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《12/23金さん・武田さんを軸にした白樺討論会》について 6
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公共哲学へのエール

綿貫 信一 (38歳・環境調査コンサルタント)

綿貫

2006 年12 月23 日の白樺民知の会で、<公共哲学>と、<白樺の哲学・民知・恋知>とで共通する部分が多いことが分かりました。しかしそれでもなお、公共哲学に対しての違和感を払拭しきれませんでした。

 何故、公共(する)哲学なのか? 何故、公共なのか? 金さんの説明を聴いて、公共(する)とは、非常に有用な概念であるとは思いましたが、しかし普通に哲学ではなく、敢えて公共哲学と名打つ以上は、公共という中心概念を原理の次元にまで掘り下げる必要があると思うのです。金さんのお考えは、確かに力強い「理論」ではあると感じましたが、ふつうの多くの人が「なるほど」と納得する次元にまで掘り下げられた「原理」ではないな、と感じたのです。どこをどうしたらよいかを見定めて詳論する力は私にはなく、印象批評の域を出ない意見ではありますが、正直そう思ったのです。

次に、公共学ではなく公共哲学である以上は、原理としての哲学=認識論を元にしたものでなければならないと思います。しかし、私は何度も討論会に参加し書籍も何冊かは読みましたが、「公共哲学」においては哲学的思考の原理である認識論の探求は非常に稀薄であるように感じました。純哲学の原理である認識論を踏まえれば、各自の主観を掘り下げることが第一義的に重要であることが明確に意識され、社会理論が成立する大前提である生きられた主観性をそれとして追求する道が開けるはずです(「客観」とは背理である・「真理」の保持者はいない)。そうなれば、社会問題を考えるのに、ふつうの生活者と学者との原理上の優劣は消えて、本当の実のある討論が可能になるはず。認識論の原理を踏まえることで従来の大学知のありようを革命しなければ、真の公共も哲学も開けず、広がりをある範囲に留めてしまう結果になると思われます。

最後の疑問点は、以上の論点と重なりますが、公共哲学の向いている先が主に、大学関係者等のアカデミックな世界であることです。金さんのお話から、先ずは学知の世界から変えていこうという思いは良く分かりましたが、公共哲学が公共哲学として学的世界を変えていくためにも、何よりも先ず、一人一人の市民が主体者になるような思索と実践を必要とするはずだと思います。そのための最も重要な方法が、参加者全員が一市民(生活者)の立場で行うほんとうの討論ではないでしょうか?新しい知識の伝達=授業とは異なる話し合いです。
もし、公共哲学が真に哲学=恋知としての哲学になるまでに思索を深め、対話を繰り返すことができれば、学的世界はおろか、現実の社会変革につながる力を持つものになると思われます。

私は12月23日の金さんのお話を聴いて、白樺の「民知」の考えと多く共通するものを感じました。公共哲学には公理・公式はない、対話(対話・共労・開新)のダイナミックな展開の実践こそが公共哲学だ、というのはまったく深く共感するところです。これから更に対話、討論を重ねて、市民・生活者から始まるほんとうの公共する哲学を実践していけたら面白いと思います。学者の方も一人の生活者としての立場で思考しなければ真の公共、真の哲学にはならないはずです。

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