これからの日本の国の姿 武田康弘
神話上の話としてではありますが、「天照大神(あまてらすおおみかみ)は天皇の先祖である」という逆転した話を信じている人が、学者を含めて大勢いるのには驚いてしまいます。
天照大神とは、太古の人々の自然崇拝の中心にいた太陽神のことです。8世紀の初頭に、他の豪族を退けて政治権力を握った天皇は、自らの権力支配を正当化するための必要から、人々の自然崇拝の中心であった太陽神=天照大神(もともとは土着の豊饒女神と言われる)を「自分たち天皇家の祖先だ」と言ったのです。
古事記の後半や日本書紀には、日本の八百万(やおよろず)の神々が天皇の先祖として描かれていますが、これは、どこの国でも政治権力を握った者がする「神話と歴史」の創作です。
そのお話に単純に乗っかって日本人の心やその歴史について語るとしたら、ピント外れの無駄話にしかなりません。言うまでもないことですが、日本人の自然への憧憬と崇拝の心は、天皇支配のはるか以前からのものです。天皇家は、天照大神を自分たちの祖先だ、と宣言することで、人々の神を天皇家の専属にしたのです。
冒頭の逆転した話を信じている人は、なんと1300年も昔の天皇制律令国家の戦略に今なお呪縛(じゅばく)されていることになります。
そういえば、小泉首相の後ろ盾、森・前首相は、日本は「天皇を中心とした神の国だ」と言っていました。「能天気が首相を務める官僚主義の国」から早いところ抜け出したいものです。
周知の通り、明治政府は、この古代の天皇制を持ち出して日本の近代化を進めたわけです。『盗まれた神話』(古田武彦著)その他多数の研究書で明らかにされているように「人の褌(ふんどし)で神輿(みこし)を担ぐ」式の記紀神話を、そのまま歴史的―現実的な史実として「近代天皇制」を作り上げた明治政府の所業を反省してみることは、現代なお喫緊の課題でしょう。明治という日本の近代を解剖することなしには、未来への希望も、よき伝統の再生もあり得ないのです。
近代社会の只中に天皇という現人神をつくり、それを憲法で、主権者=最高権力者と規定し、天皇のために死ぬことは立派なことだ、という洗脳教育をしたわが国の近代―ヒステリックなイデオロギーで現実政治を進めた愚かしさは、どんなに反省しても反省しすぎということはありません。
戦後、日本社会はその問題と正面から向き合う努力を怠ってきたために、現在、大きな壁にぶつかっているのです。「国体」イデオロギー(注)を引きずってしまい、曖昧模糊(あいまいもこ)とした天皇制とセットになっている官僚主義政治の変革ができないのです。精神的に自立する市民が育たず、市民社会が成熟しません。会社人ではあっても「公民」=社会人になれない未成熟なままの只の「私」としての大人が増えていくという現状に対して、何も見えていない為政者たちは、なんと再び、日本主義―国家主義を持ちだそうとしています。
表層的な「事実学」だけで、物事の意味や本質についてはほとんど何も知らない日本の「エリート」たちの知的退廃には呆れ返るほかありませんが、その「一般的思想の驚くべき貧困と結びついたシニカルな現実主義」の言動によって、日本の社会はますます混迷の度を深めています。
シチズンシップのある「市民」を育てない学校教育、時間的余裕を持って社会活動に取り組める制度を作らない経済万能の冷酷な政策、考え・意味をつかむ頭と対話能力を潰(つぶ)すパターン化した受験教育と、そのステレオタイプの知に支えられた愚鈍な官僚主義による社会運営、それこそが、日本人を自由と責任をもった市民にしない一番おおもとの原因です。それを生み出す暗黙のイデオロギーが「国体」ですが、その「国体」については、(注)に記します。
人間を幸福にしないこの思想とシステムの問題には目をつむり、おかしなイデオロギーを持ち出して、目くらましで人々を欺(あざむ)こうとする為政者(本当は、為政者自身が馬鹿げた観念の虜になっているだけのことですが)には、お互い騙(だま)されぬように充分用心したいものです。私たち市民を守り、勇気づけてくれるもの、それは創造的で変革的な思考力―自分を取り巻く現実について深く、強く、考えてみる実践です。
そこで、よき日本のこれからの姿について、創造的=現実的に考えてみたいと思います。
言うまでもなく自由と平等は、人類が長い間かけて獲得した普遍的な理念です。人権思想は、個々人の自由と平等を前提としています。生まれによる差別、あるいは特権を認めることは、前提を壊(こわ)すことになります。タブーを持つ社会は、必ず腐敗し、その社会の成員の心を不健康で、歪んだものにしていきます。これは人類史の教訓です。
明治政府のつくった「天皇制」は、敗戦前までは、天皇と呼ぶ個人に、他の国民と差別した絶大な権利=肥大化した異常な人権?神権?を与え、敗戦後は、
他の国民には保障されている基本的な人権さえ天皇には与えていません。
冷静に考えれば誰にでも分かることですが、これは、近代以降の社会としては、極めて異常な事態です。これからの「よき日本の国の姿」を考えるためには、まずこの問題を解決することが必要です。
時間(元号)、空間(住居)、人間性(人権)、の3点を中心に見ていきましょう。
(注)「国」とは何か 「国体」とは何か
@ 政府(state)―という意味での「国」を作っているのは、私たち一人一人の個人の意思です。衆議院も参議院もその議員=自分の考えを代行する人間を直接選び、また不適格者と考える議員を辞めさせるのは、国民である私たち以外にはいません。「国」(state)が先にあって、私たち個人がいるのではなく、個人が「国」を選び、作っているのは、簡明な事実です。これには議論の余地がありません。
