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  • 224. 七三一部隊を支えた埼玉のネズミ



    鈴木文子さん
    2020年7月31日
    撮影:武田康弘

      白樺教育館同人で詩人の鈴木文子さんによる調査報告『七三一部隊を支えた埼玉のネズミ』を紹介します。

     その昔、鈴木さんが東武鉄道本社に勤務していたころ、偶然、資料室で「七三一部隊のためのネズミ飼育」に関する資料を見つけ仰天したのでした。これが始まりでした。

    「これを放置したままだと、事実関係は闇の中へ消えてしまう。」
    そう思い続けた鈴木さんは その後、関係者の証言を尋ねて事実関係の全体像を求め歩きました。中国にも出向き、七三一部隊に関する資料、写真を確認してきました。その成果はさまざまな場での研究発表として実を結ぶことになりました。

     七三一部隊という存在は特別なものとしてあるのではなく、私たちの日常の延長にあったことを思い知る貴重な研究報告と思います。以下に、 鈴木さんが描いた文書を何点か紹介することにします。詩人らしい表現も含め鈴木節をお楽しみください。

    ●七三一部隊を支えた埼玉のネズミ
    ●「埼玉県東部地方を中心としたネズミの飼育を追って ―ネズミ飼育と七三一部隊―
     (2020.10.31「野田地方史懇話会」
    ●みんな元気で平和がいい(最後の朗読)
    ●七三一部隊「ネズミ飼育の始まり」 

     なお、写真、資料等については、後日、改めて追加することにします。



    ●七三一部隊を支えた埼玉のネズミ           鈴木文子

    埼玉県春日部を中心に始められたネズミ飼育は
    中国から愛玩用として伝わったと言われる

    近郊では 大正時代に近代医学の実験用ネズミが飼われ
    昭和になると雑種ネズミの研究が始まり 試行錯誤を重ねた結果
    出来上がったのが白ネズミ 実験用の「カスカベ群」だった

    ✽ネズミ飼育地では

     ネズミ飼育は埼玉県が全国の七割を占めていた
    ネズミ集めを職業とした「ねずみ屋」と呼ばれる人も古くからいて
    七三一部隊からネズミの注文が来ると ねずみ屋のボスが
    広い集会所を借り「ネズミ増産集会」を開き
    お国のためにネズミを飼うんだ! と大声を張り上げながら
    飼育農家を集め慰安会を開いたり 映画を見せたりしたと言われる
    ネズミの飼育箱や金網 餌は東武鉄道が貨車で運んでいた

    訪ねたのは庄和町 冬の水田は見通しがいい
    点在している農家の屋敷林が浮島のようだ 
    かつてこの辺りは
    ネズミを満載したねずみ屋の車が 土煙を上げ走っていた地域だ

    一九四五年 中国ハルピン市郊外 平房(ビンファン)
    軍医中将・石井四郎の発案により「ネズミ300万匹増産」命令が出た
    日本軍は埼玉県東部地区に重点を置き 仲買人「ねずみ屋」を送り込んだ
    「ねずみ屋」は 鳥打帽にゲートルのいでたちで
    ネズミは儲かる 100箱飼えば蔵が建つ!と
    飼育から出荷のイロハを説き 田んぼから田んぼのあぜ道を
    連日 ネズミのようにちょろちょろ走り廻った

    農家はねずみ屋の支持どおり
    木箱に藁を敷き二十日で子を産む「二〇日ネズミ」を
    オス一匹・メス五匹を入れて飼うと 一度に一〇匹ほど子を産んだ
    餌は くず米と野菜くず 軍から届く大豆かす
    一箱が みるみるうちに五箱一〇箱に増え 一〇〇箱飼う農家もあった
    飼って見ると 尿の臭さに辟易したり
    箱をかじって逃げられたり
    飼育箱に蛇が入ると その箱は二度と使えなかったりしたが
    六〇〇〇軒の農家が 年間四七万匹を出荷した

