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2007年6月2日 ソウルへの手紙―2 武田康弘
    哲学は、民知にまで進むことで始めて現実性をもつ/
     「集団的独我論」を超えるには?

キムさん、ご活躍ですね。よろこばしいことです。
海を隔ててリアルタイムでの往復書簡、とても愉快ですね。インターネットの善き活用です。

早速ですが、本題です。
キムさんの言われる通り、十数年前の独我論を巡っての論争と、いまのキムさんと私との対話が、その方法・内容・方向を異にするものであるのは当然ですが、ただし、その問題の本質は不変だと思います。

もちろん私は、独我論者でも主観主義者でもありませんので、他者の私を活かすこと・他者の他者性の尊重については、キムさんと全く同じ思想です。ただ、私が思う「哲学する」とは、そのような思想や理念を具体的現実にもたらすにはどのように考えたらよいか、それを皆(私の場合は、私自身と一般の日本人の現実から始まる)の赤裸々な意識の現場から探る営みです。
さらに言えば、予めの理念やすでにある思想を前提にせず、深く生の現場から思想や理念を生み出す試み、単なる言語的・理論的整理を越えて、皆の生活実感にまで届くように「考え」を練り進めること、その営みを私は民知としての哲学と呼んでいますが、そこまで進んではじめて哲学は現実的な力を持つと考えています。

なお、わたしは、この「民」ということばにマイナスの意味があることは承知していますが、だからこそあえて「民」を使うのです。柳宗悦らの『民芸』―高級品でない普段使いの品々には「用の美」があり、そこに普遍的な美しさがあるとする見方をわたしは支持していますが、それと同じく『民知』という「用の知」としての哲学に、学知としての哲学以上の価値を見るのです。伝統的な意味・価値の呪縛から自他を解き放つ「文化記号学的価値転倒」の営みだと言えましょう。

話を戻します。
独我論の問題ですが、どうもいまの日本では、「論」という次元を遥かに越えて、思想はいらない、主観それ自体が悪であるという想念が蔓延しているようです。政府が示す枠組み=思想については疑わず、その枠内で考えるというわけです。教師や公務員(に限りませんが)は、政治的意見を言ってはならない!と多くの人が信じ込まされている集団同調の国では、思想上の論争それ自体が成立しません。思想を語るのは、権力者と一部の選別されたコメンテーターのみに許された行為のようです。愚かな話ですが、独我論は、溶解して日本主義という「集団的独我論」となっていますので、出口が失われています。この入り口も出口もない状況を変えるには、ふつうの市民が自分で考える営みをするための条件整備―根本的な発想転換・価値転倒が必要で、それがわたしの進める民知としての哲学です。従来の思考法・学を越えて、自他の心の本音=黙せるコギトーに届くまでに「考え」を練り、揉み、進化させなくてはいけないと考えています。それは、恐らく人類知性のありようの転換という地点にまで進み行くのではないでしょうか。言語中心主義を超える壮大イマジネーションの哲学ですが、心身全体による会得を原理としますので、温故知新の試みとも言えます。

少しズレました。わたしは、この「集団的独我論」という矛盾した概念として表現する他ない事態を変えていくための原理は、自分の意識の内側をよく見ること、わざと徹底して主観に就くことだと思います。自我の殻を破って広がりゆく精神=純粋意識は、自分を深く肯定できないとよく働かないからです。肝心なのは、意識の二重性の自覚=自我(経験的な次元)と純粋意識(意識の働きそれ自体)の違いをよく知ることでしょう。
そもそも意識とは何ものかについての意識であり、それ自体を取り出すことはできませんから、私の意識をていねいに見ることは、意識の内実である他我・自我・物・自然・・をよく見、知ることになります。
元来、哲学とは主観性の知です。多くの人が専門知や事実学による抑圧から解放され、主観を開発し、自分の頭で考えることを可能にするための「考え」をつくり、それを実践すること。それが何より急務だと思っています。

今回は、哲学の出し方=始発点の問題と、そこから帰結される民知という考え方=民知にまで徹底された哲学について触れました。もし、市民・生活者による公共哲学が可能ならば、それは民知による他はない、と私は思っています。キムさん、いかがでしょうか。
では、今日のところはこれくらいで。健康に留意され、更なるご活躍を。

武田康弘

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