以下の2項目を追加し、これまでの対話をPDFにまとめました。
11.フィロソフィの本質とは、誰にも何にも遠慮せずに堂々と思考する営み
12.プラグマティスト/ 現象学 フィロソフィの方法と本質
ご利用ください。=》PDFファイルダウンロード
ちなみに、12.は哲学の基本中の基本(認識論)について触れています。
いくら緻密に思考しても、この基本が抜けると価値のある思考はできないはずです。思想家や学者でも、認識論の原理をふまえている 方はあまり多くないようです。要注意と思います。
2016年7月6日
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【武田哲学の芯に迫るためのインタビュー =質問 内田卓志】の続き、その3.です。
じっくりお楽しみください。
6.宗教についての対話
7.宗教についての対話 2
「超越性」という発想はすでに無効。「宗教表象」による現実への応答は限界に。
8.プラトンのイデア論、
「ほんらいのフィロソフィは、書物の読解ではない。」
9.つまらない顔はイヤ、からはじまったわたしの哲学
10.「学問的」ということと「自分で考える」ということ
11.フィロソフィの本質とは、誰にも何にも遠慮せずに堂々と思考する営み
12.プラグマティスト/ 現象学 フィロソフィの方法と本質
以下は、インタビュー1,2の目次。
1.武田哲学の芯に迫るためのインタビュー =質問
2.実存とは何か?
3.差異と対立の違いは? 否定ではなく、対立を。
4.ほんとうの教育とは?
5.意味論抜きの事実学(パターン知)の累積は、死に至る病
付録:強く安部首相を支持する若者(女性)とのネット対話ー「教育の本質論」 について。
なお、終了したらまとめてPDFファイルを作成する予定です。
内田=>武田
そろそろ武田先生への教育についての質問を終わり、次のテーマについて伺おうかと思いますが、一点申し上げておきましょう。
それは、デューイの研究家の藤井千春教授が、『「山びこ学校」の教育的意義の再評価 ―ジョン・デューイの「公共性」概念を観点にして―』で述べている点です。長くなりますが引用します。
(1)「初期社会科」の構造
「昭和22 年度版学習指導要領社会科編(U)(試案)」では,社会科の学習活動について,「生徒の経験を中心として,これらの学習内容を数個の大きい問題に総合」したと述べられている。その理由について,次のように示されている。
「(一)学校内外の生徒の日常生活は常に問題を解決して行く活動にほかならない。
(二) 学校は生徒にとって重要な問題を解決するために必要な経験を与えて,生徒の発達を助けてやらなくてはならない。」
「初期社会科」では,自主的に調べ,考え,判断して行動のできる民主主義社会の建設を担う,合理的で自律的な人間の育成がめざされた。それは戦前・戦中の教育が上からの命令に従順に従う人間を育成してきたことに対する,そして,そのことが軍国主義・超国家主義へと国民を導いたという反省に基づいている。「初期 社会科」では,合理的で自律的な人間の育成のために,子どもたちが自分たちで事実を調べ,自分たちでその事実の有する意味を究明し,どのように行動すべきかを考えるという学習活動の方法,すなわち問題解決学習が採用された。子どもたちのそのような学習活動を展開されるために,「実生活で直面する切実な問題」を取り上げることが要請されたのである。
以上のように、戦後の初期社会科教育理念には、武田先生の教育論と共通する思想を 読み取れます。この教育理念には、ジョン・ディーイの教育哲学がベースにあるようです。かつて、敬愛する経済学者の宇沢弘文先生も、戦後の旧教育基本法の教育理念には、ジョン・ディーイの弟子たちの力が大きく関与していたと、 述べられておりました。私は、詳しくは存じ上げませんが、重要な視点と思いま したので言及しました。
さて、次に宗教について考えていきたいとおもいます。宗教については、武田先生は、宗教家や信者との多くの対話を重ねておいでのようです。武田先生の経験について伺う前のイントロとして、竹内芳郎先生の宗教論について述べたいと思います。竹内先生は武田先生の恩師とのことで私も数年前お会いしました。私が 大学生の時に最も影響 された宗教論のひとつが竹内先生のそれでした。(『意味への渇き―宗教表象の記号学的考察』)この本のポイントの一つを私なりに簡単に説明すると以下のようになると思います(武田先生、間違っていれば訂正してください)。
普遍宗教と呼ばれている宗教には、超越性原理(普遍性原理)が備わっている。仏教なら「慈悲」とかキリスト教なら「愛」とかいうものだと思います。竹内先生は、もっと精緻に分析しています。そのような超越性原理は、平等思想や人権思想の根拠となり、社会の民主化や反戦平和思想にまで及び、また、超越的普遍者をもち、超越的で普遍的な(信仰)対象を持つことによって、現世の一切を存在論的にも価値論的にも相対化してしまう視点を形成できると言っています。「愛とか慈悲のような超越性原理」を否定する存在や価値があれば、徹底的に批判し闘うということだと思います。そのような普遍宗教を竹内先生は、非常に評価していたと思います。神道のような宗教には、そのような力は望めないわけです。
イントロはそろそろ終わりにして、武田先生の宗教観について、また個人の主観性との関係にまで踏み込んで順次お話して頂ければ、たいへん幸いです。
内田卓志
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武田=>内田
内田さん、デューイの教育論、整理して示して頂き、ありがとうございます。
わたしも「プラグマティズムの哲学者であり社会思想家で教育者でもあるデューイ」を学生時代に読み、優れた思想家だと感心しました。
わたしは、私塾というたぶん日本的な伝統の方法でこどもたちと、また成人者との交わりをしてきましたので、デューイとは直接には関係しないのですが、彼の教育思想と実験教育が戦後日本の民主教育の柱になったのはよく知っています。