    大型の大黒ネズミ・ラッテ 一円 小型の二〇日ネズミ マウス十銭
    ねずみ屋が来る日ネズミたちは キュッキュッと鳴いた
    動物には命の危険を察する本能があるからだ
    ネズミは毎月五万匹 七三一部隊専用機で立川基地から海を越えた

    ネズミ飼育地 埼玉近郊の人々は
    出荷したネズミが何に使われるのか 
    何処に運ばれて行くのかを知らない
    ねずみ屋にも詳細を知らされていない 
    農家が知っていたのは儲かること ただそれだけ
    自分たちが収めたネズミ 自分たちの国が海を越え 
    何千人の命を奪ったか 知らなくても罪はある
    今なら言える 今だから大声で言える
    許せない戦争 赦してなるものか細菌兵器

    日本軍は
    中国の農協にネズミ確保を命令
    農協と協定書を結び「大型ネズミ三〇万匹確保せよ
    民間人にもネズミ取りを強制し 一日のノルマが課され
    民衆はネズミ取りに専念した
    ノルマが達成出来なければ罰金を科した
    学校で子どもたちにネズミ取りをさせ 褒美に鉛筆を特配した
    ネズミ捕獲作戦は大人・子供を問わず 満洲各地で展開された

    ✽ネズミ一匹は 戦車一台分に匹敵する

    ペスト菌は人間にも動物にも感染する細菌
    人間に感染する多くは ノミの仲立ちによるものだった
    ノミからペストネズミに着目したのは 
    ノミ研究の第一人者と言われた 石井四郎だった
    ノミの餌となるネズミ三五〇匹で ペストノミ一キロ
    ネズミ一ヶ月三〇万匹で ペストノミ三〇〇キロ
    ペストノミは中国各地でピンピン跳ね菌をばらまいた
    村々の井戸にも ペストノミが投げ込まれ
    井戸水を飲むと喉にぐりぐりが出来 三時間で息絶えた
    村人たちが死人の棺を担ぎ 墓場から戻ってみると
    また 二人 三人と息絶えているのだった
    死んだ母親にしがみつき泣いている幼い女の子 
    その子も間もなく母の所に行くのだろう

    ✽ペストノミ培養と散布(ネズミはモチ・ノミはアワと言われた)

    七三一部隊には特別班があり 特別動物小屋があり 
    ネズミやノミが飼育されていた
    一八リットルの石油缶に小麦粉を敷きつめ
    ペスト菌を注射した白ネズミを籠に閉じ込め ノミを少々入れる
    室温四〇度 湿度七〇% サウナ風呂のような部屋で
    ノミはネズミの血を吸い ペストノミに変身しどんどん増えた
    籠のネズミは骨と皮ばかりになり
    四・五日でミイラになると また新しいネズミを補給した

    風呂桶に小麦粉ごとノミを空け 浴槽の水抜き穴を赤い電球で照らすと
    電球に向ってノミが飛び込み 下に置かれたビンに落ちて行く
    七三一部隊には四五〇〇個の石油缶があり
    二・三か月で四五キロのペストノミが採れたと言われる

    飛行機による散布は 爆弾型の陶磁器にペストノミを詰めて落した
    割れた陶磁器から無数のペストノミが 周囲の人々を襲った
    ペストネズミを飛行機に積み 上空から放り投げた
    地に叩きつけられ死んだネズミから 
    飢えたペストノミが無数に飛び出し 人々の血をむさぼった
    人々はペストに感染しもがき苦しみ あっという間に息絶えた
    また
    ペストノミを空き瓶に詰め 民家の縁の下や井戸に投げ込んだ
    村人はペストに感染し 火傷のように皮膚がただれ死に至った

    ✽ネズミ不足と内地の戦後

    一九四一年常徳(チャントー)中国湖南省北部の作戦では
    「部隊ノ士気アガル アワ(ノミ)に対する自信あり」と
    細菌戦の成功が伝えられ より大規模な準備が整えられた
    しかし
    一九四二年 日本軍は自らのペスト攻撃地に誤って踏み込み 
    相当の日本兵が死んだ その後ネズミ(餅)不足になり
    細菌戦実行にブレーキがかかった
    執念の石井四郎は、新型爆弾二〇〇〇発を用意したが
    結局 ネズミ(餅)と飛行機不足のため作戦は実現出来かった
    一九四四年四月 細菌部隊を乗せた船は出航したが
    翌五月、アメリカ軍に撃沈され細菌戦は実施されず
    七月七日サイパン島は陥落した
    サイパン挫折以降も 細菌計画は放棄されず
    終戦間際になっても継続されている

