わたしは、30歳のとき、40年前の1982年8月に茨城県八郷町(現・石岡市)の①如来寺、②丸山古墳、③吾国山(518m)、④板敷山大覚寺、⑤稲田の西念寺をバイクに乗り、一人で訪れました。友人の古老・八千代市の木下桂三郎さんの勧めで、親鸞の足跡を訪ねてみたのです。
④の板敷山大覚寺は、親鸞の法難(後鳥羽上皇による弾圧)にまつわる品があり、また、山伏の弁円(べんねん)が親鸞を殺そうとして果たせず、親鸞から念仏の深い意味について教えられ、多くの山伏たちが親鸞に帰依して浄土真宗開宗のために尽力することになった縁(ゆかり)の寺です。
⑤の西念寺は、親鸞が20年近く住み、主著「教行信証」を書き上げた寺で、浄土真宗の別格本山となっています。親鸞の遺骨もあります。
ふと思い立ち、1年半前の2020年8月2日に、38年ぶりに吾国山、大覚寺、西念寺にかみさんの百代と二人で行ってみたのですが、その時、大覚寺で縁起を書いた一枚の印刷物をもらいました。家に帰ってから見ると、大覚寺を開基したのは、後鳥羽上皇の第三皇子(!?)と書かれていて、まったく意味が分からず悩みました。なぜ、法然、親鸞らを島流しにし、親鸞の兄弟子4名を死刑にするという恐ろしい仕打ちをした後鳥羽上皇の息子が、親鸞を助けて寺をつくり、浄土真宗の開宗に尽力したのか?
わたしは、メールで大覚寺に問い合わせ、また、半月後8月19日に再度大覚寺を訪れて聞きましたが、「寺の開基についてそのように書かれているが、なぜかは分からない」「今井雅晴さんが真宗についての本を多く書かれています」と教えてもらいました。そこで、今井さんの著作など関連書を20冊ほど買い、読み漁りました。同時に小学生からの教え子で学習院大学の史学科に通う堀田君にも調べてもらいましたが、なぜ、後鳥羽上皇の息子が?は、分からず、途方にくれました。
9月になり、『六十七歳の親鸞』ー後鳥羽上皇批判ー(今井雅晴著)を読みましたが、そこには、北条泰時(義時の長男で「承久の乱」の総大将・「御成敗式目」をつくり法律に基づく政治を行い名君として知られる)の依頼で、北条政子の年忌法要に親鸞が尽力したことが書かれていたのです。ああ!そうか、わたしはピンときました。
日本史を変えた大事件の「承久の乱」は、天皇現人神の国家宗教に基づく政治を行なう明治維新政府にとり都合が悪いため、歪曲され、北条家は悪者のようにされてきました。
水戸光圀の命で編纂された『大日本史』(天皇史観に基づく著しく偏った歴史観で「水戸学」と呼ばれる)による日本史が明治以降、学校で教え続けられ、それが戦後もなお尾を引いています。
そのために、日本史上はじめて死刑が実行された法然の念仏宗への大弾圧「建永の法難」と、朝廷政治から武士政治への大転回であった「承久の乱」は、共に歴史のど真ん中にありながら、軽く扱われて意味が分からないままでしたが、実は、後鳥羽上皇が起こした二つの大事件は一体の意味を持つものであることが分かったのです。謎が解けました。
1207年の「建永の法難」(親鸞は佐渡に島流し)と14年後1221年の「承久の乱」は深く関係しています。実は、後鳥羽上皇28歳の時に、お気に入りの女官二人が出家して法然の念仏宗に帰依したことによる弾圧は、上皇の私怨によるものであることが21世紀になり明白になっています。その14年後に、頼朝の直系が途絶えて妻の北条政子の弟が鎌倉幕府の執権となったのを機に、かねてから再び京都の朝廷で東国も押さえたいと思っていた後鳥羽上皇が「義時を討て!」という院宣を全国の武士に対して出して起きた「承久の乱」は、共に後鳥羽上皇の激しい欲望の所産で、そのために、日本史は大転回したのです。
完全敗北した上皇と息子ら五名は島流しとなりますが、残りの数名は出家させられました。1221年の6月、完全勝利した北条政権ー実際上の第4代将軍・北条政子と弟の執権・義時らは、直ちに朝廷側の人間の処分を決めたのでした。上皇らは結局終身刑となりました。
