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「公共哲学」の公共とは?

古林 到 (法政大学1年法学部政治学科)

古林 到

私は、金さんがいらした時の討論会には参加出来ませんでしたが、9月9日の「山脇直司さん・荒井達夫さん」と10月8日の「稲垣久和さん・古林治さん」の討論会には参加しました。また、大学の講義で公共哲学を履修し、ほぼ毎回聴いていました。ですが、それにも関わらず、未だに「公共」の意味はよくわかりません。
 これは大学に入ってから私が感じたことですが、一般の人が理解できないような難解な言葉を並べ立てるのが学問であり、それを流暢に出来るのが学者だ、という風潮が日本の大学教師の方々にあるようです。故に、話を聞いていても結局何が言いたいのか要領を得ないことも多く、「公共」の概念についてもピンときません。
 私なりの解釈としては、現在の「民」と「官」が対立した社会、あるいは人々の社会や政治に対する無関心・無気力を憂い、このような状況をなんとかしたいという想いから「公共哲学」が生まれ、そしてそのために、よりよい社会の姿として、民も官も越えて、そこに生きる全ての人が共につくっていく社会領域・「公共」を提示しているのだと思えます。
 しかし、もしそうだとしたら、公共哲学は大学人以外の沢山の人にも納得され、広まっていってはじめて意味のあるものになるのでしょう。にもかかわらず、私だけではなく、多くの学生が「分かりにくい」と思うのは、重大な問題であるはずです。
 全ての学問は人々がよく生きていく上の必要から生まれたものであり、そうである限り、ふつうの人に理解されないような社会の学問には存在価値がないと思います。ましてや公共哲学のように、皆に理解されるかどうかが生命線のものであるなら尚更です。アカデミックな世界だけで通じ、「分からない人は分からなくていい」というスタンスでいいはずがありません。
 また、「公・公共・私」という三元論は話を余計ややこしくしているように思います。あくまで主権者は「民」に属する市民一人一人であって、「官」は主権者の意志の代行者でしかない。この大前提を踏まえて言えば、そもそも民と官が分離し、対立してしまっていること自体がおかしいのではないでしょうか。ならばまず「きちんと民意を汲み取る『官』」にしていくための条件を考えることが先決です。そうした上で「官」が担えないもの、必要性のないものは、市民や民間が、あるいは市民や民間と行政が共にやっていけばいい。

「社会生活の全ての基本は市民一人一人の意志・言動にあり、その自覚を高めることで『市民社会』を確立していこう」、という言い方がよほどストレートで分かりやすいのではないでしょうか。それを公共(する)哲学と呼ぶ、とすれば皆の理解が得られると思いますが。

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