2009年にリハビリではじめた筑波山行ですが、登山を重ねるたびに私は奇妙な違和感にとらわれました。一方ですぐそばの椎尾山薬王院には不思議と惹かれるのです。この奇妙なコントラストが筑波山の信仰に注意を向けさせ、調べてみることに。すると、その実態が段々見えてきました。
それは、幕末から明治に起きた狂気の廃仏毀釈の爪痕でした。そのことについて誰も何も語らず、ただその爪痕だけが遺っていることへの違和感が膨らみます。
素朴に何で? と思い、調べ、撮り、書き留めたものをここにまとめておくことにします。
出典はFacebookで、2017年9月8日から2018年10月29日まで。
それ以降も続けていますが、機会があれば改めてまとめることにしましょう。
筑波山神社拝殿.
8世紀後半から9世紀初めに筑波山中禅寺は創建されましたが、1875年(明治8年)、中禅寺の本堂が破壊され、その跡地に建てられたのがこの拝殿です。
8世紀の当時は、民間信仰(山岳信仰)が古くからあったことを常陸風土記が描いています。
万葉集にも富士山とともに昔から霊山として崇められていることから察するに、大和朝廷成立以前のはるか昔からの信仰だったのではないでしょうか。
当然、司祭もいたでしょうが、中禅寺開山の僧・徳一に一切の争いがないままその権限が委ねられたのであろう、と徳一研究者の高橋富雄(東北古代史研究の第一人者・故人)は指摘しています。
写真を撮っていなかったので、撮ってきました ^^) _旦~~
2017年8月13日撮影
筑波山行をはじめたのは10年ほど前で、「また山に登りたい!」とリハビリ目的でした。
幼稚園児の後ろをヨタヨタと(^_-)-☆
以来、何度登ったかもうわかりません。たぶん200回くらい(@^^)/~~~ (ルートがいろいろあるのでそう飽きません。)
でも、筑波山神社の巨大な拝殿にお参りしたことはありません。意図して、ではなくて何となくその気になれないので。写真も撮りませんでした。撮る気になれないので。
最近、そのわけをひょんなことで知ることになりました。
現在の筑波山神社とは、明治時代に創建されたものです。それまでの1100年近くの間、山岳信仰(古くからある民間信仰)を従えたお寺(中禅寺)として繁栄してきました。
唐の玄奘三蔵法師を祖とする法相宗の徳一による開山です。
その後、寺は真言宗に変わって修験道も盛んになります。江戸期には幕府の加護を受け多くの堂塔が建設されました。
が、全国に熱病のように流行した幕末水戸学(国体思想の源流)の嵐、続いて明治に入っての神仏分離令、そして廃仏毀釈。
中禅寺の多くの堂塔は破壊され、その中心の廃墟の上に建てられたのが現在の筑波山神社の巨大な拝殿です。
で、問題なのは、寺が神社になったことではありません。
問題は、神社といいながら、伝統的な神社と異なる、明治政府が作り上げた天皇を現人神とする国家神道の物語を核に据えているという点です。
筑波山神社由緒に書かれている神様はみな、記紀神話に登場するものばかり。
でも、次のように祭神を決定したのは、1922年(大正11年)!!のこと。
●筑波男ノ神(つくばおのかみ、筑波男大神) 男体山の神。
人格神を【伊弉諾尊(いざなぎのみこと)】とする。
●筑波女ノ神(つくばめのかみ、筑波女大神)
女体山の神。 人格神を【伊弉冊尊(いざなみのみこと)】とする。
あらっ!?
男神、女神をあがめ、生(性)と豊穣を祝うかつての信仰がいつの間にやら人格神にイザナギ、イザナミ?
さらに続いて、 アマテラス ー 神武 ー それに天皇家 ・・・・・・・
万世一系の物語を示唆する神社に摩り替わっています。
これが神話だということは誰でも知っていますが、この神話=万世一系の物語を私たちの伝統文化として受け入れる心性を醸成してしまいます。
事実関係を知らず、考える習慣もない人たちは簡単に洗脳されることになるでしょうね。
おお、コワッ!
巨大な拝殿を前に、「わあ、すっご~い!」と言いながら【かしわで】を打つ若者たちのナイーブな姿に危ういものを感じます。
こういう環境が筑波山神社だけでなく、私たちの身の周りに山ほどあることにも注意です。
皇族だけに【さま】をつける異様な習慣。一世一元の元号。君が代。男系男子の神話。記紀神話に基づく祭日、などなど。
いずれも明治以降の話なのに、伝統だと勘違いする人が後を絶ちません。
事実を知ることがまず第一歩。
洗脳されないよう、自分の頭で考えることが出来るように。
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調べると、確かに仁王門でした。仁王像(金剛力士像)は廃仏毀釈で撤去され、つくば市松塚の東福寺に移されたようです。
現在、仁王像の代わりにあるのは、左側に倭健命(やまとたけるのみこと)、右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)。
像が見えるように、部分的に画像処理してあります。
この仁王門(随神門)は1811年(文化8年)に再々建されたもの。
2017年8月13日撮影
女体山山頂の社。
本来はこの山頂が崇拝の対象になっていたのでしょう。
もしかしたら、弥生を超え、縄文の時代からの信仰かも。
この社自体は最近のモノ。
ちなみに、ここからの眺めは絶景です。
この日も、初めて登ったと見える若者が悲鳴をあげていました。
「ウワーッ!すっげぇ~~!」
2017年8月27日撮影
双耳峰、もう一方の雄、男体山の社。
男神の方を祭っています。
この日、たまたま修験道の道を体験するツァー?が行われていました。
年に一、二度、昔からある修験の道を登りながら各所でお参りしてここに到る、のだそうで。
岩だらけの凄いルートをたどります。
私も誘われました(''◇'')ゞ 「来年、どうですか?」
行ってみようかな。
2017年8月27日撮影
ずいぶん前に偶然出会った風景。
岩場を下りてくる様を見て仰天しました(''◇'')ゞ
このお神輿は男体山山頂の社から女体山山頂の社へ。 それから白雲橋ルートを下りて筑波山神社へ。 年、二回のお祭りだそうです。
いつから行われているのか?