    ✽戦後

    埼玉でネズミの飼育が広まる要因になったのは
    古くからの生産地だった事と 第一次大戦後の不況対策として
    埼玉県が副業を奨励したことによるらしい
    埼玉各地でネズミ増産が 強力におし進められていた
    ネズミ飼育にはそれなりのノウハウがあるので 
    日本軍から期待されるのは当然だったろう
    参謀本部の会議記録に「春日部」の文字があると言う

    終戦後 軍は崩壊しネズミ屋は飼育地に来なくなった 
    農家は生産組合に ネズミを引き取ってくれと要求した
    大量に余ったネズミは食料にしたり 処分されたりした
    取引先を日本軍から アメリカGHQに乗り換える業者もいて
    一部の農家は戦後もネズミを飼い続けた

    戦後、石井四郎はいち早く故郷に立ち戻り、村長の計らいで村を挙げての葬式をした。石井は、七三一部隊で働いた故郷加茂の生還者に「勲八等旭日章」を与え「七三一部隊の秘密は墓場まで持って行け!」命令しながら村人に手渡したと言う。
    後に、厚木飛行場に到着したアメリカのマッカーサーが、開口一番「石井はいるか?」と発したのは、石井の細菌兵器を何としても手に入れたかったからだろう。
    マッカーサーの手帳シロウ・イシイには「石井中将宅への道順」と書かれた地図が入っていたと言われる。石井は「ペスト菌資料」をGHQに渡す条件で、軍事裁判を逃れた。後に「ペスト菌資料」を二五万円で売ったとか。
    外に、三〇〇〇人を殺した医学者たちは戦後、大学教授や研究所の所長などの地位に着いている。「七三一部隊」石井の後任隊長・北野政次。防疫研究・内藤良一はミドリ十字社設立した。ミドリ十字の血友病患者感染問題研究の背景には、七三一部隊思想が混入されているとの指摘もある。

    参考文献:

    『語られなかった侵略戦』(侵華日軍七三一部隊罪證陳列館)
    『731部隊展in春日部 ネズミ生産地で問う』(庄和高校地歴部)

    研究発表

    野田地方史懇話会 「興風館 小講堂」 2020.10.31(土)

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    ●「埼玉県東部地方を中心としたネズミの飼育を追って
      ―ネズミ飼育と七三一部隊― 
    (2020.10.31「野田地方史懇話会」   報告 鈴木文子

    1・はじめに 何故ネズミと関わるようになったか!

    東武鉄道本社・資産管理部勤務時代
    ・なぜネズミに関わるようになったか。倉庫整理 ネズミちょろちょろ
    ・古い「稟議」整理をしていると、春日部方面行きの電車での運搬記録。コザキ(ネズミの餌)飼育箱材料。

    2・ネズミ飼育の歴史

    人間とハツカネズミの出会いは、縄文時代(中国で作り出された)日本には「ナンキンネズミ」の名で渡来したといわれる。大正期になると実験用として使われるようになり、大正末期にフランスマウス(白ネズミ)が入ってきて、モルモットの飼育もこの頃始まったようです。この頃から日本の近代医学は実験に動物を使い始め、マウスやモルモットが主流になって行ったようです。中でも圧倒的な、実験動物の生産地は埼玉県で、全国の五割から七割を占め、それらは「カスカべ群」と呼ばれました。
    (こうした外国ネズミが入ってきたのは、大学の実験用としてで、多くは要望によるものだったようです。)

