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金泰昌-武田康弘の恋知対話  9
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2007年5月31日  「ソウルからの手紙」への応答  武田康弘
    独我論は、主観性の開発、掘り進めがないと越えられない.

キムさんのソウルからの応答文は、一言で言えば、「独我論」をどう乗り越えるか?ですが、これはなかなかやっかいな問題で、十数年前にわたしが企画した討論会のテーマでした。サルトルやポンティの邦訳者で哲学者の竹内芳郎さんと、当時、文芸批評家で独自のフッサール読解を世に問うていた竹田青嗣さんを中心に行いましたが、都合6回、一年以上にわたる議論は白熱したものとなり、最後は空中分解に終わりました。

キムさんの一番はじめのお考えー「わたくしの基本的な考え方は「私を活かす=活私」から公共哲学的思考・判断・行為・責任を始動させるべきだということです。」という思想には、わたしも共感し賛同していますが、その「私」をどのように位置づけるのか?「自分の私」=自我と「他者の私」=他我の問題をどう考えるのか?という純哲学的な次元の問題になると、確かに違いがあるようです。

この込み入った問題を「往復書簡」という枠組みでうまくできるかは疑問ですが、できるだけ明晰化するように努力してみます。

まず、「「他者の私」を認め・尊重し・敬意をはらう」にも「自他相克・相和・相生の連動」にも全く賛成ですが、それは、やはり、私(例えば武田)がそのように思い・考え・生きるわけですから、「私の決断」なのだという自覚は、いつも持ち続ける必要があるはずです。「他者の信憑」も「私の意識」において成立しているのだ、ということの自覚が弱まれば、却って他者との相克・相和・相生も難しくなってしまうでしょう。
「他者の私を優先する」という思想や行為であっても、自分がそう考え・そう行為しているわけですから、それが「自分の考え」であることに変わりはありません。また、世界の内に存在している我々は、自分の外にある世界・他なるものと一緒にでなければ「考える」こともできませんから、自・他・世界は、連動して働いているわけですが、「私」=自分の考え・行為には、私が責任を負うしかありません。

確かに、「『自分自身の私』の中だけを深く深く探っていく」というのは、不毛でしかありませんが、逆に「自分の私」を放棄してしまえば、外的人間になってしまいます。わたしもずっと長いこと、他者(子どもや異性とも)と共に哲学し、そうすることで自他を豊かにする営みに精魂を傾けてきましたが、自分が直接できることは、「自分の考えを広げ、深め、豊かにすること」であり、他者もまた同じです。

「自分自身=自己というのは単独でおのずから生成するものではなくて、他者との関係の中で他者との対比を意識する過程で生成・形成・造形されるもの―ものというよりは出来事・事件・ことというべきです。」というのは、全くその通りで異議はありませんが、わたしが言う、【「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶことが哲学することの芯”】と少しも矛盾する話ではありません。自分自身=自己の発生過程を知ること、その本質を知ることとは、次元を異にする話なのです。「私」は「他」が驚き・悦んでいるのを感じ知ることはできますが、その内実は、「私」の確信としてもたらされる以上にはなれません。他者を知り、同情あるいは共感・共鳴することはできますが、他者の具体的経験を他者に成り代わって「私」がすることは出来ないからです。その原事実をよく自覚することが、外からの要請ではなく内側から「独我論」を破ることになるー他者の私(他我)と共に哲学することによって、「私」(自分の私=自我)の主観を鍛え、掘り進め、その深化・拡大を目がける作業が、客観主義に陥らずに主観主義(独我論)への転落を防ぐ唯一の方法だ、私はそう考えているのです。なお、ついでに言えば、独我論が困った問題なのは、それが自他の悦びを広げられない思想だからです。

次に、人権思想についてですが、キムさんの主張されている「公的人権」でも「私的人権」でもない「公共的人権」の内実は、金泰明さんの「ルールとしての人権」という思想にあると思います。それは互いの「自己中心性」を認め、そこに依拠しつつ、内側からそれを超えていく思想です。

では、ソウルへの旅でお疲れがでませんように。旅の安全をお祈りしています。

武田康弘

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