2013年11月1日撮影
筑波山にはそこら中に社や祠があります。
それぞれいつの頃からあるのか全然わかりません。
昔から神仏習合が進んでいましたからそれぞれに歴史があるのでしょう、きっと。
この写真は裏筑波にある女の川(めのかわ)という沢沿いのルートで。
2017年8月27日撮影
追記:
これも数多くある社や祠の一つ。
猿田彦神社。 裏筑波の入山禁止ルートの途中にあります。 高さ30-40㎝の小さなもの。
ここらは危険なにおいがするし、マーキングも消されているので、私も一人では行きません('◇')ゞ
2015年8月8日撮影
筑波山神社の話にいたったのは偶然で、筑波西北西の麓にある椎尾山薬王院に惹かれ、調べているうちに出てきた法相宗・徳一という僧にはまったのが一因でした。
徳一という僧、歴史からはほとんど消去されていますが、とんでもない坊さんです。徳一については、椎尾山薬王院の話に滑り込ませることにしましょう。いずれ( ^)o(^ )
が、一つだけ指摘しておきます。
8世紀の終わり、もしくは9世紀の初め。
筑波山知足院中禅寺は創建されました。古代からある古い信仰のある場所に。
ところが、蘇我と物部の争いのような場面は一切なかったのです。
高橋富雄(日本史学者、東北古代史研究の第一人者、故人)は、次のように指摘します。
【筑波には伝統の神主もほ祝人(ほふり)もいたはずです。その人たちが抵抗なしに彼にその司祭の座を譲ったのは、彼が「より高次の神の司祭」として、彼らのすべてを受け入れてその上に立つ司祭だったからです。「開化の神」。「父なる神としての仏」、「母なる女神としての菩薩」。】
”徳一菩薩 第二集 -菩薩への道-” 高橋富雄著 歴史春秋社 2001年
現在の筑波山神社は、1000年余の歴史を誇る巨大な伽藍・筑波山知足院中禅寺を明治初頭に一夜にして破壊し、その歴史と伝統すべてを塗りつぶして創出したものです。今や国家神道を喧伝する施設となっています。
この神社が創出された後、中禅寺はこじんまりとした形で隅っこのほうに再建されましたが、民家を買い取って改修した程度のものでした。
が、このほど、もう少し本格的に再建されることになりました。
2020年完成予定です。
数度にわたる落雷による火災をくぐりぬけ、廃仏毀釈の折の破壊焼却を何とか免れ、昭和の大土石流を生き残った本尊・千手観音座像も無事で2020年には金箔をはられた状態で公開されるということです。ちなみに、この観音像は鎌倉期のものだそうです。
かつて筑波山は江戸の人々にもあこがれの地だったそうです。江戸の町中にも別院があって護持院と言います(将軍に請われて別当が江戸に住んだという事情もあります)。
その後、護持院は火災で焼け落ち、護国寺に仮住まいとなりました。なので、護国寺と中禅寺は深い関係なのです(護持院が中禅寺を管理)。
廃仏毀釈の折には、一部の仏像は護国寺に難を逃れました。今も筑波の大仏が護国寺にあるそうです。残念ながらそのいきさつは一言も書かれていないとのこと。
なぜ事実を書かないのでしょうかね。
仮堂内事務所にお邪魔して住職代行の尼僧の方としばらくお話してきました。
「1000年以上続いたお寺が破壊されてその跡にできた神社を歴史と伝統と思い込んで神妙にお参りする人たちの姿見ると哀しくなりますね。」 と言うと、
「そうなんです!」
尼僧はあふれるような想いを語り始めました。
彼女にとっては再建がまさしく悲願なのでした。
ちなみに、このお寺は8世紀末の徳一さんによる開基ですが、
「先日、(同じく徳一菩薩による開基の)慧日寺に行ってきましたよ。」 と伝えると、
「私も死ぬ前に一度行きたいのです!」
今度一緒にいかが?というお誘いはしませんでしたが、行けるといいですね。
いくらか寄進して仮ご本尊にお参りしてきました。とても喜んでくれて何よりです。
私も神社で神妙にお参りする人たち見るたびに心がチリチリしていましたので少しホッとした一日でした。
宝暦5年(1755)ころの筑波山中禅寺の様子。
現在の筑波山神社拝殿は中禅寺の本堂。
その左側には三重塔がありました。
仁王門は現在、名を変え、隋神門とかいって、仁王像の代わりにヤマトタケルとか???の像が置いてあります。
筑波山神社に唯一、その正当な歴史が書かれている一節。
1000年余の歴史がたて看のたった数行のみ!