    3・埼玉県東部地方でネズミ飼育が拡大した背景は

     *第一次大戦後の不況対策として、埼玉県が奨励したことによると言われております。このような対策は埼玉県だけでなく、各地であらゆる増産対策が、強力に推し進められていたようです。
    埼玉のネズミ飼育は多くの場合、年寄りや子供たちの小遣い稼ぎでした。(餌はコザキと言われる出荷出来ない屑米でした。(当時は食糧難時代だったため、人間もコザキを良く食べたらしい)
     昔から穀倉地帯だったこの埼玉東部地域では、ネズミの餌は豊富だったため、多くの農家がネズミを飼育したと言われます。
     またネズミ飼育箱はミカンの空箱で、大した値段ではなかったので、地域の年寄りや子供たちにとって、元手のかからない手軽な副業だったようです。また、戦後間もない時期ですから、この地域の農民は貧しく、地主と小作人の差がはっきりしており、地主のお嬢さんは、小作人が大人であっても、呼び捨てにするのが、当たり前だったと言われます。この地域は昭和の時代になっても、子どもを間引いていたと言います。今では考えられませんが。

    4・農家とネズミの飼育

    昭和二年頃、動物を飼う副業がかなり普及しており、それが埼玉県の副業政策と関連していたようです。文献によると、ネズミ飼育がはじまったのは、この地域が穀倉地帯であったこと。そして、小作人の生活が苦しかったこと。さらには、埼玉県が副業として奨励したこと。何よりも「手軽さ」が、ネズミ飼育の始まりだったようです。(農家の周囲を妹と車で走った様子)

    一九四五年、(細菌計画は四年前から始められていた)軍医中将石井四郎の命令により「ネズミ300万匹」増産命令が出た 日本軍は 埼玉県東部地区に重点を置き ネズミ屋と呼ばれる仲買人を送り込んだ ネズミ屋は「バッタ屋」とも呼ばれ、ネズミのほかウサギなどの小動物を実験用として出荷していた

    5・軍と結びついたネズミ生産
      (
    ネズミ飼育の小規模な世界を変えたのが、初代ねずみ屋・田中一郎の登場だった

     日本軍は埼玉県東部地区に重点を置き、仲買人「ネズミ屋」を送り込んだ
    ネズミ屋は鳥打帽のいでたちで、ネズミは儲かる/百箱飼えば倉が建つ!
    と飼育から出荷のイロハを説き、田んぼから田んぼのあぜ道をちょろちょ
    ろネズミのように走り廻った。(ネズミ屋・田中一郎とは、どんな人物だった
    のだろうか?)

    *ネズミ屋・田中一郎の登場

     田中一郎・明治三四年、春日部生まれ。高等小学校卒業後、東武鉄道株式会社に入社し・線路敷工事などに従事した後、退社し昭和五年頃より、新聞配達をするかたわらネズミの集荷を始めた。(昭和十五年この当時は食糧不足でネズミ飼育の豆板(大豆の油を搾ったカス)を、崩して人も食べたと言われる。)
    ネズミを飼う箱の材料は、東武鉄道が貨車で運んでいた。飼育したネズミは、東京の実験動物の問屋に売っていた。
     その後独立し、春日部に演芸場を建て、お国のためにネズミを飼うんだ!と「ネズミ増産集会」を開き、演芸会を開いたり映画を見せたりして、ネズミ飼育農家を拡大していった。(飼育地は、春日部・庄和町・杉戸町・松伏町・幸手町・宮代町・これに岩槻市・越谷市や野田市の一部が確認されている。)
     後に、伝染病研究所、陸軍軍医学校、東京帝国大学医学部などに納入するようになり、軍からの注文が増加するにつれ、仲買人として成長していった。
    自称「ネズミ博士」

     妹の運転で、江戸川に架かる野田橋を越え、右折すると埼玉県庄和町、冬の水田は見通しがいい、点在している屋敷林が浮島のようだ。かつてこの辺りは ネズミを満載した車が、土煙をあげて走っていたに違いない 

    詩「埼玉のネズミ」①

    埼玉県春日部を中心に/
    始められたネズミ飼育は/
    中国から愛玩用として伝わったと言われる/
    近郊では大正時代に/
    近代医学の実験用として飼われ/ 
    昭和になると/
    雑種ネズミの研究が始まり/
    試行錯誤を重ねた結果/
    出来上がったのが白ネズミ/
    実験用の「カスカベ群」だった/

