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金泰昌-武田康弘の恋知対話  8
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2007年5月30日 金泰昌
    ソウルから.「自分の私」ではなく「他者の私」の尊重―自己中心性のワナ

5月28日から韓国ソウルに来ています。27日付武田さんのメールは昨日、池本さんから送ってもらいました。

まず「私」のことですが、もしかしたら武田さんの考え方とわたくしのそれが違うのかも知れません。ですから丁寧に語りあう必要が感じられます。わたくしの基本的な考え方は「私を活かす=活私」から公共哲学的思考・判断・行為・責任を始動させるべきだということです。「私」から始めるというのとはやや違うのではないかという気がします。そして「私を活かす」という場合、その「私」は「自分の私」ではなく「他者の私」を優先するということです。自分自身=自己というのは単独でおのずから生成するものではなくて、他者との関係の中で他者との対比を意識する過程で生成・形成・造形されるもの―ものというよりは出来事・事件・ことというべきです。今まで「私」を専ら「自分自身の私」に限定し、それだけに執着し他者への開き・かかわり・つながりを重視しなかったから「私=エゴイズム―自我至上主義」という捉え方が固着したと思うのです。

「私を活かす=活私」とは「他者の私」を無視・否定・排除することによって成立する「自分自身だけの私」ではなくて、「他者の私」を認め・尊重し・敬意をはらうという他者への関心の濃度に正比例して生成・生長・成熟する「自分自身の私」という自他相克・相和・相生の連動の出発点とも言えるでしょう。

ですから、“自分自身の「黙せるコギトー」の声を聴く練習が哲学するはじめの一歩=実存論の原理”というのは自己論=自己哲学の基軸として過去から現在に至るまでの正統哲学によって強調されてきた哲学のあり方の標準でありました。わたくしも長い間そのような哲学の訓練を受けましたし、またそのように教えたのです。しかし、1990年の来日以来、日本とアジア、そして日本と世界の関係を政治とか経済とか貿易とか安保という側面に焦点を置いて考えるのではなく、「哲学する」という立場からその大本を見直すという場合、どうしても気になるのが個人的・集団的・国家的・民族的自己中心性への執着から生じる他者無視・弾圧・否定という問題であります。それはどちらかと言いますと、自己から他者に向かっての一方的な心理・行動・態度・判断です。結局、自己中心性のワナにはまっているということです。

武田さんのおっしゃる“「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶことが哲学することの芯”というのが自分自身とは全く違う、自分自身の全てをもって最善の努力をしても尚かつ理解と納得の彼方に、自分自身の一切を超越して自分自身に問いかけてくる他者の存在とその中に隠れている無限の未知の宇宙に畏れを感じ、身勝手な同化を戒め、いつでもどこでも自己反省・自己批判・自己再生を促す「他者の私」と、それと連動する働きを通して生まれてくる「自分自身の私」を同時に意味するのであればまったく同感するところであります。しかし、今までお会いし、語り合った数多くの日本人学者たちの場合は、ほとんど「自分自身の私」の中だけを深く深く探っていくということに偏重していました。

わたくしはまだ金泰明さんとはお会いしたことがありませんし、彼の著作を読んでもいないわけですから、なんともいえないのですが、わたくしは所謂「人権」というのは一般論としては誰もが一応、その重要性と必要性を認めながらも具体的・実践的な問題として「誰の人権」なのか、そして、「人間の公的人権」なのか、それとも「私的人権=私権」なのか、どこまで念頭に入れ、どこまでを保障するということなのかということも誠実に考えてみる必要があります。「人権宣言」が「人間と市民の人権宣言」という言い方をしているのも「私的人権」と「公的人権」をきちんと念頭に入れた人権の公式化・公認化を意味するものと捉えます。わたくし自身はそれに加えて今後、公共的人権論というのを皆様とともに議論していきたいと思っています。武田さんも憲法の問題に言及なさいましたが、従来の憲法論―日本での議論という意味です―の人権論は圧倒的に公的人権論に偏っています。民法で「私権」が尊重されるという原則が明示されていますが、わたくしは今後、国家・政府が一方的に公認する公的人権論ではなく私人が人間として国家・政府に対して要求し、それが尊重されることを権力を持っても、妨害・阻止できないという公共的人権論を強調したいのです。国家・政府の自己主張の一方的強制ではなく、私人=人間=市民という他者とのかかわり方を一変させるところから始まる哲学こそが公共哲学であると思うのです。なんだか急に堅くなりました。すみません。武田さんのお考えをお聞きしたいです。

金泰昌

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