わたしの場合は、わたしの実存を基底としての教育なので、はるかに個人的です。実践は小さく、一人ひとりに相対するもので、いまの日本の状況では、「小ささこそが大切」との思いがあり始め、その理念と方針に従い40年間続けています。
教育は人間の教育ですから、人間の存在論的事実を踏まえることが前提で、よい教育とは、幼子の示す赤裸々な人間性を愛すことから出発します。そのため教育への基本姿勢は自然と似てくるものと思います。特定の思想や理念に縛られず、一人ひとりのありのままの存在をよく知り、そこからその都度発想するわけで す。原理は示せますが、個々に対応するマニュアルはないのです。
では、本題の宗教についてです。
わたしの場合は、何について考えるのも、私自身の赤裸々な生の現実からですので、宗教についても同じで、一般的宗教論ではなく、私の宗教への見方です。
わたしの父は、浄土真宗の門徒で学生時代は檀家回りをしていました。植木等(後年クレージーキャッツの一員)と共に文京区の真浄寺で修行していたのです。祖父が僧侶でしたので。
しかし、父は、わたしに宗教や宗派のことなど何も話しませんでした。わたしも高校生まで無頓着で、たまたま野間宏の書いた『歎異抄』の解説本を読み、親鸞というのはなんと凄い人だと感嘆し、それを父に話すと、親鸞は自家の宗派の開祖だと言うのでビックリしたのでした。これでは笑い話ですね。
わたしにとって宗教とは一つの思想であり、信じ込むこととは違いました。まして、人格をもった神が実在するという話は、荒唐無稽であり、それは物語の登場人物が実在すると信じることと同義で、長年の間、ほんとうにそんなことを信じている人がいるとは思っていませんでした。大学になり、キリスト教の信者は現代でもなお神が実在すると信じていることを知り、驚くと同時に呆れました。
哲学徒であるわたしは、人間の生き方や生きる意味を、自分の頭でよく考えてだんだんと確かで豊かなものにしてきましたので、教典・経典を読んで覚えたり、 信じたりすることとは無縁でした。どのような書物も自分の経験を踏まえて自分の頭で考えるための手段であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのです。だから、後年、プラトンによるソクラテスの対話編『パイドロス』を読み、文字は死んだ言葉であり、いま話される問答こそ生きた言葉であって、それがフィロソ フィー(哲学・正しい訳語は「恋知」)だという主張にとても感心したのでした。
宇宙の仕組みが次第に明らかになり、生命の誕生や進化が化学的にも解明されてきた後でなお、どこかに人格をもった神がいて、すべてを見ている、とか人間や 宇宙のありようは神の計画だとかいう話は、あまりにも愚かしく子ども騙しでしかありませんから、そういう類の話はなしにして次に進もうと思いますが、いかがでしょうか?
紀元後415年(ちょ うど1600年前)にキリスト教徒たちによって惨殺された女性教師(フィロソファー・天文学者・数学者)のヒュパティアの言葉はじつに見事です。
「形式を整えた宗教は、すべて人を惑わせます。最終的に自己を尊重する人は、けっして受け入れてはなりません。」
「神話、迷信、奇跡は、空想や詩として教えるべきです。それらを真実として教えるのは、とても恐ろしいことです。子どもは、いったん受け入れてしまうと、そこから抜け出すことは容易ではないのです。そして、人は信じ込まされたもののために戦うのです。」(英文からの翻訳は武田)
最後に、竹内芳郎氏の「超越性の原理」についてお応えします。
世俗の損得や利害という価値、また、有名人であることや収入が多いことなど、いわゆる「世俗の価値」に縛られずに真実を探求すること・善美への憧れをもつことは、子どもも、というより子どもや青年ほどよくしています。
それを竹内芳郎氏のように、世俗の価値を超越した価値=「超越性の原理」をもっているからだ、というのは、結果からみればその通りなのですが、それを氏が主張するように「超越性の原理をもたねばならない」とすると、特定の思想的装置になるでしょう。ロマンや理念の世界は、世俗の価値とは切れた別世界と表象されるわけです。
わたしは、よき世界への憧憬はこの世俗の世界の只中にあり、真実の探求や善美への憧れ(竹内氏のいう超越性)は、日常生活の中に根を張るものと思います。生活世界の中に世俗の価値に縛られない価値は存在する、と見るのです。生活世界の外に「よき見方」があるのではなく、生活世界の中の「或る領域」にそれらはあると考えるのです。
善美への憧れや真実の探求は、世俗の価値を否定するのではなく、それらを包んでより普遍性の大きな価値に引き上げていく営みだ、とするのが武田思想の中核です。世俗の価値を「否定」するのではなく「対立」することで、世俗の世界に意味と価値=光を与えるのです。その光がなければ、世俗とは暗闇にすぎません。 そうなれば、善美と世俗の価値の領域は両方とも成立せず、ただ無自覚に流れゆく惰性世界があるだけとなります。
竹内氏の「超越性の原理を持て、」という考え方・言葉は、フィロソフィーを「一神教化」し てしまうので、とても不味いと思います。以前に書きましたように、フィロソフィーとは【超越的真理】を求めるものではなく、また【世俗の価値】に従うこと でもなく、みなが深く納得できる【普遍的な考え方】を提示する普段の努力です。自問自答と問答的対話によりだんだんと優れた見方をつくる作業だ、というのがわたしの基本思想です。
武田康弘
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内田=>武田
続いての質問です。 内田
私は、フィロソフィーとは、みなが深く納得できる【普遍的な考え方】を提示する普段の努力という基本思想に共感致します。先生のフィロソフィーとは、世俗の価値を否定するのでなく、世俗の世界の只中にありそれを包括して普遍性の価値に引き上げていく行為だと伺いました。まず、三点ほどご質問します。
1)竹内先生が言う、「超越性原理を持て」という考え方は、宗教に限定してのご主張ではなかったのでしょうか?フィロソフィーにも竹内先生は、超越性原理を求めておいでなのでしょうか?
