《12/23金さん・武田さんを軸にした白樺討論会》の意義
古林 治 (52歳 システム・エンジニア/白樺教育館 副館長)
経緯
昨年12月23日に金泰昌(キム・テチャン)氏(以下、金さん)と白樺教育館館長 武田康弘氏(以下、武田さん)を軸にした白樺討論会が開かれました。この討論会の意義について振り返ってみることにします。
まず、その経緯について触れておきます。
最初のきっかけは、白樺教育館の「民知の理念」に熱い共感と深い感動を持たれた金さんが2005年6月15日(水)に武田さんとの会談のために白樺教育館を訪れたことでした。5時間に及ぶ会談の後で、金さんは武田さんに『公共的良識人』紙への原稿を依頼したのです。それが2005年7月号の【出会いと民知と公共哲学】です。
その後、金さんは再度原稿を依頼します。『民知の思想と運動を広げるために、「哲学」とは?「公共」とは?をその視点で明らかにしてほしい』と武田さんに要望したのですが、それが『公共的良識人』紙2005年10月号掲載の【民知・恋知と公共哲学】です。
さらに、話だけではなく具体的な実践に直に触れてみたいという希望で、金さんは昨年1月に白樺教育館の大学生クラスの授業に参加されましたが、授業の前には、【民知】の発想をベースに「公私共媒」の市政を実践する我孫子市長の福嶋さん(今年1月まで3期12年を務め退職)と武田さんとの三者会談を行い、その底に流れる【民知】を肌で感じ取られました。
続けて金さんは、昨年6月に、教育館の大学生クラスの授業の中で白樺同人との討論的対話を試みました。会の後、いくつかの疑問が白樺同人から提出され、それが12月23日の会への積み残しの課題となったわけです。その課題には、『公共哲学とは何なのか。』という根本的な問いも含まれていました(「白樺教育館」ホームページ・6.3金さんとの対話の感想をご覧下さい)。
実は、この間(昨年の6月から12月まで)、金さん以外の方たちとの討論会も行われました。ネット上での議論をきっかけに9月9日には、山脇さん(東京大学大学院 山脇直司教授)と荒井さん(白樺同人)の討論。10月8日には稲垣さん(東京基督教大学 稲垣久和教授)と私・古林の討論を中心とする会。このときは稲垣さん著『靖国神社「解放」論』をめぐっての質疑応答から入りました。次に、12月9日には、山脇さんと武田さんとの討論、【哲学とは何か?「主観性の知」をめぐって】をテーマとする討論会が行われました。この一連の討論会を通じて、参加した白樺同人には公共哲学に関しての漠然とした疑念が浮かび上がってきました。言葉を変えれば、それは公共哲学の広がりを妨げる問題が見えてきたプロセスと言えるかもしれません。
金さんおよび白樺同人はそのような問題意識をもって《12/23金さん・武田さんを軸にした白樺討論会》に臨むことになったわけです。
12/23討論の様子と意義
さて、本題です。12月23日は午後1時から6時50分まで、厳しい異論・反論を織り交ぜ緊張感に包まれながらもジョークの飛び交う楽しい討論が行われ、それまでの討論会と比べると一歩も二歩も踏み込めたという印象でした。公共哲学とは何なのか、【同】ではなく【異】を前提にした『公共性』という考え方の重要性、等など。金さんのすさまじい体験を通しての説明によって『よくわかる感覚』がやってきたのでした。特に、『公共哲学とは公共する哲学である。』という結論に至るまでのお話は、明快で圧巻でした。その意味ですばらしく実のある討論会だったといえます。このことは金さんには大いに感謝したいと思います。
ただ一方で、これまで他の方々を含めて何度も討論してきたにもかかわらず、この『よくわかる感覚』がやってこなかったのはなぜでしょうか?その理由について考えてみる価値は大いにあるでしょう。なぜなら、それを解決することが公共哲学を広めていくための大きなステップになると考えられるからです。単刀直入に言うと次のように言い換えることになります。『今回の討論会では金さんという存在が公共哲学を伝えてくれましたが、他の人では中々伝えられない、あるいは金さんの書かれたものだけでは中々伝えにくい、これはなぜなのか。』
この問いを念頭にもう一度、12/23の討論会の内容で象徴的な場面を振り返ってみます。以下、私なりに要約してみます。
議論の出発はこのような感じです。
武田さん:『客観知(答えの決まっている知)が偉いという観念を捨てよう。自分の頭で納得できる形で吟味しよう。客観学は知の手段であり、主観性を鍛え深めるのが知の目的である。そこに比重を置き「生活世界」に根ざす知が民知である。だから、民知が公共性を開く、とは当然の帰結だろう。ただ民知を実体化して捉えてはいけない。それは、知の遇し方、対応の仕方のことである。』
金さん:『東大受験や国家公務員試験など、知は立身出世のための知、官知、制度知と化してしまっている。小・中・高に至るまですべての教育がそうなっている。一方で、自分の命を輝かせるような知の使い方、人間が人間らしく生きるための知、基本中の基本の知、民知がある。この二つはしっかり区分けした方がよい。民知とは人間形成の無限の原動力になり得るもので、その民知を育てることが豊かな生に結びつく。官知・専門知はあとからいくらでも身につけることが可能だ。ところで、哲学するとは自足的に自分を見つめること、他者との関係を立て直し新しい関係を築くことだと思う。ただし、これまでのような同を前提とする共同性という考えでは【他者】を生かすことは難しい。【他者】とは自己に回収され得ない存在で、異を前提とする公共性の考えが必要だ。私にとって公共哲学とは、公共性という考えが事実上のさまざまな問題にどこまで役に立つか、どのように役に立つか、具体的な働きとしての公共性について考えてみようということだ。だから公共哲学とは、定式としての考えがあって現実にそれを当てはめるわけではなく、【公共する】=対話する・共働する・開新する(各個人が新しい次元を開く)ことそのものなのである。』