出家させられた息子の一人、周観(後、善性)は、東国にきて、念仏宗の親鸞に帰依したのです。法然が書いた「悪人正機説」を説く親鸞の誰もが救われるという阿弥陀仏への帰依=他力本願の教えは、傷心の善性を救い、同時に親の悪行への罪滅ぼしともなったのでしょう。この時に茨城の地で開宗された浄土真宗は、今は、日本最大の宗派です。善性は、大覚寺のほか、常総市大房に東弘寺、古河市磯部に勝願寺を開基しました。来年2023年は、浄土真宗開宗800年、親鸞生誕850年です。
以上の考察は、武田によるもので、今井雅晴さんの著作では、個々の事実はよく調べられていますが、後鳥羽が起こした日本史を変えた大事件とのつながりの説明がなく、朝廷=天皇家に遠慮した?(八〇〇年前の!)ような書き方も散見されます。ただし、この本で明らかにされている【北条政権と親鸞との深い結びつき】は、極めて貴重な事実です。朝廷を全員処分し、荘園もすべて没収して天皇家(当時はすでに天皇という名称はありませんでしたが)を完全に支配下に置くことになった歴史の大転回=北条革命と親鸞の思想と行動の一致が証明されたことには大きな意味があります。本には書かれていませんが、そもそも、北条政子は法然の浄土宗で、親鸞の兄弟子にあたります。
同年(2020年)の10月4日に、園児から80歳の方まで10数名で大覚寺を訪れ、住職から山伏弁円(べんねん)と親鸞の話などを伺いましたが、その時の写真や、貴重な「親鸞像」、後鳥羽上皇の息子の「善性像」(これは東弘寺で10月28日に撮らせて頂いた)の写真などは、白樺教育館のホームページに記事を載せています。
次は、
板敷山大覚寺との縁がなければ分からなかった話で、60年以上埋もれていた貴重な作品との出会いです。
わたしは、1999年、「白樺文学館」をつくるために奔走していました。これは、わたしの哲学塾の生徒であった佐野力(IBM営業部長→後にわたしの影響で日本オラクル初代社長)さんがオラクルの株を売り出すことで巨額の利益を得たのを機に、「志賀直哉文学館」をつくったらどうか、との話になり、彼の頼みをわたしが快諾してはじまった事業でしたが、志賀直哉の息子の直吉さんから佐野さん宛に「記念館の類をつくることは、父の遺言により一切お断りします」との手紙がきて、頓挫してしまいます。
そこでわたしの発案で、我孫子に集結した白樺派を顕彰する「白樺文学館」とすることにし、続きとして新たにはじまった事業でした。
この年(1999年)の秋にまったく未知だった松橋桂子さんという方が大著「柳兼子伝」を上梓しました。白樺文学館の理念づくりに没頭していたわたしは、早速この本を知人を介して入手し、読み、唖然となりました。
最初に我孫子に移住した白樺派の柳宗悦の夫人・兼子さんの全貌を知ると、その深みと大きさに、宗悦と同等に扱わなくてはならないと悟り、我孫子に集結した「白樺派の4人」(柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、同伴者のバーナード・リーチ)ではなく、兼子さんを加えて「白樺派の5人」と変えたのです。その5人の画をわたしの友人の大沢治平さんの友人で、わたしの哲学塾にも参加していた周 剣石さん(現・清華大学教授)に頼んで描いてもらい、白樺文学館の初版のパンフレット(12ぺージ・発行5万部)の表紙絵にしました。
この後、松橋桂子さんとの縁は深まり、頻繁にお会いして話す仲になり、松橋さんが2017年3月31日に亡くなるまで16年間交流が続きました。病床で松橋さんは、わたしの声を聞くなり「おお!わが最強の友よ!」と言った時のことは、昨日のように明瞭です。
