previous
金泰昌-武田康弘の恋知対話  7
next

2007年5月27日 武田康弘
    「私」―自我と、純粋意識 / 「ルールとしての人権」思想

「私」から始める、というキムさんのお考えには、全面的に賛成です。実存思想は、わたしの人生そのものですから。

けれども、「私」から始めるという時の「私」とは、わたしの場合、対象化された己=自我ではなく、「私」の意識の水面下を見ることから始まります。自分自身の「黙せるコギトー」の声を聴く練習が、哲学するはじめの一歩=実存論の原理だ、と考えているのです。
言語化される以前の広大なイマジネーションの世界を感じ知ること、「私」の中の無限の宇宙に驚き、悦ぶことが、哲学することの芯だと思うのです。
したがって、私=哲学の出発点とは、言語化され、経験的な次元で自我となった「私」ではなく、沈黙の深層である「黙せるコギトー」=広大な「宇宙」なのです。
それに声を与える作業、言語化していくプロセスが、哲学の練習であり、現実化であると考えています。

以上の意味で「哲学する」のは、日本人のみならず、「私」の純粋意識ではなく「私」の自我による思想の闘いに明け暮れる世界の人々にも、とても大切なことだと思っています。

次に、日本人が抽象思考とか一般化思考を好まないのではないか?というキムさんのご質問ですが、現状は確かにその通りだと思います。その現実を変えるために、『白樺教育館』では、意味論・本質論としての学習にとり組んでいるわけです。

また、「神妙な無責任・脱責任体制」の問題、及び、「細い小さな違法行為は法によって処罰されるが、巨大・強大な反法行為は天下を横行してそれを制するものなし」、というキムさんのご指摘は、全く同感です。その異常な社会のありようを正せない日本人の問題については、私は「思想なき人間は昆虫の属性を示す存在でしかありません」というブログ(「思索の日記」2006年7月30日)にも書いた通り、無自覚のうちに誰でもがもっている思想=価値意識の束を、顕在化・意識化する努力の必要を訴え続けてきました。『白樺』における哲学実践もそのような考えの元に行われています。

最後に「私」と「公」の問題です。
「私」とは、エゴイズムだからダメだ、という俗流「道徳論」と、その思想に基づく強者の「私」にすぎない「官」による日本支配の問題ですが、その現実を変えるための原理的な思想を「共生社会のための二つの人権論」という本に現した金泰明(キムテミョン)さんが、昨日『白樺教育館』の大学クラスに参加され、その後で、夜遅くまで対話しましたが、自己中心性からの出発は哲学の原理であること、そこから「ルールとしての人権」という考えが導かれるというのは、わたしたちとも完全に一致するものと思いました。
しばしば、「官僚独裁国家」と規定される日本社会を内側から開いて行く基本条件は、キムさんの言われる【「公人」とは結局「私人」たちが出した税金を使って私人たちの幸福を実現し、それを妨害するものから保護するための生活装置の管理・運営を委託された代理人である】という民主制社会における「官」の本質をみなが自覚することですが、立憲主義の国家においては、「憲法」の理念と条文に示された市民の意思を守り・実現することが仕事・職務であるはずの公務員、とりわけ官僚がその原則をわきまえるように指導する必要も大きいと思います。公務員研修に携わるキムさんに期待するところです。私のみるところ、その原則への明晰・透明な自覚を持っている人は少なく、愚かな想念―国家の指導者気取りの官僚が多いようです。これは深い思想の闘いですが、そのためには、誰もが納得せざるを得ない原理的思想(民主制社会の原理)を示すことが必要だ、というのが私の考えです。いかがでしょうか?

武田康弘

previous

 

next