    ネズミ飼育は/
    埼玉県が全国の七割を占めていた/
    古くから/
    ネズミ集めを職業とした「ねずみ屋」と/
    呼ばれる人も居て/
    七三一部隊からネズミの注文が来ると/
    ネズミ屋のボスが/
    広い集会所で「ネズミ増産会」を開き/
    お国のためにネズミを飼うんだ!/
    大声を張り上げながら飼育農家を集め/
    慰安会を開いたり 映画を見せたりした/
    ネズミの飼育箱や金網 餌は/
    東武鉄道が貨車で運んでいた

    *妹と、埼玉のネズミ農家や周辺を三度訪ねている。

    自転車店の叔父ちゃんの話

    ・自転車買いに来て金がねえからと、ネズミの入った箱三つ持ってきた。(お茶を飲みながらネズミとのエピソード)あいつらうっかりしてっと、共食いしちまうんだ。飼育箱に蛇が入るてと、ネズミは呑まれちまうわ、その箱は二度と使えねわ、けっこう大変だった。ほれ、この先がネズミ集荷所だった所よ。話題豊富なおじちゃん達で長居してしまった。

    「あすこん家なら 何か分かるかもしんねど!」
    自転車店の叔父ちゃんが教えてくれた、大きな倉庫を訪ね、ネズミ集荷所のことを聞いてみると、嫁に来た時からありますが、何に使っていたんでしょうね?全く知らなかった。
    (おじちゃんが教えてくれた家を、何軒か尋ねて見たが、記憶している人には会えなかった)

    一九四五年(細菌計画は四年ほど前から)軍医中将・石井四郎の命令で「ネズミ300万匹」増産計画が出ていた。日本軍は埼玉県東部地区に重点を置き、 ネズミ屋田中一郎を送り込んだ。(ネズミ屋は「バッタ屋と呼ばれ、ネズミのほかウサギなどの小動物を、実験用として出荷していた。

    ネズミ屋田中一郎は/
    ネズミは儲かる/
    一〇〇箱飼えば倉が建つと/
    鳥打帽にゲートルのいでたちで/
    田んぼのあぜ道を/
    ネズミのようにチョロチョロ走り廻り/
    飼育から出荷のイロハを説いて廻った
    調査によると六〇〇〇軒の農家が、ネズミを飼育していたと言われる。

    ネズミ屋田中一郎は、埼玉県内殆どのネズミ屋を傘下に組み入れ、ほぼ独占状態を形成したことで、ネズミ生産農家は飛躍的に増えた。
    (東武鉄道・野田線「南桜井駅」春日部に向かい右側(現在は駐車場と大型スーパー(元リズム時計工場)の場所が、ネズミ集荷所だった)
    今年の夏、周囲や近くの家を訪ねて見たが、知る人には会えなかった。

    詩「埼玉のネズミ」②
    ネズミ屋は、ネズミは儲かる。一〇〇箱飼えば倉が建つと、鳥打帽にゲートルのいでたちで、田んぼのあぜ道を、チョロチョロネズミのように走り廻り、飼育から出荷のイロハを説いて廻った(後に二〇〇人の記録もある)

    農家はネズミ屋の指示通り、/
    木箱にワラを敷き 二十日で子を産むハツカネズミを/
    オス一匹・メス五匹を入れて飼うと/
    一度に十匹ほどの子を産み/
    二十日ほどで成長し/
    ネズミ算式に増えた//
    餌はくず米と野菜屑/
    軍から届く大豆粕/
    一箱がみるみるうちに五箱・十箱と増え/
    一〇〇箱飼う農家もあった//
    しかし 飼ってみると 尿の臭さに辟易したり/
    箱をかじって逃げだすのもいたり/
    飼育箱に蛇が入ると その箱は二度と使えなかったりしたが/
    六〇〇〇軒の農家が/
    年間四七万匹を出荷した
    農家は/
    ネズミが何に使われるのか知らない/
    何処に行くのかを知らない/
    知っていたのは儲かる事/
    ただそれだけ

