previous
金泰昌-武田康弘の恋知対話  13
next

2007年6月6日 武田康弘
    「主観性の知としての哲学」は、「意識主義」ではありません.

キム・テチャン

二年前の今日(2005年6月6日)は、全く未知の方だったキム・テチャンさんから始めてお電話があった日.

左の写真は、その一週間後(6月15日)にテチャンさんが来館されたときのもの.

撮影:厳麗京(ヤン・リジン)さん‐(北京大学卒業後、東京大学研究生)

私もキムさんを「哲学する友」だと思っていますので、忌憚無く書きます。
かつての独我論論争についてですが、わたしが「問題の本質は不変だ」と言うのは、認識の原理論の次元では、という意味です。なお、何が不変で、何が異なるのか?は、当時の討論資料がありますので、必要ならば、それを参照して詳細に検討できますが、公平を期するためにも、高齢ながらまだご健在の竹内氏と今も活躍中の竹田氏にも参加してもらわなければなりませんし、何日もかかる大テーマです。

次に、「意識主義の立場」ということですが、私はもちろん、竹内氏や竹田氏も意識主義ではありません。それを乗り越えるために竹内氏は、意識(前意識や無意識を含む)の立体的把握のために言語の次元の相違に着目して「言語階層化論」を展開しましたし、竹田氏も形式論理の言語学を超えて、生きた現実言語の意味を捉える「言語本質論」を確立しました。両者とも、近代の意識主義と現代思想=ポストモダニズムの双方を超えるために努力を重ねています。

また、国民国家の問題及び共生の問題は、ずっと追及してきたことですので、キムさんの国家主義への批判は全く同感ですが、市民主権の民主制社会における国家の姿について更に考えを深めたいと思っています。

「民」についてもキムさんと相違はないようですが、繰り返しますと、わたしはすべて承知であえて「民」を使うのです。従来の伝統的価値を逆手に取り逆転させる(記号学的価値転倒)ことが、ダイナミックな変革のためにはどうしても必要―それが強い思想だ、というのがわたしの考えです。

なお、「意識の志向性」(ブレンターノの言葉を発展させたフッサールの概念)とは、認識の原理・本質論次元で出てくる概念であって、経験・具体レベルで「自己から他者へ向かう一方向な作用になる」という話を持ち出すのは、次元の違いを超越した見方でしかないと思います。

また、「理論=理念=パラダイムがあって、そこから現実をそこに合致させるのではなく、日々ぶつかる問題状況から哲学していくことなのです」は、わたしの人生そのものであり全く同感ですが、それと認識論の原理をしっかり踏まえるというのとは次元の違う話です。

その次の「意識哲学=主観性の哲学=考える哲学」という並列は意味がよく分かりません。「同時に対話の哲学=共働の哲学=開新の哲学を語り合う哲学の必要性」というのをなぜ対比させなければならないのか?わたしには疑問です。わたしの主張している「主観性の知としての哲学」とは、生きた有用な対話を可能にする哲学の原理であり、それらは一体のものなのですから。

 最後に、

「他者を尊敬することが大事」「他者は自己の理解を超える神秘―聖なる地平」「他者の他者性の尊厳を重視する心構え」というのには、異存はありませんが、哲学するとは、このような思想や理念がどのような条件の下で花咲くのか?を追求することではないでしょうか。よき理念を提示するだけでは、学校が掲げる目標と同じになってしまいますから。

わたしの「民知にまで徹底させた哲学」や「主観性の知としての哲学」とは、対話こそが哲学の命だとか忌憚のないご意見をといくら言われても、実際には、立場に縛られて自由対話ができない社会の現状を変えていくための考えなのです。他者の他者性の尊重や、生き生きと言い合い・聞き合いの自由闊達な対話や、共働や開新を可能にするためにはどうしたらよいかを考え、実践しているのであり、キムさんのお考えと異なるわけではありませんが、わたしはそれを阻む思考法・思想を批判し、どう考えればそれを実現できるかを探っているのです。それがわたしの哲学と実践=人生そのものなのです。(2007.6.6.)

武田康弘

previous

 

next