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《12/23金さん・武田さんを軸にした白樺討論会》について  11
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《大いなる希望「民知」》

楊原 泰子 (60歳)

楊原

6月に続いて行なわれた12月23日の金泰昌さんと武田康弘さんを軸とした「白樺討論会」への参加が叶わなかったので(6月の会には参加)、討論の内容からは外れてしまうが、最近体験したことなどから白樺教育館の「民知」への想いを書いてみたい。

 私の知人の故郷では戦時中、中国・朝鮮から強制連行されてきた人々が劣悪な環境下で、まともな食事も与えられずに働かされていた。重い荷物を担いで山道を登らされていたその人たちの気の毒な姿に同情した村人たちは山道の途中で小さな一口大のおにぎりを隠し持って立ち、山から下ってくるその人たちの口の中におにぎりを入れた。これを見つからないように続け、多くの人が救われ、戦後、解放された人々が村の人たちに会いに来てくれたそうだ。

 この村の人々は偏った価値観に惑わされず、体制に流されず自らの良心に従い行動した。当時このような行為はかなり危険なものであったにも拘らず、気の毒な人たちを見て行動せずにはいられなかったのだ。

 過去を振り返る時、いちばん感銘を受け、勇気を与えられるのは、英雄と評された人の超人的な行為ではない。名もなき人々のささやかでも良心にそった誠実な行為だ。あの厳しい時代でさえ声を上げ行動した人々がいたという事実は現代の我々に大きな勇気を与えてくれる。社会を見る“ものさし”に普遍性を持ったこのような人々が多くいれば歴史は違う方向に動いたかもしれない。いかなる時代や環境においても一人ひとりの人間は社会を変え得る大きな可能性を秘めているのだ。

 イデオロギーや政治的な体制によって社会を変えるのではなく、市民の心のうちからのよりよき社会構築を目指し、この一人ひとりの実存によって支えられる社会への変革を実現する土台になるのが「民知」であろう。

 普通の人々の生活世界の体験に根ざす、生きた知である「民知」を基とするこの考え方こそが本来の哲学なのだと感じている。長い時間を経て、専門知と化している学としての哲学では、人々がよりよく生きるためという基本理念から離れがちで、そうなれば言葉だけが空回りすることになり、足元が崩れてしまうに違いない。「民知」という考え方は、学としての哲学の伝統という視点からではなく、人が生活世界においてよりよく生きるためにという基本的な理念に常に立脚している。個々が互いの存在を認め合いながら、よりよく生き合う社会を目指すことで、自立した市民が育ち、自ずと真の公共的な役割を果たすことが出来るだろう。

 過去の記録を読む時、この先どんな時代が来たとしても異を唱えることが出来る勇気と真実を見抜く力を持ちたいと願ってきたが、既に今、声を上げねばならない時代に一歩足を踏み入れてしまったようだ。一人ひとりが自らの生活体験に照らして思索し、その思いを素直に表現できる社会を作っていくことが、今、何よりも大切なことだと思う。

 いつの時代でも、国は民意の方向に動かされてきたわけではなく、一部の権力を握った人々の利益のために偏って導かれてきた。生活感や市民の苦しみへの想像力に欠ける政治家や官僚、一部の学者によって動かされる未成熟な社会に希望はない。現在の日本の閉塞的な状況を克服し、誰もが安らかに暮せる「たしかな明日」を築くためには「民知」という考え方こそが大いなる希望である。

 まず私自身が市民としての精神的自立を目指し、よりよき生き方を追及することから始めたいと、この新春に思っている。

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