    大型の大黒ネズミ・ラッテ一円/
    小型の二十日ネズミ十銭/
    ネズミたちは
    ネズミ屋来がる日/
    キュッキュッと鳴いた/
    動物には命の危険を察する本能があるからだ/
    ネズミは毎月五万匹/
    七三一部隊の専用機で/
    立川基地から海を越えた

    ネズミ屋田中一郎は、県内殆どのネズミ屋を傘下に組み入れ、ほぼ独占状態にしたことで、ネズミ生産は飛躍的に広がっていった。

    東武線・南桜井駅(春日部にむかって右側(現在は大きなスパーと駐車場
    になっている)ネズミ集荷所があったと聞き、この夏たずねてみたが?)

    (ネズミ一匹は戦車一台と言われた。一匹のネズミにペスト菌をうえつけ
    ペストを流行らせると、戦車一台を上回ると言われていた。)

     

    6・軍と結びついたネズミ生産(ネズミ屋の小規模な世界を変えたのが、田中一郎だった)

    *七三一部隊創立
    ハルピンから二〇キロ南 平房(ピンファン)に一九三九年六月二五日
    関東軍七三一部隊が創立。(部隊長・石井四郎の誕生日)
    *内地では出来ない人体実験がある。そのために平房(ピンファン)
       研究・実験施設を造ったと、後に石井四郎は語っている。

    七三一部隊・作戦で「ネズミ300万増産計画」が出された。発案者は関東軍軍医・石井四郎だった。関東軍はネズミ捕獲班を設け、各部隊から毎日七〇〇〇匹が届いた。また、中国の農協と協定書を交わし「ネズミ30万匹確保」のノルマ協定が結ばれ、学校でも子供たちにネズミ捕りをさせた。褒美は鉛筆一本。

     細菌部隊に着手するため 石井の故郷・加茂から小作人を根こそぎ動員した
    大工・左官・タイル職人・運転手・中華料理コック、小作人の次男・三男
    など 故郷加茂の働き手を根こそぎ動員した(口封じのため地元民を) その数、百数十名と言われる。彼らは内地の二倍・三倍の賃金を故郷に送金した(地元民が担当した建物七棟・八棟は厳重秘密棟だった) 
     秘密工事は全て加茂の労働者に当たらせ、一九三九年五月工事が完成した
    (これがマルタと呼ぶ、中国の民間人にペスト菌を植えつける実験室だった。
    動員された加茂の労働者も、相当亡くなっているが記録はない)

      ペストネズミからからペストノミ(ペストはネズミと人間に感染する病気。高熱を発し、死亡率の高い急性感染症「黒死病」ともいう。)
    一八リットルの石油缶に小麦粉を入れ、ペスト菌を注射したネズミを放し、ノミを入れる。ノミはネズミの血を吸いどんどん増え、ペストノミとなる。七三一部隊には石油缶が四五〇〇個あり、三カ月程の製造周期で十五グラムほどのペストノミが取れ、一製造周期で四五キロのペストノミがとれた。
    大量のペストノミをケースに入れ、陶器爆弾で中国民家などに投下した。
    (家族がペストで死に、墓に埋め帰って来ると、また二人息絶えていた)

    *国民学校一年生の会「満洲紀行」
    中国の戦跡めぐりに参加し、最後が731部隊跡だった。皆さん疲れていたので「疲れたよー。もう見たくないよー」誰かの一言に先頭の美人ガイドさんが、キッと振り返りざま「しっかり見て下さい!」貴方がたの国がしたことでしょ!ガイドさんのあの目・あの顔が今も脳裏に焼きついている。(主な展示物を見てもらう)
    後に、七三一部隊に関わった石井四郎の故郷、加茂の労働者には「七三一の秘密は墓場まで持っていけ!」石井四郎の厳命のもと。「勲八等旭日章」と、多額の一時金が与えられている。(全て口封じのために違いない)
    (展示した写真・資料で、訪ねた当時の印象や資料館に残されていた一冊「語られなかった侵略戦」「写真集」など説明)

