自由な対話で「共異体」の社会を
目黒 久美子 (看護学校生19才)
「異なることを認め合い、生かし、共に生きていく。この関係を私は共異体、と呼びたい。」
12月23日の白樺討論会に参加して私はそう感想を述べた。
多くの人は、共同体=和につながると思っているだろうけれど、私はそうは思わない。
そもそも、「同化して生きる」ことが、和に繋がるのだろうか。
むしろ、ひとそれぞれ自分自身の考えがあり、美学があり、信じるものがあるなかでなぜ他の人と「同化」しなくてはならないのだろうか。
最近、よく思うのは、普段は「個性」を主張しているのに、何か意見を言うときになると、みんな誰かが言ったことに同化してしまうんだなぁ、ということだ。
服やキャラクター性は個性で、自分自身の意見は個性ではないとでも言うのだろうか。
なんだか、まわりのひとたち(日本人は、とひとくくりにしていいものなのか疑問だが)は、集団の空気に支配されているようだ。多数がイエス、と答える中で、自分だけがノーと言うと、自分が異質でおかしなものだと感じてしまう。例えそれが「正しい」ものだとしても。
そして、誰か周囲の人と同化することによって、自分は異質ではない、という安心感に浸る。
そういったものが「共同体」なのだとすれば、もうそんな言葉があらわす生き方はこの世界からなくしていかないといけない。
同化したところで、やはり心の底には自分の意見や主張はあるのだから、不満はでてくる。
その不満は、本来自分がやりたい・こうしたという思いそのものから生じる。
心の声=欲が満たされないままに活動していても、ぜんぜん楽しくないだろう。
結果として、同化してもまったく和(和やかに・仲良しに)にはならない。
本来の和とは、異の尊重、違いを認め合う気持ちがあってこそ成り立つものだ。
異、は悪いことではない。他人の異を認めることにより、自分の意見、つまり他人にとっての異も認めてもらえるのだから。
異なるものが共に生き、働くことこそが本当の「和」である。異がなければ和も生じない。
共同体という名の不和の中で生きるより、自分の異を出し成立する和の中で生きていくことのほうがよっぽど楽しいはずだ。
と、いうことを頭でわかっていても、なかなか実行できないこともある。
そんなときは練習をすればいい。
顔と顔をつき合わせて話す、ということを。
どんな話でもいい、お互いの意見を聞き入れ、ときに批判し、話をすすめていくことが、おのずと共異体というよき関係をつくっていくことになるのだと思う。そのためには、知識の量や地位や立場や年令などにとらわれず、内容で話をすることが必要になるはず。