2) 普遍宗教の超越性原理とは、武田先生の考えるフィロソフィーとどのように違うのでしょうか? 私は仏教徒なのでゴーダマ・ブッタが説いた思想について考えます。ブッタは、普遍的な原理ともいえる「自灯明・自帰依」及び「法灯明・法帰依」を主張したとされています。この思想は、普遍的であると共に、超越的であるとも言えます。決して絶対的な真理を言っているわけではありません。生活世界で苦から脱し、よく生きるとは、何であろうかという、原理的な問いについて、ブッダが考えた思想であり姿勢でありました。ブッダの悟った生き方の実践とその継続、心身を通して自覚的に内在化させていく行為や働きが仏教の説く、 超越性原理であると思っています。ブッダの言った超越とは、内在的な超越であり、 「解脱」を求めるということでしょう。本来の自己に目覚めること、そこに一つの神、神そのものをも必要としない仏教の超越性が、普遍性を求めるフィロソフィーと、共通の地平が開けるのではないでしょうか?私は、武田先生のいう主観性の知の問題と関係すると思い、仏教徒としての私の考えるブッタの思想に関する私見を申し上げました。この考えが妥当するかどうか及び、他の普遍宗教については、わかりませんが。
3) 最後に先生のフィロソフィーでは、「対立」がキーワードと考えます。私も共鳴しておりますが、宗教では、「対立」は必ずしも必要ないと思うことがありま す。例えば、親鸞や良寛の思想、親鸞でいえば「自然法爾」という思想がありますね。親鸞思想の到達点と言われておりますが、対立を超えたところに宗教的な救済があると思うのです。フィロソフィーと宗教の違いかもしれません。親鸞を敬愛する武田先生は、如何に考えられますか。
専門用語を多く使いましたが、武田先生フォローして頂ければ、幸いです。
内田卓志
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武田=>内田
お応え 武田
内田さん、 共感、嬉しいですが、
「世俗の価値を否定しない武田哲学」という点が3)の質問とも関係しますので最初にお応えします。
わたしは、世俗の価値を「否定」しませんが、世俗の価値と「対立」することは多々あります。「対立」することではじめて「一面的な世界」が変わります。対立がないと、のっぺらな平板で、同一の価値観で染め上げられたエロースのない世界に陥ります。それは、人間を幸福にせず、灰色で淀んだ空気を生むだけです。
善美への想いを座標軸として日常を生きると、世俗の価値と一致しないことがありますが、その時は、明確にその理由を述べ、「対立」することが必要です。その営みなしでは、世界は色づかず、活気づきません。これは人間的なよき生の原理なのです。
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では、1)について。
竹内芳郎氏の超越性の概念は、「宗教に限定したもの」ではまったくありません。
わたしが27年前に企画し主宰した我孫子市民会館での講演会『盗まれた自由』(1988年10月9日)の模様は、『ポストモダンと天皇教の現在』(ちくま書房刊)の冒頭論文になっていますが、そこには以下のようにあります。
「日本人の集団同調主義に対するに『個人の自立』は大切だが、それだけでは不足で、『超越性の原理』をもつことが必要だ。それは世俗の価値を相対化する原理なのだ。」(要旨)と述べ、超越性原理をもって現実を生きることの必要が力説されています。
そこから強い超越性原理をもつキリスト教への高い評価が出てきます。
したがって親鸞思想を評価しつつも、超越性の程度において劣ると言います。阿弥陀仏という人格神を絶対神として立てているが、その思想は法然という人間への信頼→帰依であり、中途半端である。キリスト教は、「生き生きとした人格神を絶対他者=超越者として定立する」ことにおいて徹底しているゆえに世界的な普遍性をもった、というのが竹内芳郎氏の見方です(詳しくは『意味への渇き』5章D)。
以上のような宗教の見方と価値評価は、いまでは有用性があまりないと思います。人間の生のありようを宗教表象を基にして考えるということ自体にわたしは賛成しません。そういう役割を宗教がもった時代はすでに終わっています。
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次に2)ですが、
わたしの「私の善美への憧れを座標軸」に生きるというのは、生活世界の中に「善美」を見たり感じたりすることですが、それは、子育てをする中で、あるい は、他者との会話の中で、あるいは、音楽を聴き、絵画や彫刻を見る中で、あるいは、本を読む中で、あるいは写真を撮る中で、あるいは散歩する中で、感じ知 ることを基に思考して得られる視座です。
その中に、仏典や聖書を読むという営みが入ってもよいわけですが、それらが特別な地位を占めることはありません。宗教書もさまざまな体験・経験の中の一つに過ぎません。
わたしの場合は、とりわけ幼子→こどもたちとの交流の中で見聞きすることが深い思考を誘発し、善美への新たな視座が開けることが多いです。なまの経験が頭を刺激するのです。また、音楽を聴きながら思考することもありますし、いつもの手賀沼遊歩道での散歩中に新たな見方・考え方・生き方の発見もします。
ブッダの内在的普遍性の追求→到達点と、わたしの恋知との異同についてのご質問ですが、それはどうでしょうか。何が同じで何が違うかは、判然としません。 わたしは釈迦の思想や親鸞の思想にも感じ入ってきましたが、直接わたしのフィロソフィと関連させようという考えはありません。
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では最後の3)です。
「対立を超えたところに宗教的な救済があると思うのです。」(内田)
と言われるときの心=意識=精神は、宗教的な境地でしょう。
わたしは、人間の現実(もちろん理念やロマンの世界などの非現実を含みますが)について話しています。人間は言葉により世界を分節化し、意味づけ、思考していますから、「対立」は意識するとしないとに関わらず必然です。明暗、軽重、動静・・・・という事象をから、善悪、美醜・・・という価値を表す言葉、男と女、こどもと大人、生徒と教師、すべて「対立」する言葉です。