    *空輸された埼玉のネズミ
    日本から七三一部隊に空輸されたラット(白ネズミ)は/
    十八リットルの石油缶に 小麦粉を敷きつめ/
    ペスト菌を注射した白ネズミを籠に閉じ込め/
    ノミを少々入れる
    室温四〇度 湿度七〇%/
    サウナ風呂のような部屋で/
    ノミはネズミの血を吸い/
    どんどん増えペストノミに変身した/
    籠のネズミは骨と皮ばかりになり/
    四・五日でミイラになると取り出し/
    また新しいネズミを補給した//
    風呂桶に小麦粉ごとノミを落とし/
    浴槽の水抜穴を赤い電球で照らすと/
    ノミは電球に向かって飛び込む//
    七三一部隊には四五〇〇個の石油缶があり/
    二・三カ月でペストノミ四五キロが採れたといわれる

    飛行機による散布は/爆弾型の陶磁器にペストノミを詰めて落とす/
    地にたたきつけられ死んだネズミから/
    無数のペストノミが飛び出し/
    周囲の民家を襲い/
    人々の血をむさぼった//
    ペストに感染した人々は/
    もがき苦しみ あっという間に息絶えた//
    また ペストノミを空きビンに詰め/
    民家の縁の下や井戸に投げ込んだ/
    村人はペストに感染し/
    火傷のように皮膚がただれ息絶えた
    村人が死人を墓に埋めて戻ると/
    また 二人・三人と死んでいた

    *部隊長・石井四郎の故郷を訪ねて
    妹と石井四郎の故郷加茂を二度訪ねている。
    (最初は妹とおじちゃんの写真)石井家の墓地と地続きの畑で農作業していた老夫婦)写真。
    村を挙げて葬式した石井四郎が、細菌戦の資料がほしくて、第一番にやって来たマッカーサーに会うため、東京に出て行く際、荷馬車を引いたおじいちゃんだった。
    おじいちゃんは言った「中将様はいい人だった。東京に出っ時、歩いてる中将様に「馬車に乗ってくんろ!」と言ったら、「馬が可哀そうだ」と、駅まで歩いた。心の優しい人だったと!

    (おじちいちゃんは、現在では、全て認識しているのだろうが言わない。言わないのではなく、言えないのです。)

    ちなみに石井四郎は一九五九年十月九日。喉頭癌のため死亡。六七歳)

    *後に石井四郎の「細菌兵器書類」を手に入れたかった米国極東司令官マッカーサー(飛行機を降りるなり「四郎石井はいるか!」)
    「細菌兵器書類」が欲しかったのは、トルーマン(米国三三第大統領)やスターリン(ソ連の政治家)も同様だったと言う。

     

    調査「731・in・春日部」=ネズミ生産地で問う
    は全国六〇カ所で発表された(近辺では柏・野田・春日部)当時は、仕事のため出席できず残念。
    二年前、庄和高校を訪ね「図書室」に案内して頂いたが、残念ながら関係する資料は一切ないとのこと。

    (庄和高校地理歴史部・遠藤光司先生生徒たちを連れ中国へ)全て禁句

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    ●みんな元気で平和がいい(最後の朗読)   鈴木文子

    いつの世も 何時の時代も
    騙されたり ひどいめにあうのは 庶民
    朝めざめてご飯を食べ 
    よし 今日も頑張るぞ!
    気合いで始まる 一日の労働や行動
    親子代々引き継がれてきた 私たち庶民の暮らし
    その私たちに 階級なんてないのだ

    ネズミを出荷した埼玉の農家も
    石井四郎の故郷 加茂の人々も
    自分たちが 悪事に加担していたなんて知らない
    ネズミが空を飛び ペストネズミになり
    ペストノミになって
    何千人もの中国人の命を奪うなんて
    自分たちがペストの片棒をかついでいたなんて
    知らない 知らなかった
    知っていたのは 高い賃金がもらえる事
    知っていたのは ネズミは儲かった事 
    ただそれだけ それだけでいいはずはない