ただし、“諾冊二尊(イザナギ・イザナミ)”はデタラメ。
「延暦の初、奈良興福寺の高層徳一大師(恵美押勝の子)諾冊二尊を拝し筑波山知足院中禅寺を開基し、その鎮守社として藤原氏に縁の深い両者を勧請したと伝わる。」
徳一研究の第一人者・高橋富雄(故人)によると、恵美押勝の子ではないとのこと。
私も徳一関連の本はかなり読みましたが、巷間流通している言説にはかなりの嘘があるようです。
中禅寺は法相・徳一開基ですが、9世紀初頭には真言宗に転宗したことになっています。
が、史実はどうもかなり違うようです。
徳一VS.空海&弟子たちの論争は数世紀にわたっており、真言宗の勢力がすぐさまこの地に入り込むことなどできるはずもなく、真言に転宗したのは数百年後のことだ、と高橋氏は述べています。
徳一開基の名が消され、あるいは最澄開基、二代目徳一というねつ造も多々あるようで、この国は昔からねつ造が得意のようです。
日本の歴史最大のねつ造は日本書紀と明治の国家神道ですがね。
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筑波山知足院中禅寺はかつては三御堂の一つと謳われたほどの巨大な伽藍でした。 三とは、善光寺と高野山と筑波山です。 山全体が巨大な堂塔だったということ。 尼僧が教えてくれました。それを思うと、何ともこじんまりとしたお寺です。 でもないよりいいですね。
・
筑波山知足院中禅寺の廃仏毀釈の様子は以下のサイトを参照ください。
とてもよく調べてあり感謝です。 http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_tukubasan.htm
同じサイト内に廃仏毀釈伝搬についての詳細な記述もあります。
ここで紹介されている文献のうち、何冊かは私も読み、ても勉強になりました。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm
参考までに一部だけ抜粋します。
【 あの廃仏という破壊行為を招いた原因の一つとして、佛教界の堕落腐敗・社僧の優位に起因する社僧と神官の確執・経済的利権争いなどがあった ことも事実であろう。しかし、その根本的原因は、明治初頭の復古主義・国学者・復古神道家の屈折したあるいは鬱積したエネルギーで あったと思われます。そして、そのエネルギーは「宗教政策」の枠内に「閉じ込められた」故に、それは暴発的なエネルギーになったのであろうと思われる。
要するに、維新政府の目指した近代化・西欧化と国学者たちの復古主義とは根本的に相容れるはずも無く、思想的には尊王(攘夷)だけで和合した維新政府と復古主義者との蜜月は明治3、4年で終る。 かくして、復古主義的な神仏分離政策は頓挫する。
但し、地方での収束はその後数年の時間が必要ではあったが・・・・。
その後、維新政府は古典的な復古主義は切捨て、維新政府としては、強権的な中央集権国家の中心としての天皇絶対化が推し進められていくことになる。 それは国家神道への道であった。
おそらく、維新政府にとっては、富国強兵等々が立脚すべき価値基準であり、 その実現のための人心統合策として採用されたのが「天皇絶対化」(神々の系譜で云えば天照などの皇祖、神社で云えば伊勢神宮)であり、この意味では水戸学及び後期国学は現代にまで及ぶ大きな影響を残したといえるのであろう。】
前にも触れましたが、筑波山神社は明治の初めにねつ造されたものです。
※三御堂(さんみどう)のひとつと謳われた巨大な伽藍、1100年の歴史を誇る筑波山知足院中禅寺は明治初頭の廃仏毀釈によって徹底的に破壊、焼却、略奪、廃棄の仕打ちを受けたのでした。
その本堂跡に建てられたのが現在の筑波山神社です。
破壊者の中心にいたのはお寺の雑務に携わっていた者、神職に鞍替えした者、そして制服を着た者たちです。制服を着た者たちとは、藩校や私塾で国学(特に平田国学)、水戸学を学び、後に確立される疑似一神教である国家神道(国体思想)の萌芽に染まった下級武士らが維新ののちに警察官吏となった姿ではないかと思われます。
※ 三御堂(さんみどう):江戸時代、善光寺と高野山(金剛峯寺)そして筑波山知足院中禅寺の三つの寺院を巨大なお堂を持つという意味で、三御堂といわれていたということです。
現在の筑波山神社にある立派な隋神門。
実は廃仏毀釈で唯一残された主建造物・中禅寺仁王門。
現在、中には仁王様ではなく、左側に倭健命(やまとたけるのみこと)、右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像が鎮座。
都合が悪いのか、由来は一切書かれていません。
あたかも古来からあるかのように装ってますが、無論、明治以降のお話。
気持ちが悪いので遠くから(*´▽`*)
伽藍のほとんどは破壊と焼却に遭いましたが、なぜか、仁王門だけは残されました。
その理由は不明ですが、現在、その仁王門には仁王様の代わりにヤマトタケル像などが配置され、隋神門と詐称し、あたかも古来よりずっと続いているかのように装っています。
ねつ造された筑波山神社の象徴ともいえる建造物です。
明治初頭の狂気に満ちた空気の中にあって、当時、多くの信者たちが焼却・破壊を止めようと哀願したと伝わっています。
そのおかげで、一部の仏具、鐘楼、仏像は生き残り、別の場所に保管されていると言われます。
・
で、その仁王門の仁王様は?
実は、破壊を免れ、現在はつくば市松塚にある真言宗豊山派の東福寺にあると言われており見てきました。
確かに、東福寺内の仁王門に仁王様が二体ありました。
でも見るからに真新しく、その歴史について何の記述もありません。
ん~~~、これが?と思っていたところに、住職と思しき人が現れたので率直に聞いてみました。
「これは廃仏毀釈にあった筑波山中禅寺の仁王像ですか?」
ちょっとびっくりした表情で、
「その通りです。本来ならここにあるべきものではないのですが・・・・
重要文化財に指定されると皆さんが見ることができなくなってしまいますので。」
「ずいぶん新しく見えますが・・・」
「平成24年の本堂大改修の折に、かなり痛んでいた仁王像も改修したのです。」
ということでした。
東福寺の横にある仁王門
確かに仁王様が二体あります。
金剛力士像 吽形(うんぎょう)像と阿形(あぎょう)像。これらが筑波山中禅寺仁王門に鎮座していたのです。
ほんの150年ほど前の話。
何とか破壊・焼却を免れ、桜川をいかだで運び、この東福寺に持ち込んだと言われています。
真新しく見えるのは、本堂大改修の折にこの仁王像も大幅に改修した、とのこと。
でも、破壊した方も、その被害にあった方も、あるいはその関係者も誰一人事実関係を語らないのは何とも不思議・不可解です。
結果、ほとんど誰も事実を知らないまま、廃仏毀釈という狂気の沙汰とその後の歴史のねつ造・国家神道(国体思想)は何の反省もないまま、現在にまで生き延びてしまっているのだと思います。
国会議員の大半が、日本会議や神道政治連盟というねつ造された歴史をいまだに信じる集団に帰依している状態は狂気の沙汰としか言いようがありませんが、それを支えているのは日常の中にある国家神道(国体思想)の残滓を放置したままにしている私たち自身の想念・思想に原因があるように思います。