松橋さんは作曲家を志し、日本最高と目されていた清瀬保二さんの弟子となり、献身的なまでに尽くし助けました。わたしは、清瀬作品を松橋さん所蔵の音源で聴き、その深み、大きさ、気品の高さに打たれました。独創的な清瀬5音階は、普遍的で、ドビュッシーや同時代のバルトークにも匹敵するものと感嘆し、なぜもっと演奏されないのか、不思議に思いました。清瀬保二の弟子の武満徹の作品は、世界でも頻繁に演奏されているのに、です。
故 松橋さんが清瀬さんより預かっていた資料は、すべてわたしに譲られましたので、清瀬保二の戦前・戦中・戦後の自筆原稿もすべて白樺教育館(「白樺文学館」とは別に2003年にわたしが建造した教育と哲学の学園)に保管しています。その中に、松橋さんがつくった詳細な【清瀬保二年表】(印刷物)がありますが、それを教え子の西山裕天君と見ていて、「あれ!」と思いました。仏教カンカータ「板敷山の夜」というのが目に入ったのです。これは、弁円と親鸞のことではないか! それしか考えられない。わたしは、清瀬さんが浄土真宗の門徒であることは知っていましたし、板敷山は、大覚寺の裏山で、白樺教育館のこどもたち(成人者も含む)を連れても行っていましたから、間違いないと確信したのです。
ただし、この年表には、1957年 仏教カンカータ「板敷山の夜」 詩・長田恒雄(T独唱・混声合唱・pf)。4月1日「板敷山の夜」初演 大谷楽苑合唱部 独唱 木下保 pf 本田暤 としか記載されていないので、
わたしは、交流のある清瀬春子さん(清瀬保二さんの長男夫人)に尋ねましたが、驚くことに、清瀬家でもこの曲の存在を知らないことが分かりました。とても感謝されましたが、肝心の楽譜がなければどうしうようもありません。
そこで、白樺同人の川本久美恵さんがFBに立ち上げ、わたしと古林治さんも共同管理人であるコミュ「4月8日は花祭りです。花祭りカードを送りましょう」に、愚痴を書きました。「なんとか聞きたい、楽譜も入手したいが・・」と。
それに応え、川本久美恵さんは、「板敷山の夜」で検索し続けたら、仏教音楽資料館サイトの仏教曲一覧表の最後に「板敷山の夜」があったのがヒットしたとのことです。それで、サイトの管理人木本省三氏に、白樺教育館武田館長が「板敷山の夜」音源、楽譜を探している旨のメールをしてくれました。
「幸運にも、そのサイトの管理人木本氏が、「板敷山の夜」の初回演奏をした御堂筋合唱団のOBで、ご自身は歌っていないけれど、当時のことを知っておられた。サイトが管理していた資料の中にあったのは合唱の楽譜のみだった。それで、木本氏は、音源については当時の録音担当の遺族に問い合わせ、なかった。ピアノの楽譜は、当時、ピアノ伴奏をしていた方の遺族に問い合わせ、なかった。そこで、御堂筋合唱団の倉庫を調べてもらったら見つかった。それを合唱団の方にpdfにして木本氏のところに送ってもらった。読みにくいところがあったけれど、それを私のところにメール添付で送ってくれた。
木本氏は諦めず、合唱団の方と相談され、合唱団の方が、年明けに教団に行く予定があるので、ついでに調べて来るとことになったが、その集まりが中止になったので、御堂筋合唱団にある楽譜を木本氏に送ってもらい、木本氏がスキャンし直してpedにした。データーが大きくメール添付できなかったので、大きいデータの輸送の中継システムを使って私に送ってくれた。」(川本久美恵)
そういうわけで、合唱譜、ピアノ譜ともに入手できたのです。これから先はどうなるか? 来年は浄土真宗開宗800年、親鸞生誕850年です。ぜひとも再演を果たしたいものです。ご協力して頂ける方はいらっしゃるでしょうか。
(注1)佐藤克明さんは、音楽評論家で、松橋桂子さんの『柳兼子伝』の「解題に代えて」を書いています。
2022年2月2日 武田康弘