    今なら知っている 埼玉のネズミ農家も
    石井四郎の故郷 加茂の人々も
    知っていても言わない
    いいえ 知ったからこそ言えないのだ

    人という文字には
    互いに支え合って生きる と言う意味がある
    だから 人の間と書く人間という文字には
    体温や優しさがあるのだ

    私たちは アンテナを高くし
    世の中の見張り番になろう
    金持でなくてもいい 貧しくて結構
    みんな元気で 明るく暮らせればいい
    それでいいではないか
    平和であれば 最高にいいではないか

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    ●七三一部隊「ネズミ飼育の始まり」      鈴木文子

     人間がハツカネズミと出会ったのは、新石器時代との記録がある。中国では古くから愛玩用として飼われ、日本にはナンキンネズミの名で、1654年に渡来している。江戸時代になると、コマネズミと呼ばれ大流行したと言う。

     ハツカネズミが実験用とされた歴史は古く、1664年にイギリスの科学者が、気圧の影響調査に使ったのが始めとされる。コマネズミが実験用として、本格的に飼育されたのは、ほとんど鳴かないからだったと言われる。その後、品種改良され、マウスと呼ばれるようになつた。寿命は二年半位らしい。

     実験動物の生産地としては、埼玉県が全国の七割を生産している。この地でネズミ飼育が広がったのは、先ず「手軽さ」と農民の「貧しさ」にあったと言われる。更には、子供や高齢者の「小遣い稼ぎ」だったこと。また、当地は豊かな穀倉地帯であるため、出荷出来ない屑米が沢山あったことにもよる。さらに、ネズミの飼育箱はミカン箱で充分だった。元手のかからない手軽な副業だった。

     それに加え、戦争の慌しさで頻繁に小作争議が起こるようになっていた。こうした時、埼玉県から出された副業奨励がネズミの飼育だった。農家で飼育されたネズミはネズミ屋とか、バッタ屋といわれる回収業者がいて、月々五万匹が出荷されていた。(マウス一匹五銭か六銭位)七三一部隊、石井四郎隊長の副官が何度も春日部に来て、ネズミ増産計画を指導し、七三一部隊と石井の業績を、長々と演説したと言われる。

     調査によると、当時の農家六千人がネズミを飼育しており、ネズミ屋とよばれる回収者人が二十人近く確認されている。その内の一人田中一郎は、東武鉄道に勤務していたが退職し、ネズミ屋を始めた。やがて「埼玉県医学試験動物生産組合」を成立し組合長となる。(田中一郎は、中国の※平房に七三一部隊が出来る以前、軍医学校時代の石井四郎に会っていたと言われる。)

     ネズミは一括して田中一郎から出荷される体制となつた。軍はネズミ不足に苦しんでおり、軍にとつて田中一郎は必要不可欠だつた。

     この時期は食糧不足物不足の時期で、ネズミ生産を拡大するには軍の協力が必要だった。ネズミを飼う箱の材料は、軍から支給され東武鉄道の貨車で、田中一郎の元に運ばれてきた。また、※粕壁町東武座に於いて慰安会を開き、田中組合長が「小動物増産が決戦下、重要使命をおびる」と挨拶の後、慰安会に入り講談・浪花節・漫才等の余興を開催した。東武座にはこうした記録は無く、何回開催されたかは定かでないが、おそらくこの集会は、医学上の防疫のためと説明されていたに違いない。

     昭和15年この時期は食糧不足で、ネズミ飼育用の豆板(大豆の油を縛ったカス)を崩して食べたと言われる。田中一郎はこうした物資を人々に配給し、ネズミ飼育農家を拡大して行った。全国の七割を占めたと言うネズミ飼育地は、春日部市、庄和町、杉戸町、松伏町、幸手町、宮代町、これに岩槻市、越谷市や野田市の一部が確認されている。

    ※平房(へいほう):中国黒竜江省ハルビン市の市轄区。
    ※粕壁町(かすかべまち):埼玉県南埼玉郡に存在した町。1944年に南埼玉郡粕壁町と同郡内牧村が合併した際に南埼玉郡春日部町とし、表記を改めた。 現在の埼玉県春日部市にあたる。

     

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