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39. 「知」を有用なものとするために
  - 「方法的自我主義」の提唱 -

 『最近の若者は!』というのは昔からある年配者の嘆きです。これは今も変わりません。むしろ以前より強くなっているかもしれません。では、何でも厳しく対応すればよいのでしょうか?それはちょっとなあ、と感じている方は是非、今日紹介するタケセンの文章をじっくり読んでいただければ、と思います。ちょっとヘヴィーですが、それだけの価値はあると思います。


「知」を有用なものとするために
- 「方法的自我主義」の提唱 -

 ある人がどのような人間であるかを決めているのは、言語化された思想ではなく、「身体化された無意識の思考」です。感覚的・感性的な世界として現れる「身体化された無意識の思考」は、意識的な思想を包摂(ほうせつ)しています。
ただし、言語化されていないのが「無意識の思考」なのですから、それを知るためには記号論的な読み解きが必要になりますが。

 近代社会の政治イデオロギーに代表される思想の争いは、実は、表層的な「擬似思想」とも呼ぶべき次元の戦いでしかありません。その真の動機は隠されているのです。
「身体化された無意識の思考」にまで降り下ることがなければ、思想とは現実性・有用性のない「知的?遊び」にしかなりません。現代の多くの思想―言説は、心身にまで届く深い納得を生み出す「知」とは程遠い「制度化された遊戯(ゆうぎ)」でしかないでしょう。

 近代のこの悪しき「習い性」から脱して、「知」を真に有用なものとして血肉化させるには、まず己の自我をいったん溶かしてしまう必要があります。
 そのための方法が「方法的自我主義」です。あえて、わざと徹底して自我を肯定することで、自我主義のおぞましさ、厭(いや)らしさを元から絶つ試みです。

1.

知・歴・財の所有者に寄り添い、その場その場で都合のよい方につくいやらしく、醜(みにく)い裏切り者としての人間。

2.

心の本音において何かしらの「権威」に頼って生きているために、ふつうの多くの人々の心に問い、心を聴くことができず、自己の信念を絶対化する独善者としての人間。

  じつは、この不毛で不幸な両・自我主義は一つのメダルの裏表にしかすぎないのですが、これを克服するための方法が、わざと徹底して自我を肯定する「方法的自我主義」です。
自我は、真に肯定された時にだけその殻を破ることができます。ある人の存在がどのようなものかは、「身体化された無意識の思考」、言い換えれば、欲望のありようーその質と量が開示しています。人間の存在仕方は、望むこと、したいこと、すきなこと・・・として開示されるわけですが、それを否定するような言辞=考え方は、人間が内的に生きること・内的に成長することを阻害してしまいます。
(注:ここで言う欲望とは広義の欲望です。マイナス価値のものだけをさすのではありません。欲望とは人間の生(実存)の原理中の原理であり、実存論の最重要な概念です。『1998年の私のエクリチュール』のP.20を参照)
 
否定からの出発は、こころの一番深い場所を破壊してしまうのです。こころを破壊された人間は、外的な価値を信じ、外的な価値に従って生きる以外に生きる術がありません。いわゆる「エリート」(偽エリート)は外的価値を追いかける競走馬として飼育されるために、こころの世界が希薄な外面人間としての生をおくる他ないのです。

 欲望の肯定から出発しなければ、人間は内的に成長することができません。「こうすべきだ」「こういうものだ」ではなく、必ず、「こうしたい」を受け入れ肯定するところから始めなければ、人間の自我は成長を止めてしまいます。
 肯定されれば、自我は、その殻をひとつずつ破って、だんだんと純粋意識の働きを強めていきます。この純粋意識の働きが内面=良心の扉をひらくのです。
 そのためには、まずは、自分自身の存在を徹底して肯定してみることが必要です。世界の景色が変わります。人間のこころは、肯定され、受け入れられ、無条件に愛されなければ育たないのです。こころが枯れてしまえば、人間は人間としては生きられず、ただの「事実人」に陥ってしまいます。これは〈人間存在の原理〉です。

 自他のありのままの存在を受け入れること、出発点はそれ以外にはありません。真に存在を受け入れられると、人間は、自我―その生き方=考え方を具体的-現実的に成長-変容させてゆきます。
 自我は肯定されることで階段を上り、だんだんと純粋意識の働きを強め、内面=良心の扉がひらかれるという〈人間存在の原理〉。これを踏まえないイデオロギーは、どのようなものであれ決して幸福をつくりません。それは、妬(ねた)み、嫉(そね)みなどの感情を生み出し、自分にも他人にも何かと難癖(なんくせ)をつけ、純粋に喜ぶことがなく、愉しさの世界を発展させることが出来ず、暗く重い人生を自他に強要するいやな人間をつくってしまいます。内側から湧き上がるよきものがないと、外の価値を追いかけまわす強迫神経症者として生きる他なくなるからです。充足は、永遠にやってきません。不平不満のブス・ゲス顔か、情緒音痴のとんがり顔か、偉がりの傲慢(ごうまん)顔か、いやらしい粘着顔か、とにかくノーサンキュー!です。

 白樺派の精神を表している志賀直哉のことばー「子供にこう教えようと思う。『自分を熱愛し、自分を大切にせよ』と。」は、人間の生の出発点を一言で言い当てています。よき大切なものとしての〈私〉に立脚しなければ、〈他者〉もまた空虚な自己観念にしかなりません。それでは〈公〉とは「集団同調」の別名にすぎなくなります。
 この始めの出発点が明晰に意識され、踏まえられないと、普遍的な考え方=真の〈公〉=パブリシティー(市民的共同意識)をつくりだすことに失敗します。出発点を間違えると人生は永遠の「もぐら叩き」です。
 自我・他我を存在としての次元で深くしっかりと肯定できると、経験的な普段の生活の次元においては、逆に自我が弱まり純粋意識の働きが強くなります。そこから率直に批判し合えるダイナミックな人間関係が生まれ、価値ある有用な「知」がつくられるのです。

 他の動物のようにそのまま「自然」には生きることができない私たち人間が、自他の存在を肯定し、よく生きるための方法、それが私の提唱する「方法的自我主義」です。
 現代の「制度化された知」は、出発点を間違えて客観主義の立場に立つために、真に「自分」から出発することができず、したがって「身体化された無意識の思考」にまで降り下ることができません。この「意識的思想」の次元に留まっている「知」は、生の現実とは関係のない、せいぜい「コップの中の嵐」にすぎません。
 存在の次元における充足=喜びがないと「知」はその本質において他者を抑圧する「優越のアイテム」に過ぎなくなります。「知」を有用な価値あるものとするためには、自分の生を肯定しつつ、よく自覚し、〈人間存在の原理〉を了解することが不可欠です。

 最後に蛇足です。外的価値(知・歴・財)を所有していると思い込むことで、自分を価値ある者と思っている権威主義者、「エリート」主義者 = 本質的に「育ちのいかがわしい人間」と関ることは徒労でしかありません。念のため。

2003.8.9 武田 康弘
 

2003年10月8日 古林 治

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