まずは、事実関係を知ろうぜ! ということです。
ハンニャーハーラーミータ~、子供たちの声が外にも響いてきました。
言っときますが、教育勅語を声明するのとはワケがチャイます。現人神に命をささげるのではなく、差別などの世俗の価値をすべて無化してしまうような”空”の思想です。般若心経はね。
最後の2枚の写真はおまけです。
コメントご覧ください。
おまけです。
廃仏毀釈の歴史的資料がないかと、桜川市の真壁伝承館歴史資料館に寄りました。
そのとなりにある奇妙な神社に地元の年配の人がお参りしていました。
なんと、明治14年に設立された神武天皇遥拝殿ですと。
国家神道によって都合の悪いものは廃棄され、あるいはでっち上げられた神社は日本全国至る所にあります。
これがその一つであることは間違いなし。
何の反省もなく、いまだそのままにしている。
全国の神社もまた何らかの形で国家神道によって塗り替えられ、そのままの状態にされ、そこに多くの人々がお参りに。
国体思想は永遠なり!がよくわかります。
まず、事実関係だけでも知っておいてほしいものです。
先日、所用で東京へ。時間が少しあったので護国寺に立ち寄りました。
確かめたいことがあったのです。
筑波山知足院中禅寺は明治初頭の王政復古の熱狂(=国学・水戸学にのぼせたテロリストたち)に乗じて略奪・破壊・焼却の憂き目にあいました。 廃仏毀釈です。
でも、一部の建物、仏像などはなんとか生き残り、別の場所に移されました。
中禅寺の仁王門にあった仁王像については、以前、記しました。
以下を参照ください=>3.筑波山知足院中禅寺の仁王像 廃仏毀釈のその後
実は護国寺にも、いくつかの仏像、菩薩像などが残っているのです。
■ 銅製大仏
■ 銅製金剛力士像
■ 銅造地蔵菩薩
■ 銅製瑜祇(ゆぎ)塔
確かにありました。
入口から少し入ったところ、本堂手前に銅製大仏、銅製金剛力士像、銅造地蔵菩薩がそろっています。
でも、その経緯については何一つ記述がありません。
とても不自然です。
東福寺に移された仁王像もその経緯については何一つ記述がありませんでした。
護国寺もまったく同様です。
さらに瑜祇(ゆぎ)塔を探しに奥へ。
奥は墓地になっており、明治のお偉いさんたちのお墓がたくさんありました。
三条実美ほか、正一位勲一等伯爵なにがし、その他男爵や侯爵、エラい軍人さん。
明治維新を支えた官側のお偉いさん達。
なるほど、生き残りのために明治政府の骨格である国体思想・国家神道の軍門に下った仏教各派の話は知識としてはありましたが、これまた見事です。
その一角に音羽陸軍埋葬地。明治時代の戦役で活躍し亡くなった軍人たちを英霊として祀り顕彰する場所にそれらしきもの=瑜祇(ゆぎ)塔がありました。
護国寺では多宝塔(たほうとう)と呼んでいるようです。
真言密教の重要なお経・瑜祇経から名をとった筑波山知足院中禅寺の瑜祇塔(ゆぎとう)が明治時代の戦役(植民地戦争)で戦死した兵士たちの慰霊と顕彰に利用されているとは!
中には入れないのですが、見たところ、その経緯については何一つ書かれていません。
ネットでも同様です。
・
こちらはそのすぐ横。
満州事変での戦死者、ただし将校のための慰霊碑。
国体思想の性格が現れる。要は天皇という現人神を頂点とする序列社会を顕彰するということなのだろう。
事実、先の大戦で死んだ日本の兵士の60%は餓死だった。国によって見捨てられたのである。
段々、気分が悪くなってきました。
廃仏毀釈を支えた思想はその後、国体思想・国家神道として尖鋭化し、先の戦争を引き起こす源流となりました。
にもかかわらず、廃仏毀釈も国体思想・国家神道に屈した歴史的事実も黙して語らずとは!
明治維新の熱狂の闇も先の戦争の狂気も何の反省もせず黙したままとはあきれるほかありません。 追認・是認しているのと同じですから。
でも、それはこのお寺だけでなくメディアも含め同様なのですが、黙ってやり過ごしてきたのは私らもそうなのですね。
だからいまだに戦前回帰を目指す日本会議のような集団が政権深部にまで入り込んでしまうのでしょう。
結局のところ、つけを払うのは私たち自身だと改めて思いました。
あ~大変だ。でもやりがいはあるね~~。
・
時間がなくてお寺にゆかりのある人の話は聞けませんでした。
機会があれば直接聞いてみたいものです。
追記:
「筑波町史 下巻 1990年」には、明治初めの筑波山の廃仏毀釈の様子が、主導した人物の個人名を含めかなり詳細に描かれています。
その説明の中に、護国寺に遺された筑波山中禅寺の仏像等に関する記述がありますので紹介しておきましょう。以下、その一節を引用します。
なお、当時はかなりインフレが進み、一両はおよそ5000円程度だったと思われます。
2019年8月9日
「大御堂を初めいくつもの堂塔を破却し、本尊を焼き捨てることにしたが、護国寺の僧は黙止出来ず三〇〇両を出して引き取った。宝筐印塔・大仏・金剛力士・地蔵菩薩などの唐銅類は商人に売却しようとしたので、潰し値段七四〇両で護国寺が買い取った。
---- 中略 ----
大御堂は八月二三日から九月末までかかり、二〇〇両を使って取り壊した。銅瓦は売却され、材木は町内の家々へ運ばれた。薪・下駄・水風呂にされ、板に挽いて売り出す者もおり、閏一〇月末までにはきれいになくなった。大仏は九月ごろ筑波を引き出し、土浦の霞ケ浦の岸に一二月まで置かれた。船に積む人がなかったのである。しばらく過ぎて船に載せ護国寺へ運んだという(勇範日記)。仏器・仏像は護国寺のほかに猿島郡生子村(猿島町)万蔵院、新治郡松塚村(桜村)東福寺に、鐘楼は近くの泉村慶竜寺に売却された。仏典や記録類も焼却された。本尊の千手観音も護国寺に移されたが、後に筑波に返されて再興された大御堂に安置された。六丁目鳥居の「天地開闢筑波神社」の額も同年一二月に取り外された。衆徒寺などの仏像・仏器は一時塔の上というところに運んでおき、五年八月に戸長らが表に出して焼却した。衆徒寺は町民に売却された。不動院は一七両、三明院は九両である。破却を免れて筑波山神社に引き継がれたのは仁王門・神橋・日枝神社・春日神社・厳島神社等ごく僅かである。寛永期頃の燦然とした面影はどこにもなくなり、多くの文化財は失われた。」
江戸時代には、善行寺、高野山と並んで三御堂と謳われた筑波山知足院中禅寺は廃仏毀釈の折に徹底した破壊、略奪、焼却の憂き目に会いました。
筑波山神社はその後に作られたものです。明治8年(1875)のこと。
その経緯は神社のどこにも記されていません。
そうして、1922年(大正11年)に公式に次のように決められました。
■ 筑波男ノ神(つくばおのかみ) 男体山の神。 人格神を【伊弉諾尊(いざなぎのみこと)】とする。
■ 筑波女ノ神(つくばめのかみ) 女体山の神。 人格神を【伊弉冊尊(いざなみのみこと)】とする。
明治政府が作り上げた疑似一神教・国家神道に則って、主祭神をイザナギ・イザナミとしたのでしょう。そうすれば、社格が上がりますからね。
種々雑多、さまざまな神様が共生するまったりした寛容の世界、本来あった八百万(やおよろず)の世界は消失し、排他的で攻撃的な世界に生まれ変わったのです。
ではその前はどうなっていたのでしょう?
