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金泰昌-武田康弘の恋知対話  14
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2007年6月7日 金泰昌
    日常の生活世界も理性の外部でないことの確認ができました.

ご丁寧なご説明ありがとうございました。武田さんのお使いになっているいくつかの用語が、所謂現象学の立場を取っていないか、また、それとは反対の立場からものごとを考えている人々にとっては必ずしも自明ではないので確認しておきたかっただけです。わたくしの念頭の中のどこかにちょっとありました余計な懸念の雲が晴らされました。わたくしはいろんな側面で未熟なものですから、よく分からないところがいっぱいあると思います。特に日本ではほとんど常識的になっていることでもわたくしとしてはゼロから学ぶしかないわけですから。武田さんがご指摘なさったように、竹内さんや竹田さんにも何時か適当な時期に教えていただくチャンスがあれば幸いです。

「意識主義の立場」のことも一般的には意識哲学としての現象学は無意識に対応できないと理解されていますし、そのような批判を激しく展開している方々が日本にもいらっしゃいます。ですから武田さんとわたくしの立場は、前意識や無意識も含めて理性の外部として排除されてきた日常の生活世界における、一人ひとりの具体的・実存的私人たちの身体感覚までも立体的=相関的に捉えるということを確認しておく必要があったからです。わたくしはまったく無名の人間ですから、事前の予解事項として素直に受け入れてくれるかどうか定かではないでしょう。わたくしは、所謂理性主義的観念論者だとか認識・理念・パラダイム原理主義者ではないかというような批判・誤解も受けたことがありましたので、武田さんとわたくしの対話にまでそのような雑音が生じることを防止するためであったのです。武田さんがどうだというよりは、自己警戒の意味が強いものなのです。

武田さんのおっしゃる「記号学的価値転換」は大変重要かつ有効な対話と共働と開新の哲学の基軸の一つであります。ですからあえて、「民」という漢字を使いつづける武田さんのご意向を十分理解します。わたくしが「民」とともに「私人」ということばを使うことのわたくしの意図も分かっていただければありがたいと申し上げただけです。

「意識哲学=主観性の哲学=考える哲学」という並列はオクスフォードとケンブリッジでの公共哲学フォーラムで特に将来世代と現在世代の相互関係に関する激論の最中に出てきた反デカルト主義の一人のイギリス人哲学者の発言にあったものです。そこでわたくしが公共哲学はデカルト―ヘーゲル―カントに代表される理性中心の思考・意識に偏向した大陸観念論とは基本的な発想がちがうということと、むしろスコットランド啓蒙主義に似ているところがあると反論したことがあります。ですからあえて言えば、経験論・道徳感情・実践知を重視する哲学運動であると説明したときから時々使うようになった言い方です。武田さんのお考えにそぐわないところがありましたらそのような事情から生じた立場表明の一つにすぎないということをどうかご理解をお願いします。

武田さんが“「最後に」でおっしゃったように「思想や理念がどのような条件の下で花咲くのか?を追求する」”哲学を私たち二人で語りあいたいと思っているわけです。それを阻むものを批判し、その実現方法を探る哲学とは、はたしてどのようなものなのかと。ただ今まで生きてきた世界とそこで体験した事柄とそれに基づいて形成された自己了解と世界認識がちがうところもあるでしょうから相互理解がすぐ成り立たない場合も多々ありえますね。しかしそれはそれで意味があると考えられるのではありませんか。

わたくしは、武田さんの考えていらっしゃる公共性というのを知りたいのです。何回かお書きになったことを読みましたが改めて武田さんのご意見をお聞きしたいのです。

金泰昌

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