認識における言葉 体験能力 よき生
武田康弘
教育が普及した近代社会―啓蒙時代以降、私たちは、事象―事態を言葉や数字等の記号に表すことで「分かった」と思うようになってしまいました。それがしばしば的外れの「確信」(紋切り型で形式的―表層的な理解)でしかないことに気づこうとしません。
元来、言葉や数字は過剰になると物事は見えなくなるものです。
肝心なことは、心身の全体を使って直截に知ろうとすることーよく見て、よく聴いて、よく触れて、よく味わうことです。言語化したりされたりする以前の豊かで大きな世界を心身の全体を使ってよく経験すること。言語によって観念化される前の事象―事態そのものを全身で感じ知ろうとすることです。
言葉に言葉がもつ以上の役割を与えてしまった言語中心主義、言葉を神にしてしまう言語教が、世界を小賢しく小粒にしてしまい、神経質でかつ鈍感な人間を生み出してしまいました。言語だけを明確にする技術を仕込まれた哀れな「優等生」は、自分には何も見えていないことに気づきません。柔らかく掬い取るように対象と触れ合うことのできない本質的に鈍感な人間を、私たちの社会では優秀と呼んでいます。
だがしかし、偽善―形式主義―紋切り型の言葉=社会システムを変えていくにもやはり言葉を使うしかありません。
言語を神にしてしまう上記のような逆立ちを防ぐために注意しなければならないのは、
1. |
言語を明確にすることではなく、言語は、意識を明晰にする手段として使うこと |
2. |
言語によってできることと、言語ではできないことを区別すること |
です。
心と体で感じること、想うこと、五感の全体で感じ知ることー感覚の明晰と悦び、感情の豊かさと深さ、それこそが核心です。人間の幸福=よき生とは、詰まるところ心身の快活と充足であり、魂の覚醒と喜びなのですから。
よき生のためには、記号化(言語化―数字化)したことで「分かった」―「知った」と思う単純で硬直した意識を繊細でしなやかなものにする必要があります。観念が優先して言語に囚われている人は、目の前の物、事象、事態が全然見えません。感覚が鈍磨して空気を読むことができません。気配を察することができません。心身が硬く、型はまりで、自己の観念に閉じこもっていると、自分を取り巻く世界からエロースを汲み取ることができなくなります。
豊かに感じ、豊かに知ることが、よく生きることです。心身全体で感得し、心身全体で生きたいものです。よく見、よく聴き、よく触れ、よく味わう力=体験能力を養うことが、人間に言語使用を可能にしている想像力の世界を広げることになるのです。体験と想像の力が乏しいと全ては砂上の楼閣(ろうかく)となって、生きる意味が消えてしまいます。
認識における言葉は、意識を明晰にするためや、既成社会に囚われている心を解放するためにこそ使われるべきものです。言葉によって固定観念に縛られ、身動きがとれなくなったのでは本末転倒です。価値ある認識をもたらす生きた言葉の使用には、体験と想像の力が不可欠です。頭と心と体のすべてを存分に使って、生き生きと知りー生きようではありませんか。
(2004.2.29) |