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金泰昌-武田康弘の恋知対話  10
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2007年6月1日 金泰昌
    「自分の私」を立てるにも「他者の私」のを活かすことが何より大事

昨夜は18時から23時まで西江(ソガン)大学の哲学部の教授及び大学院生たちと公共哲学の具体的な問題を心を開いて語りあいました。問題はいろいろ出ましたが、他者論=他者の哲学=自他関係論が純哲学的な次元というよりは正に現実的・実存的な次元から詳細に議論されました。韓半島は常に外国=強大国=外部=他者からの直接・間接脅威を受けつづけていますし、国内外の諸々の状況が日本のように平穏無事ではありませんから感覚というか、捉え方が日本とはかなりちがいます。十年前のこととか、竹内芳郎さんや竹田青嗣さんと現在のわたくしは、全然ちがう立場―状況―観点―問題意識―現実対応に逼られています。ですから「哲学する」友であり、共働対話者である武田さんと向きあって語りあうということも彼らとの対話とはその方向も内容も、またそこにかける期待も同じではないのが当然です。

「独我論」をどう乗り越えるか?という哲学的問題でありますが、わたくしが武田さんと共に考えたいのは、日本人にとっての韓国人―韓国人にとっての日本人やそれ以外の多様な自国人=自己対外国人=他者が世界のいたるところで政治・経済・社会・文化・宗教などなどありとあらゆる分野・局面・境遇で対立・衝突・紛争の原因になっていますし、そこから言い切れない悲惨な悲劇が生じているわけですから、十年前の議論が空中分解に終わったからと言って放棄することができないのです。

武田さんがおっしゃるように“「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶこと”と“他者の「私」の不可思議・理解不能の深奥”との両方を相関媒介的に考えることが大事であるということを申し上げたわけですから、武田さんとわたくしのあいだにそれほど大きなちがいはないという気がしました。よかったと思います。それは考え方が互いに似ているからよいというのではありません。互いに正直な対話ができてよかったということであります。“他者の驚き・悦びの内実を「私」の確信としてもたされる以上にはなれません”し、“他者の具体的経験を他者に成り代って「私」がすることは出来ない”からと言って、自分自身の内面に閉じ込むのではなく、そのような不理解・不把握の彼方にいる他者を他者としてそのまま尊重することが何よりも重要だと思うのです。他者を自分自身の理解・納得・解釈の枠の中に回収・消化・位置付けしようとするから他者の他者性を奪取することになるのではありませんか。勿論“私の決断なのだという自覚”が必要ですし、“「自分の私」を放棄してしまった外的人間になってしまう”ことを是認しているのでは決してありません。「自分自身の私」を強化するために「他者の私」を犠牲にし、排除し、否定するのは結局「自分自身の私」の犠牲・排除・否定をもたらすことにもなるということを言いたいのです。ですから「自分自身の私」をきちんと立てるためにも「他者の私」を活かすことが何よりも大事な思考・判断・行動・責任の原点ではありませんかと問いかけているだけです。

武田さんもおっしゃっていますように“「自分自身の私」の中=内面の宇宙だけを深く深く探っていく”というのは不毛であるだけではなく、他者無視の横暴にもなりますので、それが現実的・実存的に深刻な問題であるとわたくしは思うということです。
昨夜の議論の中にも人権論が出てきました。人権弾圧の極限状況の真只中で、いのちがけの闘争をつづけ、結局ある程度の成果を勝ちとった民主化運動の実体験をもっている人々ですから抽象的・文献的考察ではなく、生生しい体験に基づいた現実論でありました。武田さんのことも皆さんに紹介し、30年以上の間、専ら自力で一市民としての哲学運動を展開してきた「哲学する市民」の姿に深い共感を感じたようです。

自己と他者の問題はフッサールやサルトルやメルロ・ポンティが誠実に取り組んだ問題でありましたし、それがデリダ、レヴィナス、リクールそしてトドロフなどに継承されてきた大問題ですから往復書簡を通して語りつくせないでしょう。わたくしも決してこのようなかたちで決着がつくとは思いません。ですがこの問題が、今のわたくしにとっては、最緊急課題の一つですので、日本でも中国や韓国でも共に語りあっていくつもりです。
今日は朝からアジア哲学者大会に行きます。何かありましたらお知らせします。

ソウルから 金泰昌

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