが出来なくなったとき、人間は、人間としては死ぬのです。

 結論を言いましょう。人間は、自分の幻想価値(理念的―ロマン的世界)を他者という現実に晒(さら)し、試すことで、己の幻想価値をくりかえし吟味(ぎんみ)し、豊饒化(ほうじょうか)させてゆく存在であり、その営みが<人間の生きる意味>になるのです。 

 2002年9月11日 武田 康弘

注意: 

幻想価値(理念的―ロマン的世界)を絶対化すると独裁者のような、人に不幸をもたらすようなことになりかねません。これをロマン主義といいますが、タケセンが言っているのは、こうあるべきだ、というロマン主義ではなく、こうあって欲しいということ(ロマン)を人にさらし、了解を得ていくことが重要だと指摘しています。
ロマン主義とロマンを持つことは決定的に異なることに注意。

古林 治


 いかがでしたか。
もっと豊かな生を受け取りたいと願う方であれば、ときどきでもこの哲学の本質から自分の生を見つめなおしてみることをお勧めします。

それでは、また。

2002年9月24日 古林 治

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