A しかし、文化―生活の仕方や言語を共通にするという意味での「国」は、個々人の決定の前に、習慣―前提としてあるものです。もちろん、文化も個々人の意向によって変化していきますが、惰性性が強いため動きは緩慢で、比較的安定しています。
B さらに気候・風土という国土しての「国」(country)という言葉は、生まれ育った故郷という意味で使われますが、これは、文化・個々人の人生、双方の基盤となっているものです。
流行や風俗という意味ではない、もっと基本的な生活の仕方−言語−気候風土として意識される「国」(AとB)は、本来、政府―政治思想とは無関係です。当然のことですが、保守主義や右翼―国家主義者、日本万歳の愛国主義者※とは、何の関係もありません。
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こういうイデオロギーを振り回す人間は、自分の人生の疎外感・不全感・ルサンチマンを、国家を信奉する宗教によって克服しようとしているにすぎません。いつも外なる価値を追いかけ回す脅迫神経症者=受験主義の勉強を強要された「エリート」(もちろん偽エリート)やその裏返しでしかない「劣等生」は基本的にみなそうですが、自分の内なる声=内なる欲望を順番を踏んでよきものに高めていくことに失敗しているために、「超越」的な価値を信奉して生きるほかありません。オカルト信仰、大学名の序列信仰、有名信仰、皇室信仰、国家信仰・・・・これらはみな「外的人間」のヒステリー症状です。親の鬱々としたエゴが、子供の心の柔らかな調和=内的充実を育てず、外なる価値を追いかける競走馬にしてしまうために起こる悲劇―惨劇です。いつも知・歴・財の所有の量ばかり気にする神経症=歪んだ心の投影です。一生、自分が自分の人生の真の主人にはなれず、内的な喜びのない人生を歩むことになります。 |
長いこと儀礼的―文化的存在であった天皇を現実社会に持ち出し、「天皇を頂く国家主義」を東大法学部出身の官僚によって運営する(政冶家は猿回しのサルにする)という山県有朋の作った明治政府の政治システムは、敗戦後もずっと官僚と癒着した自民党政権により維持されてきました。
明治から今日まで、この官僚的権威主義というイデオロギーを永続させることを至上の価値と考えている人々は、政府(state)としての「国」(@)に、本来は何の関係もない基本的な生活の仕方−言語−気候風土として意識される「国」の概念(AとB)を重ね合わせる詐術によって、「国体」という日本独自の概念を作り、これを政治思想の基盤としているのです。日本政府が、敗戦後も明治政府の作った「近代天皇制」の存続に躍起となったのは、「国」を一つの実体とする=「家父長制による家族」としての国家を維持するためには、長たる権威者―世襲による天皇を必要としたからです。
「国体」という意味での「国」という言葉を何気なく日常的に流布させることで、政府(state)としての「国」(@)の基本政策や思想を批判することは、日本という国の総体(AとB)を批判することだ、よって非国民!というレッテル貼りが可能になったのです。
マスコミも政治家も、いつも、国側敗訴とか国は対策を怠った、と言いますが、これは、行政側とか政府と言わなくてはいけません。聞かされる人は、知らないうちに「政府や官僚制度」が「国」だと思い込まされてしまいます。私たちは、官僚主義の政府を批判するのであり、国を批判するのではありません。
日本と日本人のよき伝統を生かし、未来を切り開くために、真摯な批判と新たな建設のために努力する真の愛国者を「非国民」として排除し、贔屓(ひいき)の引き倒しのヒステリックな日本主義者―国家主義者をよしとするようなイデオロギーは、百害あって一利なしです。「日本主義者」こそが私たちの国−日本をダメにしてしまう最たる者なのです。
理解し思考する能力、問題を発見し解決する能力、総合的判断力、吟味し応答する能力、創造力、想像力、企画立案能力、記憶力、人間の関係性を深め広げる能力、直観=体験能力、臨機応変、当意即妙の能力・・・・・・。人間のさまざまな知的能力のうち、記憶力と事務-情報処理能力だけに特化した同じタイプの人間=ステレオタイプの受験勉強を勤勉にこなす頭脳の持ち主だけを官僚政府の「エリート」とする基本政策によって、この「国体」という主義は支えられてきました。 なぜ?なんのために?なにを目がけて? という最も重要な問いを封印し、既存の知をパターン化して記憶するだけの馬鹿を「エリート」とする政策は、現代の日本を暗く重く、生きる価値の薄い、つまらない社会にしています。
「国体」とは、為政者があらかじめ決めておいた「国」のカタチ―制度に個人をはめ込む、という「人間を幸福にしないシステム」のことです。一人一人の様々な想いー発想を出発点にして、個人の考えを育て、公論を形成し、合意と約束によって国=国家をつくるという近代以降の社会原理とは全く相容れない主義なのです。「人間力」を生かさないこの有害な思想は、内的世界=個人の生きる意味を元から消去してしまいます。外なる価値を追いかけ回す神経症患者だらけのこの国を変えていくのは、他の誰でもない、あなたと私です。
武田康弘
2004.7.17修正
2004.6.2 |