伝統と近代 日本の国のかたち 武田康弘
千代田区の皇居の近くにある靖国神社を知っていますか?
実は靖国神社は、神社とはいっても、私たちの街に古くからある神社とは本質的に異なるものです。1869年に明治政府が作った「東京招魂社」という施設で、設立の10年後に名称を変え、「靖国神社」と神社を名乗るようになりました。
明治政府がこの施設を設立した目的は、明治維新で官の側についた戦死者を祭ることでした。したがって戊辰(ぼしん)戦争や西南戦争などで反政府の側に立った人は祭られていません。
もともとわが国伝統の神道(神社)は、御霊(みたま)信仰といって、敵味方の区別なく死んだ人の魂を祭るものでしたが、「靖国神社」は政府側の人間だけを祭る、しかも死者を神とする、という伝統とは異なる考えに立っています。
靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。
この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。(日本人にとって「靖国神社」とは何かー小堀圭一郎(東京大学名誉教授)著・平成11年8月、靖国神社で販売している小冊子「靖国神社を考える」より抜粋)
明治政府が日本人を「国民」として組織―統合するために作った宗教、それが「国家神道」=天皇教ですが、その中心施設となったのが靖国神社です。
政府は、封建制の日本社会を短時間で富国強兵の近代国家へと変貌させるために、儀礼的―神話的な存在であった天皇をその神話性を保持させつつ現実政治の場に担ぎ出しました。生身の生きた人間を宗教上の神聖な存在とし、その神格化した人間を現実政治の最高権力者としたのです。
古代絶対王制の発想をそのまま近代社会の中に持ち込んだ結果、日本社会は近代化のスピードを著しく速めましたが、同時に伝統と近代の双方を共にひどく歪めてしまうことになりました。今日に至るまで一人ひとりの市民的−精神的自立を阻んでいることと、伝統的な民衆文化を潰し、自然・風土を台無しにしてしまったこととは、軸を一にしているのです。(朝鮮、中国などアジアの国々を同化政策によって植民地化したこと、恐ろしいほどの民を殺害したことの問題は、また別に主題化します。)
社会―国家(state)は、個々人の約束や合意に基づいてつくられるものという発想ではなく、国家を頂点とする組織優先の思想は、「国家神道」という支配階級の作った擬似的な一神教(いっしんきょう)によって絶対化されました。この国家宗教にもとづく家族主義の社会体制を「国体」と呼びます。自立する輝かしい個性は疎まれ、個人は集団と一体化させられます。大葬の礼などに見られる仰々しい儀式は、人々を黙らせ、洗脳するための手段です。秘密めいているほどアリガタイ!
「日本の歴史は、神武天皇から始まる天皇による治世だ」というデタラメな記述をした教科書は、明治天皇本人の意向で1881年に作られた「小学校教育綱領」によるもので、忠君愛国の道徳と天皇史による徹底した国民教化―洗脳教育が行なわれたことは周知の事実です。極めて強い政治的意図の下に編まれた天皇制イデオロギーは、古代からの素朴な神話的天皇像を利用する巧妙な詐術によって巨大な力をもち、日本の隅々にまで深く浸透していきました。そのため私たち日本人の多くは、敗戦後の今日に至るまでその呪縛から真に解放されてはいません。今なお天皇制を論じること、否、考えること自体がタブー視されている始末です。今年から東京都では、「天皇の時代は永遠につづく」という「君が代」の歌を歌わない教員の処分が始まりました。1891年に天皇の御真影(絵画の複製写真)への拝礼が足りないという理由で内村鑑三は、教員を辞めざるを得なくなりましたが、再び似たような事態になってきました。くわばら、くわばら。それにしてもわが日本人は、いつまで明治政府の作った「天皇教的国家主義」に引きずり回されたら気が済むのでしょうか? 懲りない人々にはウンザリですね。もうそろそろ幕引きにしましょう。
靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。
あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。(出展は、前に同じ)
繰り返します。
靖国神社とは、明治維新のときに政府側の死者を祭るために作った施設であり、その思想は古来の伝統の神社とは根本的に異なるものでした。
言うまでもなく神道とは多神教(八百万の神)ですが、政府の権力者と明治天皇自身が作った「国家神道」は、生身の人間を現人神(あらひとがみ)とする擬似的な一神教でした。思想的内容のいかがわしさ・空虚さを、厳(いかめ)しく尤(もっと)もらしい外観で覆った政府作成の明治の新宗教が、国家神道=天皇教だったのです。
前半を終了するにあたりエピソードをひとつ。
靖国神社の遊就館の売店には、さまざまな戦争グッズと共に小泉首相や安部幹事長の本が平積みになって売られ、読売新聞の宣伝コーナーがつくられています。
靖国神社―天皇制―自民党―読売新聞、がひと続きです。
2004.5.9
(注)「君が代」について
20世紀の世界に負の遺産を作り出した最大の人物とも言われる山県有朋(やまがたありとも)は、今なお続く天皇制と官僚政治(東大法学部が支配する官僚独裁制)の仕組みをつくった明治政府の中軸です。
その山県有朋は、天皇国家が主導する官僚政治体制を固めるためには、忠君愛国の臣民道徳によって国民を教化する必要があると考えていました。1890年(明治23年)、当時首相だった山県有朋は、「自由民権運動」の思想を元から絶つために、教育勅語と御真影と天皇讃歌「君が代」を用意し、小学校の教育改革に着手しました。
「教育勅語」(勅語とは、天皇自身のお言葉という意味です)の奉読。 あの「若菜集」の作者、島崎藤村に韻やリズムなど文体の校正を依頼して仕上げた格調高い名文によって、忠君愛国道徳を示しました。
明治天皇の絵画を複写した写真=「御真影」への敬礼。
天皇讃歌「君が代」の斉唱。 音楽は人心操作には必須のものー君が代(天皇陛下の時代)は、千代に八千代に(永遠に)、というわけです。
以上の三点がセットになっていたのです。しっかりした型を作ることは、洗脳の最も重要な仕事です。
君が代の歌詞は「古今集」にある読み人知らずの古歌ですが、曲は1880年11月3日に天皇誕生日を祝い、宮中で初演されました。もともと天皇讃歌であり国歌ではありません。天皇讃歌なので天皇は歌わないのです。
余談ながら、1881年に教科書に載った最初の「君が代」は、今とはまったく違う、軽やかで明るい曲でしたが、1893年の教科書からは、宮中で初演されたのと同じ今の曲に統一されました。
こうした国家―天皇を中心にする形式優先の紋切り型の考え方は、いうまでもなく、低次元の拙劣な思想でしかありません。「絶対」を置くような思想は、そもそも思想ではなく、主義にしか過ぎないのです。自由な発想・伸びやかな個性―豊かさや広がりのある思想に基づく市民主権社会のもつ明るさとは逆の国家主義思想を生み出す精神を、私は「冷たいヒステリー」と呼びます。エロス(愛)や優しさのない厭らしい厳禁の思想は、「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン)しか生みません。政治家に限らず、どうも日本の「エリート」層の精神は、ヒステリーでしかないように思えます。倍音の豊かな音、フワッとした三次元的な広がりの世界とは全く対極にある精神です。
天皇讃歌だった「君が代」を、1999年に国会の議決で「国歌」としてしまい、今度は、歌わない教員は処分するというなんともヒステリックな為政者の言動が、反対運動側の人間の心もヒステリーにしてしまう、そんな感じです。
ひとつに決め付けてくるような固く息苦しい「主義」の押し付けは、響きのないギーギーという下手なヴァイオリンの音を連想させます。そういえば、受験主義の勉強を子どもに強要する親などもヒステリーの最たるものですね。
後半では、みなが納得できる対案―これからの「日本のかたち」を考えたいと思います。
ところで、「君が代斉唱、ご起立願います。」と言われたらどうしましょう。
私の場合は、事を荒立てず、起立して、しかし、歌わない、としましょうか。あっ、そうすると天皇と同じ、ということになりますね〜。
(2004.5.14) |