続いて、これまでの討論会での問題について触れます。
『これまでの討論会では、原理(理、権利)、現実上の話(事)、働きにもとづいて考える(用)話が混乱して語られることがあり、それがわかりにくさを生み出してきた。たとえば、【公・公共・私】が原理であるかのように聞こえる。』という武田さんおよび白樺同人からの指摘に対して、
『【公・公共・私】は原理ではなく用の一つに過ぎない。混乱の原因の一つは、公共哲学がまだ非常に若い生まれたばかりの学問であること。二つ目は、やむにやまれぬ切実な思いがなければ、思考は身体化しないということ。これが事・理・用の区別がつけられない理由ではないかと思う。』という回答が金さんからありました。
ここから両者の微妙な、興味深いズレが現れてきます。
『ただし、原理は極めて重要で繰り返し説明する必要があるが、原理のみにこだわるのは原理主義に陥る。現実を踏まえ、原理を踏まえ、働きにもとづいて具体的にどう対応するのかが重要である。また、人それぞれの心の満たされ方は多様であり、そのことを認める必要がある。』これが金さんのスタンス。
『原理をしっかり掌握する努力がまず必要。学者であればなおさら。そのことをはずしたら学問そのものが成立しない。原理を掘り下げること、生活世界の言葉によって常に吟味し続けること、それが原理主義を乗り越える道でもある。まず、なぜあなたは公共哲学に取り組むのか?そう問う事から始めればよい。自身の欲望をしっかり自覚することは、意識の明晰性をもたらし、足が地に着いた考え方・言い方に変わる。単なる客観学(知)からの離脱である。また、よき多様性は、生活世界の現場から立ち上げる知=民知が原理上の出発点であり、その上にさまざまな専門知が乗っかっているという自覚から生まれる。』これが武田さんの主張。
さらに議論は続きます。
金さん:『生存そのものにかかわる知を生命知というならば、今の時代は専門・分化が進んで生命知・生活知のようなものが失われてしまった。それぞれの人がそれぞれの生きる制度の中で専門知を育むことになる。そうすると、私自身の生命知(実体験)だけでは対話不能になり、そこでさまざまな違いを媒介する知が必要だと感じるようになった。それが公共知です。』
武田さん:『専門知を媒介する知というより、生活世界からの基盤知につくことではないか。生活者としての喜怒哀楽から出発する必要がある。そうでなければ皆の心に届くリアリティーのある思想にはなりにくい。』
参加者一の長老である
清水光子さん:『ゼロからの出発、生命の根源の自覚からすべては始まるという金先生のお話は世代が近いこともあり、大変共感するところです。それは、中国・韓国・日本がもっと仲良くするためにも大事な考えだと思います。』
大学生の息子さんを持ち、近所の幼子の親から相談も受ける
染谷博美さん:『公共哲学も一番大切なのは、子どもたちの問題だと思うが、それを考えるには、現状をよく知ることが必要ではないですか?生命知という話も分かりますが、ほんとうの出発点は、みなの生々しい日々の生活にあるはずだと思います。』
目指すものを共有しながらも微妙な差異が見られました。そこに公共哲学を広めていくための重要なポイントが潜んでいるように思います。この差異をさらに掘り下げる対話ができれば、より面白く、深い了解がやってくるのではないでしょうか。
最後に、途中での発言がなかった人から感想、質問、意見が出ましたので、そこでの金さんとの質疑応答を記しましょう。
高校一年生の竹内茉莉香さん:
『確かに幼い子の場合には、大人考えの押し付けが悪影響を持つが、私たちの年令になれば、自分の至らなさを大人のせいにしてもダメで、自分自身で考え、問題を解決していく努力が必要だと思う。公共というのは誰かが決めることではなく、私たちがそれぞれ意見を出し合うなかから生まれるもの』
金さん:『ああ、確かにそうですね』
看護学校生の目黒久美子さん:『「共同体」ではダメだと言う金さんお話には共感しました。私は「共異体」という考え方が大事だと思います。』に対して金さん:『単なる「同」でも単なる「異」でもない「和」が大事ですので、「共和体」という考えがよいと思います。』
更に、なぜ「哲学する」ではなく「公共する哲学」なのか?という内田卓志さんの質問に対しては、ポリスという小規模な都市国家の時代とは違い、巨大な国家が誕生した後の哲学は、公共することが必要になるとの金さんの回答がありましたが、これについては、内田さんの書かれたものをご参照下さい。
締めくくりとして、武田夫人から『金さんは全力を出し「燃え尽きる」とおっしゃっていました。主人とは燃え方が違いますが、お互いにこれからもよく燃え続けてほしいと思います。』との話がありました。
ところで、最初にそれぞれ3分間スピーチで討論を始めようとしたのですが、金さんのスピーチは30分近くになりました。これですと、対話というより講義の側面が強くなってしまいます。その点をどうするか?は今後の課題の一つですが、次回が楽しみになってきました。「自由で対等な対話を繰り返し実践しなければ、共働も開新もない。案じるのではなく、とにかく身を挺してやってみるべき」というのが武田さんの考えですが、その点は金さんも同意見のようです。【異】を前提にした『和』の醍醐味を期待します。金さんの決断と努力が大きな実を結ぶような予感がしています。