対立がなければ世界はのっぺらぼうです。現実の人間関係でも、こどもの言い分と大人の言い分は食い違いますし、社長と社員の言い分も異なることが多いでしょ うし、男と女の意見の相違は永遠(笑)でしょう。そういう対立があるから世界は動き、色づき、活気にあふれ、立体化するのです。対立を恐れたら、生気のない死んだ世界になってしまいます。否定は元も子もなくしますから困りますが、対立は何より大切です。
武田康弘
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内田=>武田
武田先生
お答えありがとうございます。少し考えてまたメールします。武田哲学と宗教の差異性が分かりました。
以下の点を確認できました。
1)竹内先生の超越性原理について承知しました。(解放の神学を高く評価していました)
→宗教の原理を人間の生の原理に適用するのは反対、有効ではない。
2) 先生の「私の善美への憧れを座標軸」に生きるというのは、生活世界の中に「善美」を見たり感じたりすること、子育てをする中で、あるいは、他者との会話の 中で、あるいは、音楽を聴き、絵画や彫刻を見る中で、あるいは、本を読む中で、あるいは写真を撮る中で、あるいは散歩する中で、感じ知ることを基に思考して得られる視座でということである。哲学書を読んだり、宗教書を読んだりするのもその経験の一部分であり、特別な位置をしめるものでない。
3)人間の生の現実において、「対立」は必然であり、必要なものである。対立があるから生活世界のダイナミズムがある。対立がなければ、生気のない死んだ世界となる。
以上の1)2)3)により、武田フィロソフィーと、宗教や宗教の論理との相違を確認できました。それは、人間の生の現実において、よく生きるための知について、またよく生きるための方法についてのことでした。もはや、生身の現実社会の中では、宗教的な超越性原理の有効性はなく、それとは異なる普遍性の探求こそ必要ということだと思います。私は、この提案は非常に重要なことと思います。現実の世界は、宗教紛争や民族紛争が基に、目を覆うばかりの悲惨や悲劇が繰り広げられています。そこから脱出するヒントがあるかもしれません。
※私はブッダの「自帰依」の思想は、主観性・個人の尊重を基にしており、私見として、武田先生の主観性の知の思想に近いものを感じています。→私が引き取って考えていきます。
内田卓志
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内田=>武田
武田先生
インタヴューの続きです。
最近は、プラトンを30年ぶりに再読しています。ちょっとですが。納富信留教授の『プラトン―理想国の現在』も読んでみました。さすが納富教授、素晴らしいプラトン論のひとつと拝読しました。
そこで、質問します。プラトンが、『ポリテイア』で主張している「イデア」についてです。この著は、日本では「国家」と訳されていますが、かつては「理想国」と訳されていたようです。
プラトンは、武田先生に最も影響を与えた人ですね。
そのプラトンの国家編でプラトンは、イデアについて主張します。イデアは、ある絶対的な超越性を言っていると思います。先生は、超越性原理を批判されますが、その文脈の中での「イデア」について教えてください。 その意味とその役割について。イデアを絶対的な超越と考えると武田哲学とは、相いれないことになるとおもうのですが、如何でしょうか。
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武田=>内田
内田さん、
そう、「理想国」なのです。プラトンは、「ポリティア」の最後に、今まで書いてきたことは紙の上の話である、と明言しています。まさに、紙の上の「理想」であり、思考実験です。
また、「イデア」を絶対的超越と読むのは、キリスト教を常識とした16世紀に始まる近代の西ヨーロッパ人による読み方です。日本の学者もすべてそれにならっていますので、同じです。
イデア論は、唯名論として見れば、現代では言語論の常識であり、すんなり理解できるとするのが、わたしの考えで、そのような読みにより武田思想は成立しています。
プラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」とは読めません。「絶対的真理」とは異なる「普遍性の探求」として捉えないと、古代ギリシャのフィロソフィとキリスト教−−大きく異なる思想を同一のものとする愚を犯してしまいます。
そうなれば、近代の西ヨーロッパのキリスト教化された哲学の見方で、ギリシャのフィロソフィを知ることになるわけです。
なお、わたしとソクラテスの行為(プラトンの著作)との関係についてですが、
ソクラテスを知った後で、わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学する営みが先にあ り、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。プラトンの著作を読んで、今のわたしの思想があるのではなく、いまに役立つように使用してきたのです。
プラトンの後期はピタゴラスの神秘思想の影響で難しいものとなっていますが、それについての解釈は別の人に譲ります。わたしの興味の埒外ですので。
武田
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内田=>武田
武田先生
『わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。』
先生の発言は、私には誠に羨ましいかぎりです。私には、このような体験が無いので最初は信じられなかったのです。まず本を読んで勉強した後に気づいたり、考えたりして、世界の見かたが変わる。つまり視線が変わることはあります。その上で考えてみて、実行したりします。私は、この繰り返しです。
私が、先生のような思考の訓練をしてこなかったせいなのか。理由は、分かりません。その意味で羨ましいのです。「哲学する営みが先にあり」との発言を信じるしかないのです。理由を少し述べます。
