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金泰昌-武田康弘の恋知対話  12
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2007年6月4日 金泰昌
    「哲学する友」へ 他者の他者性の尊厳を重視する.

昨夜、大阪に戻りました。今回ソウルでのアジア哲学者国際会議を通していろいろ感じたことがありました。その中でも特に21世紀の人類と地球がかかえている哲学的問題状況、そして特に東アジアの哲学的問題状況をどのように捉えるかということを改めて考えさせられました。理論的・文献的情報・知識の交換ではなく、それぞれの国家と社会と人間が置かれた政治的・経済的・宗教的・文化的そして実存的現実条件に基づいて一人ひとりの具体的個々人が身体・心情・精神を通して実感する問題群への人格的対応・決定(決断)・責任の在り方を問うということです。

武田さんはわたくしの「哲学する友」という、わたくしの熱い思いがあるからこそ、あえて申し上げるのですが、十年前の独我論に関する議論と、現在の武田さんとわたくしの対話における問題の本質は不変だという点はたがいに改めてよく検討する必要があるのではないかという気がします。問題は不変の本質というよりは発展・変化・進化する出来事ではないでしょうか。フッサールもサルトルも、そしてメルロ・ポンティも物凄い情熱と高度の知性を総動員してこの問題に取り組みましたけれど、意識哲学の立場からは自他意識の隔たりを埋める(媒介する)ことが結局不可能でありましたし、唯一の代案と言えば、自己(意識)のワナから脱出して他者へ向かう超自我的指向性を躍動させるということでありました。しかしそれが何らかのかたちで自己(意識)の拡大・開展・進化の(大きな?)地平=世界=宇宙の中に他者(意識)を包容するのであれば、すでに他者はその他者性を自己の拡大の中で消失してしまうのです。ですからデリダにしろリクールにしろ、そしてマルセルにしろレブィナスにしろ、意識哲学から言語哲学への転換を選択せざるを得なかったと思います。誤解しないで欲しいのは、だからわたくしが彼らに従って言語哲学を受容するということではないということです。問題のあり方が進化したのです。私たちの問い方が変わったとも言えるでしょう。わたくしは東アジアで特に日・中・韓の人間たち―公民とか国民というよりは私人という立場から―がどうすれば互いに向きあい、ともに幸せになる世界を語りあえるか、そしてそこから国民国家という自己(中心の)世界の究極のあり方への執着から解放され、より実存的幸福の実現が可能になれるまったく別次元の世界―わたくしは相和と和解と共福の公共世界と称しています―を共に築くことができるかということを最大の課題にしているのです。ですから抽象論とも客観学とも事実学に偏向しているものとも違います。それは自他共創の生活世界であり、そのための自他共働の知・徳・行の連動変革であり、何よりもすぐれた意味の自他相生の哲学運動であります。

武田さんの「民」に対する考え方もよく理解できます。わたくしもそのような角度から民主化を民生化―民富化―民福化という三次元相関的に捉えて「民が主人になる」ということは「民が主体的に生きる」ということであり、「民が身体的・心情的・精神的な富を築く」ということであり、「民が自己と他者の相関幸福を実感する」ようになるということであるという実践活動をしてきたのです。ですから今までメクラであり、ドレイであった「民」が主人として生命・生存・生業の真の主人=当事者=決定者であるという思考と行動と判断が何よりも大事であるとも考えています。
しかしそれと同時に「民」という漢字の本来の意味とその使用例についてのきちんとした認識を通してそれがもたらす直接・間接の否定的影響を警戒する必要性も念頭に入れるべきです。例えば、官尊民卑とか官導民従とかいう発想や今日のいたるところで見られる官僚たちの民を無視する行態は、長い歴史を通して蓄積された「民」への心理的偏見が今もまだ存在するということではありませんか。ですからその自覚が必要であるということを申し上げているだけです。

わたくしは武田さんのおっしゃることを誠実に理解するための努力をしているつもりです。そして武田さんの立場・信念・行動を尊重します。ただわたくしは民族・文化・国境・宗教を異にする人間たちの対話と共働と開新をすすめて行くことに全力投入しているわけですから、意識哲学=主観性の哲学=考える哲学と同時に対話の哲学=共働の哲学=開新の哲学を語りあう哲学としてその必要性を強調せざるを得ないのです。これはまず理論=理念=パラダイムがあって、そこから現実をそこに合致させるのではなく、日々ぶつかる問題状況から哲学していくことなのです。わたくしはほとんど毎日そのような問題状況の中で生きていますから。わたくしの今までの経験から申せば、意識は純粋意識であれ、自(己)意識であれ、「誰々の内面」に収斂する傾向がありますし、また志向性(何々についての・何々に向かっての意識のはたらき)と言っても自己から他者へ向かう一方的な作用になるという限界を乗り越えられないと思うのです。わたくしは他者を理解するよりは他者を尊敬することが大事であると思うのです。他者は自己の理解を超える神秘―聖なる地平であると考えるところに他者の他者性の尊厳を重視する心構えが成立しますし、そこから真の人権思想も出てくると思うからです。

金泰昌

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