筑波山中禅寺は20代そこそこの若き法相宗(ほっそうしゅう)の僧・徳一により開山されました。
延暦元年 (782年)のことと言われます(9世紀初頭という説もあり)。
天災と戦災で荒みながらも純粋な東国の人々を救うため。そしてそれまでの古代信仰・山岳信仰を融合させて。(ちなみに、この徳一は生前から徳一菩薩と称され、人々から敬愛されていました。生前から菩薩と呼ばれていたのは、行基とこの徳一のみと言われます。)
ということはお寺としては、1875-782=1093年続いたことになります。
1093年!!
ではさらにその前は?
幸いなことに記紀(古事記は712年、日本書紀は720年)が作られたのと同じ時代に編纂された常陸国(ひたちのくに)風土記(721年成立)が残されています。
白村江の戦(663年)でボロ負け、国が亡びる寸前まで追い詰められ、あわてて中央集権国家の建設にまだ追われていたころです。
でも、まだ東国(陸奥国)の蝦夷(えみし)征伐が始まる前のこと。
ここ、常陸国もまだ抵抗を続ける先住民(蝦夷?)らがいたのでしょう。この風土記には国巣(クズ)とか土蜘蛛(つちぐも)という人々が出てきます。悪者として。おそらく抵抗を続ける蝦夷ではなかったでしょうか。
そういう状況ですから、当然、西国の大和朝廷や出雲の国の神話に出てくるような神様はまだ出てきません。
「そもそも筑波(つくば)の岳(やま)は、高く雲をつきぬけてそびえ立ち、その頂(いただき)の西の峰は高くけわしく、雄(お)の神と呼ばれており、人の登ることを許さない。・・・」(常陸国風土記)
ただ男の神、女の神です。(富士と筑波を訪れる祖神も出てきますが、今回は省略。)
そして、都でも有名になったのが、歌垣・かがいの記述です。
歌垣は、一年のうちの特定の時期(常陸国風土記では春と秋)に特定の場に男女が集まり、飲食歌舞に興じると共に恋の成就を遂げる行事です。おそらく農耕(春の田植えと秋の収穫)の行事と関係していたのでしょう。
その記述が都人の評判になり、「憧れの恋の山」として筑波山が万葉集に歌われるようになったようです。
都人の憧れの山=筑波山の誕生です。
筑波山は、当時の人々にとってはとても身近な、豊饒、生、再生のカミさまだったのでしょう。
イザナギ、イザナミの話はなしです。これは詐術(*´▽`*)
ちなみにこの歌垣・かがいの場、今は公園になっています。週末でも人っ子一人いない静かな場所。
古代の筑波、伝統の筑波を味わいたければ、こちらへもぜひどうぞ。
以下は参考までに、常陸国風土記 四 筑波郡(二)の現代語訳です。
=================
そもそも筑波(つくば)の岳(やま)は、高く雲をつきぬけてそびえ立ち、その頂(いただき)の西の峰は高くけわしく、雄(お)の神と呼ばれており、人の登ることを許さない。が、東の峰は四方が岩石で登り下りはごつごつしてけわしくなだらかではないが、その側を泉が流れていて、冬も夏も絶えることがない。(足柄(あしがら)の)坂から東にある諸国の男女は、春の花が咲く時期、秋の木の葉が色づく時節になると、手をとりあって連れだち、食べ物や飲み物を持って、馬に乗ったり歩いたりして (この山に)登り、終日楽しく遊び過ごす。その歌は次のようなものである。
〇筑波嶺(つくばね)に 会(あ)はむと 云(い)し子(こ)は 誰(た)が言聞(ことき)けばか み寝会(ねあ)はずけむ
◇[筑波山の歌垣(うたがき)で逢(あ)おうと言った女は、いったいだれの言うことを聞き入れたのであろうか。私には逢ってくれないものだ]
〇筑波嶺(つくばね)に 廬(いほ)りて 妻無(つまな)しに 我(わ)が寝(ね)む夜ろは 早(はや)も明(あ)けぬかも
◇[筑波山での歌垣に、相手となる人もないままに一人で寝なければならないこの夜は、一刻も早く明けてほしいものだ]
(この歌垣の時に)うたわれる歌はたいそう多くて、とてもここには (そのすべてを)記載しきれない。土地の人々の言い伝えてきた言い草に、「筑波山での歌垣で男からの贈り物を手にすることもできない女は、娘の数にも入らない」という。
郡衙(ぐんが)から西方十里のところに、騰波(とば)の湖がある。その長さは二千九百歩、幅は千五百歩である。
(この湖の四至は)東は筑波の郡、南は毛野(けぬ)の河、西と北とはともに新治(にいはり)の郡、東北は白壁(しらかべ)の郡である
追記:
古代の信仰は山そのものを崇め、山に入るなど恐れ多いことでした。実際には、山の麓(ふもと)の大岩などを祀っていたと言われます。
筑波山も同様でこのカガイの場所もその候補の一つと考えられます。 実はほかにも候補となるふる~い神社がいくつか(月山石神社、飯名神社、六所神社)、麓にあります。機会がありましたらいつか紹介しましょう。
ちなみに、古代の信仰は神祇信仰と言われるもので、それが仏教や道教の力を借りて政治的意図をもって生まれたのが【神社】です。ですので、神社は古代からある日本の伝統と考えるのは大きな誤解と思います。
椎尾山薬王院
後に知ったことですが、筑波四面薬師の一つです。うち、二つは廃寺。おそらく廃仏毀釈で。
なので、このお寺も筑波山中禅寺を守護するお寺の性格があったはず。
が、お寺の由緒には筑波との関係は何も書かれておらず、この件に関してはいまだ不明。
徳一上人との関係が隠れているのではないか、と個人的には勘ぐってますが。
ともあれ、とても閑静で落ち着いた雰囲気のあるお寺です。
私が聞いた声は徳一上人の声だった、ような気がします( ^)o(^ )
筑波山の西尾根に、男体山に向かう古い登山道(参道?)があります。
地元の方が結構利用するルート。その麓の起点に椎尾山(しいおさん)薬王院という立派なお寺があります。週末でも人っ子一人いません。とても閑静なお寺。
昔、初めて訪れた時にずいぶん奇妙な雰囲気に魅せられました。
◇なんで東国の片田舎に、こんな立派なお寺が延暦元年(782)の大昔からあるの?