私は、10年以上白樺教育館の仕事を見ていますが、さて学問の研究家に「このような仕事ができるかな」といつも思うのです。教育論のところで詳細を語って頂きましたので、ここでは省略します。
ただ、一人で、40年こつこつと自らの思想に基づく教育活動により、生活を建てていることが凄い。このことは、特に強調しておきたい事実と思います。
私も優れた研究者の方々に接する機会がありました。研究者は文献を正確に読み緻密に解釈して、自らの考えを表現します。「初めに文献ありき」、ということで しょう。文献学的な知のあり方や使い方では、白樺教育館の維持は困難だとわかったのです。どちらが、優れているとかいっているのではなく、白樺の活動を行おうとすれば、そのような文献学的知の使い方は、むいていない、効力が少ないということです。「自分で自分の経験を基に考える」営みから導かれた、フィロ ソフィーに基づき子供に対峙し交わる。私は、その活動の成果を見ていますので、信じると申し上げるのです。つまり、学問の世界と具体的な経験の生活世界とでは、知のあり方、知の使い方が、異なるということでしょうか。
武田先生の主張するフィロソフィーは、学問ではないので、非学問的な知恵に支えられているのですね。 (内田卓志)
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続けて、
次にプラトンのイデア論のこと。
先生のお立場は、「絶対的超越」と読むべきではない、イデア論は、唯名論として見れば理解できるとのことですね。そのような文脈の上に、武田先生の思想は成立していると理解しました。
プラトンのイデア論は、いまだに議論のあるところで学問的にどう理解すればよいのかは、分かりません。後期プラトン哲学は、先生もご存じの通りイデア論を否定しているとも解釈されます。この問題は、学者におまかせしましょう。
ただ、私もプラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」と理解すべきではないと思います。自らの不知を最も自覚したソクラテスが、絶対的な真理を追い求めるのは、言語矛盾のようにも感じます。それよりソクラテスは、普遍性の地平を探求していたという先生のご解釈のほうが私には、「ピン」ときま す。先生は、プラトンいうイデアは、あくまでも「理想」(追い求めても離れていく存在、どこまでも到達できない場所)を語っているので、それを絶対的超越とか超越性原理と考えることはできない、というご主張だと分かりました。
フェイスブック上でも、先生へのインタビューから対話が始まっているようですね。私も楽しみです。
内田卓志
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武田=>内田
内田さんの実存的な話しが入り、対話が前進しました。嬉しいです。
まず、わたしが哲学へ向かった動機を記します。
なんで、皆、つまらない顔をしているんだろう?楽しそう、とか、嬉しそうではなく、曇った顔をしている。生き生きしている人は少ししかいなくて、かたい顔、濁った顔が多くて、魅力のある人は少ないな。
小学生のわたしは、学校でも街でも電車の中でも、つまらない顔をしている人が多いのが疑問でしたし、嫌でした。
それが人間の生き方を考える一つのキッカケとなりました。どのように生きるのがよいのか?何と、どう向き合って生きるのがよいのか?どんな態度で生きるのがよいのか?楽しく、イキイキと、よろこびの多い生き方、意味の濃い、深く納得できる生き方、それは何か?どう考えればよいのか?そう思い、悩み、考え、試して、対話して、という人生は、そのようにして始まったのです。幼いころから、父への質問は毎日のようでしたし、友人との話も、意味や価値を問う内容で、知らずに、フィロソフィの毎日だった、というわけです。
だから、書物もよく読みましたし、これは、と思う本は、書き込みをしながら熟読しました。中学2年生の時にお小遣いではじめて買ったのがヤスパースの『哲学入門』でしたが、感動しつつも、賛成できないと思うところもありました。
書物は書物としてしっかり読み、わたしが思考する訓練や手助けとしましたが、哲学書が真善美の基準になることはなく、ある考えが、【私の赤裸々な精神= 頭と心身の全体で感じ知る現実】に如何に応答するか、それが基準なのでした。『聖書』などの宗教書は真面目に読むほどに、その独特の雰囲気=超越的思想に嫌気がさし、わたしの宗教(一神教)嫌いを決定的にしました。イエスその人への評価とは別の話ですが。
また、それと同時に、真理とは何か?どのように考えるのが「正しい」のか?という純哲学的=学的追求も執拗なまでに(笑)行いました。認識論の原理としての現象学です。
簡単ですが、これが、内田さんの最初の質問へのお応えです。
10.「学問的」ということと「自分で考える」ということ。
次に、フィロソフィの本質に関わる核心点についてお応えします。
【学問的・文献学的】と【非学問的知恵】という区分けについて。
内田さんは、思想や哲学について、【学問的・文献学的】と【非学問的知恵】という区分けをされましたが、大事なことなので、確認します。
ソクラテスは、話しことばによる問答的思考で、本を書かず文字を残しませんでしたので、彼の知的営みは、文献学的・学問的とは言えません。
またインドの釈迦の解脱、自帰依−法帰依の思想も文献学とは無縁で学問的ではありませんでしたし、イエスの既存の世界の常識を覆して新たな世界を拓いた言辞行為も、少しも学問的ではありません。
近代の西洋哲学の始まりはデカルトですが、彼の有名な『方法序説』は、書物を捨てて体験に基づいて考えることを宣言した本で、まったく文献学的ではなく自説を述べた本ですので、少しも学問的ではありません。
また、『社会契約論』を書き近代民主政の原理を提示したルソーは、恋愛小説家として知られ、家庭教師もして生計を立てていた人で、社会思想の研究者ではありませんでした。『社会契約論』は、新しい社会原理のアイデアを打ち出した書で、文献学的ではなく、これもまた学問的著作ではありません。
