異なる者が混在して生きる原理
杉山幸男(公務員)
私は、30年以上子どもと関わる仕事をしてきて、時代と共に子どもを取り巻く環境が、物心両面で荒んでくるのを見てきました。子どもと真っ向から付き合い、彼らの感じるもの、求めるもの、それを何とか共有する中で、伸び伸びと育ってくれる事を願ってきました。しかしながら、学校をはじめ世の中の変化は、したたかな生命力を持った子どもたちの生活スタイルを変え、何よりものの考え方を変えていったと思います。知識の多い者が優れている。テストでいい点を取る者が、クラスの中心になる。こんな構図ができあがっています。多少くせがあっても人を惹きつける力のある者や、ユニークな発想をする者、教師や大人に逆らう者は、だんだん隅っこに追いやられたり、排除されてきました。私のいた場では、むしろそういう子が生き生きと力を発揮していました。
そんな中で、どうしても世の中の方がおかしい!どうしたらこの子たちがもっと伸び伸びと育つ事ができるだろうかと考えてきました。具体的には、もっと面白い事、みんなで群れて遊ぶ楽しさをたくさん体験させてやりたいと考えてきました。
一方で、こういう事を仕事としていると、組織の決め事や、世の中の常識が邪魔をするものです。子どもの側に立つと、大人から睨まれ、大人の側に立つと、子どもを抑制するといった葛藤が出てきます。自分の中では、多くの子どもたちから学んだ事に確信を持っていても、組織や社会常識にだんだん押しつぶされて来ていました。
そんな時、武田さんをはじめ、白樺の人たちと出会う事ができ、目からうろこが落ちるような思いでした。私のやってきたこと、立とうとしていた地平は、決して間違ってはいなかった!何かをしようとするとき、どのように考えるのか?どこに焦点を当て組み立てていくのか?これこそが、民知ではないかと思うようになりました。
一人一人の生活している場、一緒にいる仲間、その中での自分の存在から出発する。こんな当たり前の事が、実は世の中ではほとんど行われていません。特に子どもの社会では、子ども自身の欲求や疑問が、大人の先取りした考えや、子どものためになると決め付けた答えを、一方的に押し付けることでつぶされています。こういう実態を目の当たりに見ながら生きてきた者にとって、白樺は光明でした。
私は、難しい学問レベルでの哲学など、まったく興味もないし、わからない世界にいますが、白樺で「公共哲学」について、この間何人かの人たちの話を聞き、学ぶ機会を得ました。仕事が公務員なので非常に有意義なものでしたが、正直言って大学の講義を受けているような、教科書を読まされているような感覚を覚えました。私のように現場で生身の子どもと関わっている者にとっては、とても実感のない話でした。私の無知のせいとも考えたのですが、他の方の感想からも「実社会に具体的に切り込むものではない」などの話を聞き、まんざら私の持った感想も的外れではないなと思いました。
その中で、異彩を放っていたのは金さんでした。彼の実体験の重さはもちろんのこと、そこから具体的に「世の中を変えていこう」という話には、とても熱を感じ感動しました。学問の世界というより、人の生きる場に直結した所で活動している感じを受けました。公共哲学の理論や仕組みについてはよくわからないまでも、私の生き方や考えにビンビン響いてくる話で、「生きた考え」と感じました。
人は社会の中でしか生きられないわけで、どうしても「公共」という概念や意識を実態を持ったものとして身につけていなければならないと思います。私のような公務員は、特に仕事がそこに直結しています。結論から言うと私の仕事での公共性は、お上(行政)の作ったモノであってほしくないと思っています。子ども自身が、仲間とぶつかり合い、一緒に群れ遊ぶ中で自らの中に作り上げていってほしいと思うのです。もちろん社会生活を営む上では、最低線のルールは必要ですが、それは大人の都合で作られたものであってほしくないのです。「仲良くすること」を身に付けるためには、喧嘩や対立が不可欠です。その体験のないところで、頭ごなしに教え込まれた「仲良くしている風(ふう)」など、あっと言う間に壊れます。自らが、どうしたら仲良く(共に)楽しく過ごせるかを子どもの時に学んでいない者が、大人になってまともな自立した社会人になれるはずがありません。虚構の平和は一発の銃弾で壊れると言います。私は、自分の生きる場での公共性をそんな風に考えています。そこに響いて来ない公共哲学。学問としての公共哲学など、子どもたちにとって、市民にとって、はたして役に立つのでしょうか?
私が直接子どもたちに公共性を教えるなどということはありえません。子どもたちが自ら作り上げるものだと思います。共に楽しむために、共に生きるために、どうしたらいいか?強いて大人の役割を言うなら、それができる環境(余裕のある時間とできるだけ自由な場)を保障することではないかと思っています。また子どもにとって、生まれて初めての学ぶ場は家庭ですから、公共哲学は家庭からと言えるのではないでしょうか?だとすると、親もまたこの事について、きちんと学ぶ必要があります。そのための「公共哲学」であってほしいと思います。
「公共性」とは、異なるものが混在するための原理。そこから「対話すること」「共働すること」「開新すること」が生まれる。この話を金さんから聞き、深く感銘を受けました。この主体となる自分の生きる原理こそ、民知ではないかと思い至りました。はたしてそうなのかどうか?実践の中での確信はまだ不十分な気もしますが、これからも「異なるものが混在するための原理」を大切にし、そこにこだわって生きていこうと思っています。(了)