◇最仙上人が開山。桓武天皇による勅願寺。 ん?ほんと?
◇境内に破壊されたお地蔵さんが痛々しく並んでる。 廃仏毀釈?
◇筑波山とは相当密接な関係があるはずなのに、一言も触れてない。 なんで?
疑問は次から次へと。
当時、私にはこのお寺からいろいろな声ならぬ声を聴いた気がしました。
このことがきっかけで、いろいろ調べ始めることになったのです。
筑波山における凄まじい廃仏毀釈の事実や、徳一上人という歴史からはほとんど消去されたお坊さんが、その昔(8世紀末-9世紀)筑波、いわき、会津に一大仏国土を開いていたことを知ったのでした。
でも、まだ疑問はたくさんあり、先日(10月7日)、ようやく薬王院で若いお坊さんとお話ができて少しすっきり。若いからこそ何でも語ってくれたのだと思います。いろんな口伝を話してくれました。
以下はお話してくれた内容です。
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椎尾山薬王院の境内にあるこの悲惨な状況を見て、
もしや筑波山神社も!という感覚を覚えたのでした。
案の定、とんでもない廃仏毀釈があったわけです。
六地蔵、六菩薩。それぞれ一体のみ無事。
初めて見た時、何とも不思議な感じがして、誰かの声が聞こえてくるような気がしました。
■役人が主導する廃仏毀釈の熱狂に薬王院もさらされた。
世直しのような空気があり、役人たちの扇動が多くの民衆をわけもわからず駆り立てた。
一方、薬王院を守ろうと別の民衆らも立ち上がった。同時に僧侶たちが頓智を活用してこの寺を守り抜いた。
■まず、この寺が桓武天皇による勅願寺であることを訴えた。【天皇の意思】で建てられた寺だ、と。
■それでも国学や水戸学に熱狂する役人らは納得いかず、六地蔵と六菩薩を犠牲に差し出すことで廃仏毀釈の形を保ち、メンツを立てることにした。自ら六地蔵と六菩薩の首をたたき落した。それぞれ、一体づつ首が残っている理由は六道輪廻(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のうち、天道は神を象徴するものなので、神を残す名目で一体づつ残すことにした。これも僧たちの頓智ではなかったか、と伝えられる。
■境内にある日吉(ひよし)神社を役人たちは解体してこの寺とは別の場所に移設する意向を示した。
このあたりは平家一族の地であり、平家ゆかりの日吉神社が祀られていたのである。(ちなみに主祭神はふつう、大物主、大国主。)
そこで、僧侶たちは偽装を施した。神社内に毘沙門天を持ち込み、毘沙門堂という名の堂塔にでっち上げて危機を回避した。
■もう一つ、最近判明したこと。
寺内には開山した最仙上人の座像があるが、像はもう二体あった。江戸時代の中興の祖である僧とその弟子だと自分たちは思っていた。ところが、修復に出したところ、その像は室町時代初期のものであると判明。
調べてみると、当時の鶴岡八幡宮寺からこの寺に一人の僧が派遣されていることが分かった。その時に、僧形八幡神像を勧請したのではないか、と今は考えている。
鶴岡八幡宮寺もまた平家にゆかりのあるお寺で薬王院とも関係があった。ところが、神仏習合の典型であった僧形八幡神像は廃仏毀釈に熱狂する者たちにとっては最も憎むべき対象。この国の多くの僧形八幡神像が廃棄された理由でもある。
その僧形八幡神像を守るために、当時の僧侶たちが偽証したのではないか、と考えている。真相は私たちにも伝えられなかった。
(【鶴岡八幡宮寺】は私の誤植ではなく、正しい歴史。明治の廃仏毀釈によって【寺】の部分が削り取られたのです。)
以下、お坊さんと私のやり取り。□は私。
■一歩間違えれば、この寺も(筑波山神社のような)おかしな神社になっていたかもしれません。
□こういう歴史の事実は伝えていかなければいけませんよね。
■その通りだと思います。
□でも、破壊した方が黙ってるだけでなく、やられた方も黙ってるっていうのは問題ですよ。
■確かにそうですね。ただ、いろいろ差し障りがあるのでしょう。
(やれば神社側といろいろな齟齬が生じるのでしょう。神道政治連盟とか日本会議のような圧力団体も動くかもしれず。)
□でも、こんな狂った一神教もどきの神道とは戦わないといけないのでは?