それらはみな「文献学的・学問的」でないのですが、彼らの本を研究する今の学者の営みは、文献学的・学問的です。そうすると、人間の生き方を考察し、新たな人間観や社会観を示した人や書物は、非学問的で、彼らの本や人となりを研究するのが学問的だと言うことになります。
思想や哲学においては、「文献学的・学問的」というのは、過去の人や書物の研究ですが、それが思想や哲学という営みの中心・本体なのでしょうか?思想や哲学の中心・本体は、過去・既存ではなく、未来に向かう精神から生まれる知的営みではないでしょうか。飛翔するイマジネーションによる思考こそが思想や哲学 の中心・本体ではないでしょうか。
わたしが思うに、思想や哲学の中心となる営みは、学問的というのでなくて、ストレートに【知的】なのです。
ここで、ひとつ大事な知識を披露しますが、知的という「知」とは、「知恵」という意味に限定されません。知識と知恵を分けてしまうのは、分類好き(分類趣味)のアリストテレスによるもので、ソクラテスとその弟子のプラトンには、知識と知恵を分ける考えはありませんでした。知的とは、よくみなが言う「知識」 と「知恵」の双方を合わせた概念なのです。わたしの言う「知」とは、そういう意味の「知」です。
思想や哲学の営みは、【知的】なのであり、学問的なのではありません。過去に囚われた文献学ではないのです。過去は手段とてあり、中心・本体は、未来への豊かなイメージに支えられた今なのです。
以上は、核心中の核心(原理中の原理)と思います。
武田康弘
内田=>武田
「思想や哲学の中心・本体は、未来に向かう精神から生まれる知的営みで、飛翔するイマジネーションによる思考にある。その活動や働きは、ストレートに知的である。」
−− 何だか、サルトルを想い出すような感じです。サルトルは、かっこよかったですね。
プラグマティティストである武田先生は、そのような思考の実践活動として、白樺教育館を立ち上げ、運営してこられたのですね。「思考は行為の一段階である」ということでしょう。
そこで、ストレートに伺います。私たちは、毎日毎日、考えそして行為しています。
それが生活であり、人生があります。人によって濃淡はあるでしょう。ただ、私のような市民が、フィロソフィーに望むことは、如何に生活や仕事や人生にフィロソフィーをフィロソフィー的な思考を活用できるのかということです。飛翔するイマジネーションによる思考、というと私にはちょっと難しいように感じてしまいます。
また、先生がよくいわれる問題、「イメージやイマジネーションが先にあり言語が先にあるのではない」
人間の認識に関わる問題と思いますので、簡単に説明いただけますか?
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武田=>内田
内田さん、問題が核心に迫りました。お応えします。
白紙に戻して見る、大元を探る、「〇〇とは何か」を知ろうとする、というのは、人間がみな持っている知的好奇心で、それがフィロソフィですから、解き方だけ知ればよい、とか、丸覚えでその場を乗り切ろうというのではなく、「考えてみよう」「意味をつかもう」とする頭の使い方は、フィロソフィです。
それは、内田さんの言われる通り誰でもしていることですが、フィロソフィとは、それを自覚してするだけのことです。それをしないでまるでオートメーションのような頭の用い方をすることも多々ありますが、いったんストップをかけて元に戻して考える習慣をもつ人は、豊かな世界を生きることができて「得」をする し、それは「徳」につながっている、と思います。
今までの既成の見方や価値観に囚われることが減り、頭が自由に動き、言葉と行為に幅と深みと面白味がでるのですから、どうころんでも生活に仕事に自ずと役 立つのではないでしょうか。わたしの人生はわたしにそう教えます。まさに「未来へと向かうイマジネーションによる思考」です。
しかし、ふつう、哲学と言えば、固い・重い・暗いというイメージをもたれることが多いです。なぜでしょうか。考えたり意味をつかもうというのが特別なことで、重苦しいイメージとなるとは不思議なことです。
それは、古代アテネでは、フィロソフィは、エロース=恋愛をキーワードにしていたのに(プラトンがつくった学園「アカデメイア」の主祭神はエロースでし た)、それを後のキリスト教が「エロース」を邪なものと考え、人間は原罪を負っている存在とし、「アガペー」という神への愛が大切だとしたことに起因して います。
キリスト教のローマは、フィロソフィを禁止し(「アカデメイア」は廃校)かわりにキリスト教神学によるスコラ哲学をつくりましたが、16世紀にはじまる近代哲学はスコラ哲学の改革ですので、キリスト教への信仰と理性的な人間精神の探求の無理な統一をはかることになったのです。
日本も明治になり、西ヨーロッパの近代哲学を直輸入にしたので、フィロソフィ=恋知は、固く重く難解なテツガク=哲学となっています。そこからの脱出が必要だというのが、わたしの考えであり主張です。
イマジネーションについてのお尋ねですが、
それは、幼子を見ればよく分かります。言葉が使えない1歳の子は、感動的としか言い得ないスピードで日々、世界(自分を取り巻くもの)を認識します。
その認識は、感覚とイメージに基づいています。それが先行していて、膨らんだイメージによる認識は、2才ころから言葉を観念の道具として用い出すことで明確になるのです。言葉を魔法のアイテムのように使います。
だから、わたしたち大人も、出来合いの言語がつくる意味とイメージに囚われずに、世界を言葉の介在なしに直接見る練習が必要です。いわば始源−白紙に戻して世界を感じ知ろうとするのです。街中でも自然の中でも芸術作品を見たり聴いたり触れたりする中でも、言葉を介在させずに、そのまま見る・聴く・感じるの です。そういう練習がとても大切で、それを意識して行うことがフィロソフィの基盤となります。言葉で明確化された認識を、再び始源に戻してみるわけです。
「飛翔するイマジネーション」とはそういうことで、特別な話ではありません。大人が幼児の思考を取り戻す作業を意識的にしてみる、というわけです。
最後に逆質問ですが、内田さんは、わたしをプラグマティストと規定しますが、そうなのですか?
