以前紹介した記事、 《筑波山で起きた廃仏毀釈とその後 - 現代に生き続ける国家神道 -》に絡んだお話です。
そのときに登場した椎尾山薬王院にある仁王像が修復されこの度、開眼法要が行われたのですが、その経緯には複雑に入り組んだ歴史があります。
その複雑な綾を垣間見せてくれるレポートがありますのでご紹介します。副館長(同人ボランティア)の古林治がFacebookに載せたものですが、以下に転載します。
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写真はすべてSONY DSC-RX1R
筑波四面薬師の一つ、椎尾山薬王院は不思議なお寺です。
謎だらけ。
名称からして、「寺名」がないことに気づきます。
山火事などで記録が失われ、寺の名前もわからないのです。
一時的には廃寺に近い状態があったのかもしれません。
ともあれ、782年(延歴元年)開山というこのお寺の全盛期は鎌倉時代と伝わっています。
四十四の堂塔があったと言われ、その片鱗である、当時の古い瓦(忍性瓦)や堂塔があったと思われる整地された跡が山のあちこちで見つかります。
その一つは経堂と言われ、一切経を納めていました。故あって今は近くの最勝王寺に(という説もあります)。
また、四十四の堂塔の一部は修験道の施設でした。このあたり一帯は修験の山でもあったのです。
明治政府によって修験道は禁止され(後に解除)ほぼ壊滅。残った修験者の多くは神社支配下に置かれているのが現状です。
その四十四の堂塔のほとんどは失われ、現存する本堂や三重塔そして仁王門は、火災で焼失後の江戸時代初期に再建されたものです。
ですので、誰もが巨大な仁王像も仁王門とともに焼けてしまったのだろうと考えていました。
あんな巨大な(2m90㎝)仁王像が運び出せるわけがありませんから。
ということで、仁王像も江戸時代のもの、とみな思い込んでいたのでした。
ところがどっこい!
この仁王像は鎌倉時代のもの、それも運慶一派の者の手によることが判明して大騒ぎ。
8年の修復をかけて今回ようやく御開帳と相成りました。
修復のため、運び出すときにはご近所の檀家さんに手伝ってもらい、レンタカーに運び込み、住職と副住職の二人で大正大学に運び込みます。
そこの授業(週一回)で8年をかけて修復となったわけです。
副住職も卒業生で修復を一緒に手掛けたみたいです。
かけたコストはレンタカー代のみ10万円ほど。
資金のないお寺なのでいろいろ工夫工面です。
でも、鎌倉時代のヒノキの一木割矧ぎ(いちぼくわりはぎ)、東国最大最古、運慶一派による、となれば多少は県から補助金が出るようになるかも。
仁王門に設置となると風雨にさらされ傷みが進みますので、しばらくは阿弥陀堂の一角に置き、お寺の修復のため多少の拝観料をいただくことにした、ということです。
お寺に誰かがいる限りは仁王像の拝観は可能と思います。
興味のある方はどうぞ。
次は鎌倉八幡宮寺から勧請したのではないかと言われる室町時代に造られた(室町時代東国スタイルの珍しい)桐製の僧形八幡神座像の御開帳です。
これまた話題になることでしょう。
あとは目を入れるだけの状態と言いますから、秋くらいのお楽しみです。
(僧形八幡神座像については、《筑波山で起きた廃仏毀釈とその後 - 現代に生き続ける国家神道 -》で多少触れています。薬王院についての章をご覧ください。)
以上。
茨城新聞の記者と副住職。
記事は以下のサイトをご覧ください。
https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15652674905734
ここ薬王院(天台宗)の法要の始まりは住職によるほら貝の音から。
最後の締めは般若心経でした。そのさわりのみ。