■確かにそうですね~。
と、若い僧は個人的には賛同してました。
この薬王院の話を聞けば、筑波山知足院中禅寺が徳川幕府の絶大な支持を得ていたこと(=憎悪の対象になる)、内部の権力抗争で事実上責任者がいなかったことを考えると、中禅寺が廃仏毀釈の熱狂に耐えられる状況ではなかったことは想像に難くありません。
なにしろここは水戸に近く、国学、水戸学の影響が色濃い地でしたから。
これは2009年に撮影した仁王像。立派です。
今は修復中で仁王門の中はお留守。
追記:最近判明したこと。この仁王像を修復に出したところ、なんと鎌倉時代のヒノキの一木割りでした。おそらく運慶一派のものだということです。修復が終わり、近々メディアに公開することになります。私は個人的に一足早く見せていただきました(@^^)/~~~
2019年7月26日
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結構生々しい話が聞けて面白かったです。
やはり、直接聞いてみるものですね。
筑波山における廃仏毀釈の姿が立体的に見えてきました。
お話相手の若いお坊さんです。
実直でとても良い笑顔です。
お坊さんの上に見える欄干の金属製のキャップは、廃仏毀釈の嵐が収まりホッとしていたころ、熱心な檀家の人々が寄進してくれたもの。本堂の周りにいくつもあります。
永久の平安を願って。その想いが通じたのか、150年近くは保ってきたことになります。
先日(10月21日)、椎尾山薬王院のお坊さんの話をまた聞きに行ってきました。
いくつか、どうしても確かめたいことがあったので。
椎尾山薬王院は、1200年という長い歴史を持つ、衆生済度の巨大な信仰(修験)の山・筑波山を守る四面薬師の一つであり、今にその片りんを残す唯一の貴重なお寺でもあります。
巨大な信仰の山・筑波山の西の中心地だったのです。
・
率直に疑問をぶつけてみました。
すると、何とも率直な返答にビックリ。
■ご指摘のように、ここから筑波山に真っすぐつながる道はとても古く、参道、修験の道でした。どのくらい古いかはわかりません。
確かに、ここは四面薬師の一つで西の中心地でした。
このあたりだけでも、四十四の堂塔があったのです。ここ以外はほぼすべて失われましたが、今でもその礎石は見ることができます。
それほど筑波山全体が巨大な修験の山だったのです。
■私は間違いなく、ここは最仙上人ではなく、徳一上人による開山だと思います。
当時の状況を考えれば、天台宗の僧侶が、民衆の圧倒的支持を受けた徳一上人の布教の地に入り込めるとは思えません。最澄さんとの※三一権実論争(さんいちごんじつろんそう)がある中ではなおさらです。
でも、天台の教えは法相唯識(ほっそうゆいしき)を土台にしているとも教えられました。その上に乗っているのだ、と。
前に聞いた境内にある日吉神社の写真を撮ってきました。
廃仏毀釈の時に、危うく解体、移設になるところを住職と町の有力者たちが役人を説得したのです。
これは神社ではない!その証拠に中には毘沙門天があるでしょ!
六地蔵と六菩薩を犠牲にしてなんとか、本堂、三重塔、仁王門、日吉神社を守ったのでした。
嘘も方便。仏教の得意技ですね。頓智とも言います。
似た話は他のお寺でもあるそうです。
三重塔をただの倉庫だ!と強弁して破壊を免れたお寺もあるそうです。
スゲッ!
【私の予感は大当たり!この薬王院も徳一さんによる開山であることは間違いないでしょう。エッヘン(@^^)/~~~)】
■おっしゃるように、ほとんど誰も廃仏毀釈のことを知りません。
私がいなくなれば、伝え聞いた伝承もみな消えてしまいます。残さなければいけないとは思っているのです。
何とかこのお寺を残して仏様の教えを伝えていかなければ、とも思っています。
■いかんせん、最近はこのお寺に来ても、「ここは神社ですか?」と問う人や、柏手(かしわで)を打って礼拝する人も見かけます。
もともと神仏習合で何でもありの世界ですから、そんなことはどうでもよいのですが、どうも神社側の浸透力がとても強いと感じます。大体、柏手を二度打つという習慣すら誰が言い出したのかわからないにもかかわらず、それに皆が従うというのも変ですよね。
・
若いお坊さんは住職の父上と二人きりでこの立派なお寺を切り盛りしていました。
観光客はほとんど見かけません。
県の援助も三重塔と本堂の修復に関するものだけで、傷んだ仁王門はどうしよう? 修復の終わった八幡神像はどこに置いたらいいのか? いろいろ悩みは尽きないようです。
あれこれ話が弾んで一時間近くの立ち話になってしまいました。
実直な若いお坊さんに敬意を払って、今度は多少のお布施をもってうかがうことにしましょう。
それにしても、この薬王院、救いを願った多くの人々の営みの集積ともいえます。それが失われつつあるのは何とも寂しい。
一方で、桜川市真壁町は真壁城再建にお金をかけてるようですが、それは権力者の遺物。
それはそれとして、もうちょっと、この薬王院にも目をかけてくださいな。
貴重ですよ( ^^) _U~~
※三一権実論争(さんいちごんじつろんそう)
平安初期に天台宗最澄と法相宗徳一の間で激しい宗教論争が行われました。
弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて。
思想的には不毛と言われるこの日本で思想の内実にかかわる激しい論争が行われていたのです。「三一権実争論」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」とも言われます。
内容については収拾がつかなくなるので触れません。 生半可な知識では駄目です
(*´▽`*)
ちなみに、最澄が書いたものは残っていますが、徳一の書いたものは多数あれど(題名のみ判明)、一つも残されていません。
わかっているのは、最澄側が書いたものの中の引用のみです。
残されていない(廃棄された)ということは相応に強力な内容だったのでしょう。事実、天台宗側の徳一批判はこのあと、多くのすぐれた学僧により200年にわたって続きます。最後は源信の「一乗評決」により終結、と言われます。
ついでに触れると、徳一は空海ともやりあっています。徳一の書いた「真言宗未決文」は真言宗に対する疑義ですが、幸いなことに残っています。
真言宗(空海)側が批判するために残したのです。ただし、空海は応えませんでした。一つの疑義を除いて。
適当にあしらったと真言宗側は言いますが、どうでしょうか(@^^)/~~~
内容はなかなか鋭く、神秘思想を嫌い合理主義的で菩薩道(衆生の救い)を大切にする徳一らしいものです。
独り即身成仏して衆生の救いはどうするのか?
