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金泰昌-武田康弘の恋知対話  6
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2007年5月24日 金泰昌
    「官」という巨獣による支配―官尊民卑―国体護持―神妙な無責任体制
    細かい違法行為は法によって処罰されるが、巨大・強力な反法行為は
    天下を横行してそれを制するものなし

“「黙せるコギトー」の声を聴く耳を持たない日本の学者や文筆業者のひどいウソ”という表現には魅了されました。しかしそれは日本の学者や文筆業者に限られた宿痾ではないと思われます。言語以前の沈黙の深層の底に流れる情動のマグマを感知するということは並外れたわざ(技・業)ではないでしょうか。誰にも期待できることとは言えません。ですから、何とか彼ら・彼女らの声に謙虚な耳を傾けることにしてきたつもりですが、日本では異邦人であるわたくしの語り掛けに心を開いて応答してくれるというのが、極くまれなのです。ですから読んだり、聴いたりしたことがウソなのかどうなのかもよく分からないのかも知れません。しかしです。武田さんのご意見では日本人が大体抽象思考とか一般化思考を好まないとはお考えにならないのでしょうか。例えば、自分の身内のことになるとものすごくやかましくなるわりには、他人事になりますと冷淡であり、ほとんど思考停止になるということを普段日常生活を通して感じているわけです。北朝鮮に拉致された親類の人権は声高く叫びまわりながらも自国の軍隊によって踏み躙られた近隣諸国の数多い私人たちの生命と尊厳に対しては、証拠が無いとか、他の国々もやったことではないかというような非理・無理・背理をもってごまかして平然としていられるというのが、どうも理解できないのです。ものごとを自他相関的に考えるということ、そして適当に距離を置いて見るというのが抽象思考というのですが、そのような思考回路は十分作動していないように感じられるのです。もしかしたらそれは、「上位者に従う」ということが「上位者の具体的な命令の内容を自分の頭で判断してから服従する」というよりは「上位者の意思」と思われ、そのためになることと勝手に決めて手前に用意されたマニュアル通りに行動するだけのことが限りなく繰り返され、自動拡大再生産された結果かも知れません。ですから個々人は別に自分の問題としてそこに具体的なかかわりを感じないし、したがいまして自責の念も何もないということですかね。あえて言えるとしたら、すべてはお国のためにやったことだし、それを天皇の御国を守るためのことであったということで正当化されると思っているのかも知れません。すべては「公」(=国体)の護持のためであるという最終的なお墨付きによって罪悪感は消去されるということなのでしょうか。であれば初めから終わりまでそこにあるのはシステム=国体としての天皇制という「公」だけが実在し、すての「私」はその中に融合無化されるわけですから、誰も責任を負うとかということが構造的に不可能になっているわけです。実に神妙な無責任・脱責任体制ですね。細かい小さい違法行為は法によって処罰されますが、巨大・強力な反法行為は天下を横行してそれを制するものなしという状態のように見えてしょうがないのです。

“日本における「上位者」とは「私」としての意見を持たない・言わない人”であり、“そうでなければ「上位者」にはなれない”というのも日本だけの事情ではないと思われます。“自分の考えを鍛えるのではなく、上位者であることを示す言動に磨きをかけるのが日々の生き方の基本形になっている”とう現象もどこでも目にするような日常茶飯事ではないかと思います。問題はそのような「上位者」たちが、自分たちのキタナイ「私」(事・心・利・欲・益)を「公」の名の下に充足させながら一般市民たちの細く小さい「私」(事・心・利・欲・益)を犠牲にするということなのです。「公」の実体は果たして何なのかということを冷静に考えてみますと、それは結局武田さんのおっしゃる通りの上位者の命令=既存システムの維持(管理)に必要な(だけにこだわる)権力者の集合(団)意思(及びその仕組)でしかないということですね。それが国民・市民・個人全体のためという口車に乗せられて「私」(の生命・生存・生業)が徹頭徹尾否定されてきたとうのが問題ではないかということです。

わたくしは「民から招く公共」という考え方に対しても、もっとつっこんで調べる必要を感じます。わたくし自身は一人ひとりの私人の「私」(事・心・利・欲・益)を殺すのではなく、活かすというのが発想と行為の原点になる必要を強調したいのです。そして「私」は単独ではなく、複数が存在するわけですから、「私」と「私」とのあいだから、たがいの「私」を活かしあうというのが公共生生の現場であるという捉え方を基本にするということです。今までの最大の問題は「公」という名の下に巨大・強力な一つの「私」が他のすべての「私」を弾圧・抹消・否定したということです。皆のためというのは「権力者」の一方的な思い上がりにすぎないのです。「みんなのため」というのは実際には(具体的な)「誰のためでもない」ということになりますし、それが「善」であるという思い込みを伴うから厄介なことになるのです。「公」と「私」は同一論理の表と裏、大と小、強と弱という関係で相互包摂の関係にあるという実像が見えてきたのです。ですからわたくしはそのようないつわり(偽・詐)への執着から脱出して「私」と「私」との相克・相和・相生のプロセスからたがいの連動向上をはかるという意味の公共を重視するのです。これこそ本当の意味における官民共働であり、私民主導の公私共媒であり、一人ひとりの私人の幸福が複数の自他共福の始動をもたらし、それがたがいの幸福の善盾還作用を回転させる原動力になり、そこから幸福共創の公共世界が拓かれるという展望なのです。わたくしは「民」という漢字のもともとの意味が嫌いです。それはメクラ(盲・瞽)であり、ドレイであるからです。ですからあえて「私人」と言いたいのです。従来は「公人」と言えば何だか偉い権威がついた人間のような感じがありましたが、「公人」とは結局「私人」たちが出した税金を使って私人たちの幸福を実現し、それを妨害するものから保護するための生活装置の管理・運営を委託された代理人であると言えるでしょう。それが「公」という美名の下で自分たちの委託者をばかにしてきたわけでしょう。ばかにするのも程があるということで、私人たちが怒りはじめたのが、今日の反官僚的社会心理というものではありませんか。官がそのような現実をきちんと自覚するようになれば「私人から拓く公共」というのが社会を変えることになると思うのです。「私」はエゴイズムだからだめだというのが正統的な道徳論ですが、「官」は合法的に正当化された強者の「私」の構造化・組織化にすぎない一方、私人たちの「私」は合法的正当化の枠外に放置され、構造化・組織化への途が塞がれました。しかしそのような「官」優性の制度思考は官尊民卑と滅私奉公という時代錯誤的心情倫理によって強化・増幅されたのです。しかしそれは、近代国家という名の「公」の制作にともなう虚偽意識でしかないとは考えられませんか。「官」という巨獣が必要とする成長ホルモンのようなものではないかと考えられますが。わたくしの個人的な見解ですが、「公」からは「公共」への開き直りがほとんど不可能であります。「公」とは統合・統制・統一の垂直的力働であります。それとはまったくちがいまして、「公共」とは多様・多元・多層の水平的共働であるからです。それは「公人の指示」ではなく、複数の相異なる一人ひとりの老若男女たちの「私」(事・心・欲・利・益)をそれぞれの相克・相和・相生のプロセスを通して共に向上・実現・盾還させようとする「私人の工夫」なのです。ですから一度私人の立場に戻って考えるということが先決課題ですね。そこから出てくる私人たちの力がより人間を幸福にする社会を創るには、「私」の見直し・立て直しから始まるのが現実的な道筋ではないかと思われますが、武田さんのお考えはどうでしょうか。

金泰昌

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