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《12/23金さん・武田さんを軸にした白樺討論会》について  2
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討論会体験―本当の対話とは? 

染谷 裕太 (東洋大学2年・20才)

染谷裕太

白樺教育館で行われた一連の討論会に参加し、振り返ってみると、凄い体験をしたなと思います。
 討論会の中では全く意識していませんでしたが、大学教授があのような場に参加し、普通の市民と討論するというのは中々無いことでしょう。来てくださった金泰昌さん、山脇直司さん、稲垣久和さんには大変感謝しています。
 しかし、議論の仕方については疑問を持ちました。私は一連の討論会の中で、いわゆる「普通の市民」と、学の世界に身をおく「学者」との違いを感じました。そして、この「違い」は深刻なものだと思います。私は討論会に参加し、そのやり取りを目の当たりにし、終わった後「これは討論になっていないな」という感想を持ちました。
 その主たる原因は大学教授の方にあると思います。討論会に参加された大学教授の方々は、大変博識で、色々なことを知っていると思いました。しかし、博識なために?討論の最中、次から次へと本の名前や人の名前、聞きなれない術語や横文字を出していました。そのせいで話の内容が深まっていかずに、あちこちに話が飛び、雑然としてしまったように思います。学者同士でならそれで通じるのかもしれませんが、我々一般市民がその話を聞いて、「知識が豊富だ」、「物知りだ」という感想は持てても、その話に「なるほど」と納得を得る人はほとんどいないと思います。
 また、意見の主張の仕方も、これでは誰も深く納得しないと思いました。例えば、「和という概念は大切だ」(9月9日の討論会)という主張がありました。しかし、これではただの一般論で、まるで説得力がありません。「なぜ、自分はその概念が大事だと思うのか」、「どのような自分の具体的な体験があり、そう思うのか」が言われなければ、聞き手も現実的な、身近な事として聞くことができないと思います。言葉だけが空虚に響き、頭の中の想像の話で終わってしまうのではないでしょうか。

また一般論にとどまった思想や主張では、「本当にそう思っているのか?」と疑念さえでてきます。今回、「公共哲学と民知」が全討論会を通して大きなテーマでしたが、私はその中の具体的な内容よりも、対話する、議論するということについて考えさせられました。対話にはもちろん相手がいて、その相手と話すわけですが、その時にきちんと、お互いが真正面から向き合わなければ対話は成立しない。少しでも逃げたり、斜に構えてしまったら、それはもう有益な、生産的なものにはなりえない、ウソの世界になってしまう、と強く感じました。相手と真正面から向き合えば、裸の自分をさらけ出すことになると思います。それは恥ずかしい、怖い事かもしれませんが、それを超えたところからしか本当の生は始まらないし、本当の対話にはならない、自戒も込めて、私はそう思いました。

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