真言(梵字)とは人が作ったもの、なぜそこに秘密の力があるというのか?
秘密の教え? そのような話は聞いたことがない。ブッダが誰にそれを伝えたのか?
などなど。
なかなかに鋭いものです。
こちらも反論に数百年(;^ω^)
江戸時代に描かれた筑波山の中腹あたりの様子。
知足院中禅寺の中心部。
ここに描かれているだけでも相当数の堂塔と摂社がある。中央の本堂のところに現在の筑波山神社がある。その隣の三重塔のところには社務所ができている。
筑波山知足院中禅寺の本堂(大御堂)および三重塔は廃仏毀釈の時に完全に破壊されてしまいました。
今の筑波山神社の大きな拝殿はその本堂の跡地に作られたものです。
神社の社務所があるところには三重塔が建っていました。
その証拠となる本堂と三重塔の礎石群が以前は拝殿のあたりに残っていました。私も記憶があります。昔はそのことを知らず不可思議な踏み石くらいに思っていました。
ところが、今はそれすら見当たりません。
(事情はs_minagaさんのサイトで知りました。 http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_tukubasan.htm)
同じく江戸時代に描かれた筑波山の中腹より上の様子。
男体山山頂だけでも20ほどの堂塔、もしくは社が描かれている。筑波山全体が神仏習合の信仰の山だったことがわかる。おそらく、これとても信仰の山の一部でしかないと思われる。
宝暦5年(1755)に書かれた筑波山上画図
国立公文書館 蔵
「郷土の先達とゆく 筑波山」結ブックス より
その貴重な? 唯一ともいえる廃仏毀釈の証拠がいつの間にか、駐車場の石垣の一部に埋め込まれていました。s_minagaさんの追求で神社側もその埋め込み作業を認めています。
証拠隠滅? と言われても仕方ない。
その上、大元の中禅寺側に何も通知せず、駐車場の石垣に埋め込んでしまうとは!
いくらなんでも、無配慮、無神経な!!と私は感じますが、当の中禅寺関係者はどう思うか、以前お話した大御堂の老尼さんに直接聞いてみました。
s_minagaさんのサイトから拝借した写真をコラージュ。
かつてあった三重塔の礎石は当初、拝殿の前に置かれていた。が、2013年5月の時点では掘り出され消えていた。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_tukubasan.htm
こちらは拝殿・社務所の前方石垣上手摺に沿って、置かれていた大御堂の礎石(上の写真2枚)。
が、2013年5月の時点では掘り出され、社務所東側の庭園付近に仮置されていた(下の写真2枚)。
s_minagaさんのサイトの写真をコラージュ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_tukubasan.htm
尋ねた直後、彼女は血相を変え表情が一変しました。
「その通りです!
ですが、私どもから言うことは何もございません!
あれが、1300年の歴史を物語っています!
私どもから言うことは、ナ・二・モ・ございません!!」
言葉は丁寧でしたが、その迫力、怒り、いや憎悪の青白い炎が見えるような気がして、私はそれ以上何も言えませんでした。
ほかにも廃仏毀釈の折に破壊した、代々の僧侶を供養する石碑などの破片がそこら中にあったらしいのですが、私は見つけることができませんでした。どこに廃棄したのでしょう。廃仏毀釈という破壊活動の証拠になるようなものはほとんど残っていません。
筑波山は、最も古い記録といわれる常陸国風土記を読む限り、古代からの山岳信仰こそあれど、天皇家とかかわりあるカミサマとは無縁でした。
ですが、神社内のあちこちに天皇家とのかかわりを誇示するような碑が今も作られ続けています。
イザナギ、イザナミを主祭神にしたのは、実は廃仏毀釈の後、大正時代になってから。
(江戸時代にはイザナギ、イザナミは筑波に入り込んでいましたが、他のカミサマ同様、八百万のカミサマの一つ、という意味だったでしょう。)
古代からある、筑波の「男の神(おのかみ)」、「女の神(めのかみ)」は天皇家の神話の一部として取り込まれてしまいました。
筑波山神社境内あちらこちらの目立つ場所に天皇にかかわる碑がそれとなく配置されている。
いずれも新しく、昭和から平成にかけて。
これは拝殿真正面。
どうしても天皇と結びつけたいようですね、神社神道(≒国家神道)側は。
昭和、平成になってからもいろいろな碑が作られ、天皇家の神話を補強し流布する神社の役割、明治政府が作り上げた【国家神道】敷衍の舞台装置としての役割を今もなお担っているように見えます。
駐車場の横にはなんと、日本中を震撼させた水戸劇派=水戸天狗党の首領の一人・藤田小四郎を顕彰する像まで。
小四郎は言わずと知れた幕末水戸学を打ち立てた藤田東湖の四男で、テロリストとして死罪になった人間。
もっとも、後の明治政府によって従四位を贈られます。
まさに勝てば官軍。
現在の筑波山神社が明治の国家神道を敷衍する神社であることがわかります。
そんな事情も知らずに、頭を垂れる参拝者、登山客の姿を見るとやり切れなくなります。
廃仏毀釈とは単なる神仏分離ではなく、多神教、八百万の神、寛容の信仰の破棄と破壊、そしてそれに替わる疑似的な一神教(絶対者・天皇とその縁者たちのための世界、そのために私たちは存在しているという宗教)の強要でした。
今もなお、それが続いているというのは恐ろしい話だと思います。
もう、そんなことは止めにして早くまともな民主政社会への第一歩を踏み出したいものです。
単純に男の神、女の神と言われ愛でられてきた古代筑波山。
そこに徳一というお坊さんが入って山岳仏教、神仏習合の山に。
そして、さまざまな神様と仏さまが入って八百万の寛容性ある神仏習合世界に。
八百万の神の世界、寛容世界が1100年間にわたり続いてきました。
それがつい150年ほど前、疑似的な一神教である国家神道にかすめ取られ、それが今もなお続いているのです。
なんとも不健康極まりない話で、筑波山の自然を貶めるだけに思えます。