哲学という科目に囚われないで、自らの具体的な経験に基づき、自由に本質的に思考する、世俗の権力や権威とは無縁に思考する、誰も何も特別視せずに堂々と思考する、というのがわたしのフィロソフィなので、それをわたしは「恋知」と名付けていますが、「プラグマティスト」という規定でよいのでしょうか。
武田康弘
内田=>武田
武田先生
社会と政治の前に回答と現象学のことをちょっと質問をします。
ちょっと長くなりました。よろしくお願いします。
...
以下回答と質問です。
まず、私へのご質問からお答えします。私が、プラグマティストといっている人は、先生が主張されているフィロソフィ、そのようなフィロソフィをする人、行う人のことを個人的に広義に解釈してそう呼んでいます。
ご存知のように、一般的には、哲学史でいうところの「プラグマティズム」の哲学者、パースやジェイムズやデューイらを代表的なプラグマティストといっています。
また、プラグマティズムという言葉が、ギリシャ語に由来しており、パースは、カントを学び、そこからつくった概念だとか本には書いてあります。
プラグマティズムでは、「思考は行為の一段階である」と考えます。思考だけでは不十分です。「行為する・活動する」ことが大切です。私は、「フロソフィす る」こととして、具体的な経験の場面で、思考の作用が何らかの行為や働きとなって表れてくることを強調したいと思います。
以上の意味で私にとって武田先生は、正に「プラグマティスト」です。武田先生は、皆さんが認めるように、ダイナミックな方ですよね。よって、私の中でのプラグマティストとは、ジェイムズやディーイを学んでいるとか、その学説を支持する人などの意味ではないのです。
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そして、盛りだくさんのご回答を頂きありがとうございます。キリスト教やスコラ哲学までも触れて頂きました。
白紙に戻して見る、大元を探る。そうすれば今までの既成の見方や価値観に囚われることが減り、頭が自由に動き、言葉と行為に幅と深みと面白味がでる。生活に仕事に自ずと役立つ、それが先生のおっしゃるフィロソフィですね。
事物を白紙に戻して見る方法にも言及されました。それは、感覚とイメージによる認識といわれます。−−−「出来合いの言語がつくる意味とイメージに囚われ ずに、世界を言葉の介在なしに直接見る練習が必要です。いわば始源―白紙に戻して世界を感じ知ろうとするのです。街中でも自然の中でも芸術作品を見たり 聴いたり触れたりする中でも、言葉を介在させずに、そのまま見る・ 聴く・感じるのです。そういう練習がとても大切で、それを意識して行うことがフィロソ フィの基盤となります。」(武田)
以上のようなことは、大人の私にとっては難しいことです。先生がいわれるように、大人が幼児の思考を取り戻す作業を意識的にしてみること、練習してみることは、まことに必要なことと思います。
私は、美術館や博物館で芸術作品を見たとき、その作家の名前で作品の価値を判断していないか? 私は、コンサートに行き音楽を聴いたとき、その演奏の良し 悪しを演奏者の社会的評価で判断していないか?日常の生活で、無意識に色眼鏡をかけて人を見ながら、その場その場の出来事に対応していないか?新しい仕事に携わりチャレンジが必要な時に、必要以上に過去の慣習に囚われていないか?
先生のいわれるように行為してみると、日常の生活に仕事に、具体的なレベルでどのように役立つのか、その実感は正直いって今はありません。直感的に、必要 な行為だと分かります。意識して、練習してみましょう。ただ、この練習は毎日毎日絶え間なく行っていく行為です。大人の私は、言葉の世界にどっぷりと浸 かって生きています。きっと練習の成果として、事象を白紙の気持ちで真正面から見ることが可能になるでしょう。その行為が、常に反射となって習慣化、日常化したとき世界が変わって見えるかもしれません。
私は、武田フィロソフィによって、生活の具体的経験の場における対象への見方や振る舞い方を学びます。地味な行為と思いますが、積み重ねて行くしかないでしょうね。このような方法論的な話は、大学の哲学の授業では聴けないし、哲学の本にも書いていません。
先日白樺教育館へ行きました。30年以上前から武田フィロソフィと共に歩んだ方々とお会いしました。なぜそんなにも長い間、フィロソフィを介して交際ができるのだろうと素朴に思います。そこに武田フィロソフィの秘密があるのでしょう。
伺ったことに関連してちょっと伺います。私は、このような認識方法をもちいるとき、現象学の難解な論理を具体的な経験や現実の生活の場に、活かしいくこと に繋がると思いました。私は、現象学についてほとんど分からないのですが、そう直感しました。武田先生は、現象学との関係でどのように考えておいででしょ うか。
内田卓志
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武田=>内田
内田さん
はじめに、現象学へのご質問にお応えします。
青白く見える、ギーギーという音が聞こえる、ベタベタしている、というような、直接的に与えられる感覚所与を「内在」と呼びます。
それは、わたしにとって動かしがたい感覚ですので、それを疑うことはできません。内在として与えられたものは、認識の究極の基盤です。
青白く見えたものを、別の場所で見たら紫色に見えた、ということはありますが、その時にそのように見えたという感覚=内在的知覚は絶対です。
その内在としての知覚こそあるゆる人間認識の最後の拠り所であることの自覚、それが現象学の核心であり、認識論の原理中の原理です。
具体的な事物、例えば、机とかカバンという認識は、それがもしかすると机やカバンとしてつくられたものでない可能性が残りますので、「疑える」のですが、内在として与えられた感覚与件は「疑うことに意味がない」=疑えないのです。
これがフッサール著「イデーン」Tー 1(みすず書房刊)の第2章46「内在的知覚には疑わしさがないこと、超越的知覚には疑わしさがあること」の意味です(超越的知覚とは、机やカバンという認識のこと)。
この簡明な認識論の原理(「内在」)を明晰にすること=深く自覚することが、フィロソフィの最大の眼目だとわたしは考えてきました(20数年前の小論文に記載)。
なぜなら、幼いころから記号(数字や言語)の操作を優先する学習を強いられると(現代の「優秀者」にはそのような人が多い)、内在としての知覚が希薄にな り(そのことを本人は自覚しない)、認識は、人間の健全性や有用性から離れてしまいます。数字や言語が先立つ紋切型となるからです。しかも「記号ないし言 語至上主義」という歪みを自覚できずに、それが却って己の優秀さの証だとさえ信じ込みます(いわゆる「東大病」)。
これは心身全体での会得=五感をフルに用いての健全な認識と対極です。観念主義=様式主義=型ハマリ=デジタル的な白と黒という認識を「正しい」「優れている」と思い込むのですから、とても困った「現代の病」といえます。
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まず、なぜフッサールの認識の原理論(現象学)を自覚することが大切なのかにお応えしました。フィロソフィの原理(=土台)である認識論を明晰化するのはフィロソフィ(人間が物事を元から考えること)の前提ですので。
次に、ご回答とご質問の全体についてまとめてお応えします。
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もともとフィロソフィとは、持ち運べるような「真理」の体系ではなく、元に戻して(幼児の目で)世界を見直すという実践をさしますので、生活世界の中で有用に考える実践をするという意味では、【プラグマティズム】と言えるでしょうし、また、どこまでも「私」の内在から世界を見、知るのですから、【超越論主 義】(フッサール現象学)とも言えますし、「私」の意識を原理とするのですから【実存主義】とも言えますし、無意識領域までも意識化しようとするのですか ら【構造主義】とも言えます。
また、「私」の想像力に基づく思考を基底に置くのですから、必ず「個人」という概念を必要としますので【個人主義】でもありますし、それを可能にするには 民主的社会(互いを対等な存在と見なし自由を相互に尊重し合う社会)を要請しますから、【民主主義】者でなくてはなりません。
いま、強調するためにあえて、〇〇主義、とか〇〇主義者と書きましたが、ほんとうは、フィロソフィと、「主義」や「宗教」は相いれませんので、「主義」では なく「論」と言うのがよいのです。特定の見方や立場に囚われずに、柔軟で自由な見方がフィロソフィの本質ですから、特定の政治思想、例えば、明治政府がつ くった靖国主義を前提にする思想とは次元を異にしますし、靖国主義のようなアナクロニズムでなく、進歩的と思われる思想にしても、それを「主義」として固定してしまえばフィロソフィとは言えません。フィロソフィは政治運動でも宗教運動でもなく、「私」が自他の人間性を肯定して内からの悦びや輝きをもって生きるために必要な最も人間的な営みだ、とわたしは思いますので、わたしは自覚的なフィロソファーであり、同じことですが、恋知者です。
というわけですから、フィロソフィとは、ある意味では確かに内田さんの言われる通り、「地味な」行為=活動でしょう。しかし、その地味な営為は、「すべての有を支える無」とも言えますし、根源的な問い=フィロソフィなくしては、どのような人間の活動も意味を持たない=意味付かないのですから、すべてを支える大地であり、すべてを包む海であり、すべてを輝かす太陽でもある、と思います。人間が人間として生きる(特定の職業人としてではなく、特定の宗教者としてではなく、特定の主義者としてでもなく)ためには、何よりも必要な営みではないでしょうか。
「日本にフィロソフィなし」と言われますが、それは、残念で、危険で、愚かで、不幸なことです。
武田康弘 2016年3月8日