【武田哲学の芯に迫るためのインタビュー =質問 内田卓志】の続き、その2.です。
なお、最後に付録として《強く安部首相を支持する若者(女性)とのネット対話ー「教育の本質論」 について。》を追加しました。
その理由は、この女性のとらえ方が実は多くの人に共通するつまずきでもあるからです。
【わたし固有の内的世界】=【わがまま・好き勝手】 という勘違い。
じっくりお楽しみください。
4.ほんとうの教育とは?
5.意味論抜きの事実学(パターン知)の累積は、死に至る病
付録:強く安部首相を支持する若者(女性)とのネット対話ー「教育の本質論」 について。
以下は、前頁【武田哲学の芯に迫るためのインタビュー =質問 内田卓志 2.】の目次。
1.武田哲学の芯に迫るためのインタビュー =質問
2.実存とは何か?
3.差異と対立の違いは? 否定ではなく、対立を。
なお、終了したらまとめてPDFファイルを作成する予定です。
内田=>武田
それでは、また続きを伺います。
「対立」とは?よくわかりました。先生の実存概念は、決して過激なものではなく、徹底的・根源的な、まさにラディカルです。私にはよくわかります。
かつて私は、ヤスパースの実存哲学を学びました。ヤスパースの実存哲学に、「実存的交わり」という概念があります。交わりとは、英語のコミュニケーショ ン:communication(ドイツ語だとコムニカチオーン:Kommunikation)をさします。その実存と実存の交わりは、「愛しながらの闘い」だともいうのです。私は、ここでヤスパース哲学の解説をしたいのではなく、ヤスパースのいっていたことが、先生がいわれている「対立」という行為を通 して、私の記憶の底から立ちあがってきたのです。
それでは、そろそろ教育の問題に移らせて頂きます。先生は、40年ぐらい私塾を通じ教育の現場に携わって来ておられますね。先 生の教育の理念を伺いたいところですが、話を具体的にさせた方がよいと思います。そこで、今の学校教育と白樺教育館の教育の違いからお話し頂きたいと思います。その方が、具体的な教育の現場の経験から、教育における主観性の知の意味について一層理解できるように思います。如何でしょうか?
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武田=>内田
わたしのフィロソフィと実践を踏まえた教育論は、いろいろな雑誌や本またblogにずいぶん書いてきましたので、まとめると一冊の本になりますが、核心をいくつか。
まず、何よりも機械的な学習は最悪です、『公文式』はその最たるもの。反復して覚える九々にしても、意味(かけるというイメージ)を頭に浮かべての反復が絶対であり、単なる数字ー記号としての丸覚え=機械的反復は、ナンセンスの極みです。
もうずいぶん昔にアメリカの教育省は、公教育に『公文式』を使うことを禁止し ましたが(教育省の追跡調査で、公文式を採用した学校の卒業生は創造性に欠けるという結果が出たので、とNHKの番組が詳細に伝えていました)、わたしの 教室でも『公文式』をやっていた子は、機械的に算数をするために、文章題の意味を捉えることがひどく苦手です。はじめから『ソクラテス教室』で、生活経験 やその子の興味と重ねて「意味が分かる算数」を勉強した子とは、頭の構造が根本的に違ってしまいます。
算数に限らず、知的教育は、丸暗記とパターン認識(それはコンピュータの方法)ではなく、自分の頭で意味を捉える力の育成です。学習において【意味】を了解し、つかまえる方法を身に付けなければ、一人の人間としての精神的自立は得られません。これは、知=頭脳の原理です。意味論なき事実学の累積は、事実人(犬でも猫でもなく人という種ではあるが人間的な意味をもった「私」を生きられない)しかつくりません。学業成績(テスト知)が極めてよい子の多くが、他者(権威者や権力者)に操作操縦される優秀な!?「事実人」に陥っているのが現実です。実に恐ろしいことです。
音読でも、スラスラとアナウンサーのように読めることを目標するのはバカげた話です。文脈にそって意味を捕まえながら、また、情景を思い浮かべながら読むこと、論理的な意味把握と、感情移入が何よりも大切です。つっかえたり、かんだりしてよいのです。スラスラを心掛けるのは、頭を悪くするだけのことなのです。
また、理科は、 伝えたいことの核心の意味が示されずに、凹凸のない知識が羅列され、それを覚えるだけなので、子どもが興味の持ちようがなく、教科書や副教材を見ているわ たしも苛立つことが多いですが、学校の教師もこれでは苦労するでしょう。さらに、直接経験が少ないことも大問題です。「白樺教育館」の屋上に設置している 望遠鏡(口径21センチ反射赤道儀)で月面や惑星面を見た感動は驚きの声で分かりますが、いま、直接に、という経験抜きに机上の学習をするのでは、知は干 からびたものにしかなりません。また、海に潜る経験、毎年の式根島のでのキャンプ&ダイビング(今年で40回目)は、「得難い経験をさせてもら い、先生にほんとうに感謝しています。」とOBや父母のみなさんから口を揃えて言われます。
社会科は、有名人の暗記で、生きた人間の営み=自分たちの今の生とは無関係です。出てくるのは〇△天皇という名前が中心で、明治政府がつくった「天皇史観=偉人史観」のまま。庶民は付けたしの存在扱いです(笑・憤)。
近代史は、例えば、伊藤博文は初代総理で明治憲法をつくった偉人とされますが、英国公使館に放火し全焼させたこと、暗殺者であったこと、大金を横領したことなどは一切触れられませんので、偏ったイデオロギー教育になり、真実がもつ面白さ、多面的な世界の不思議はすべて消されています。平面羅列で知が立体化しないのです。意味の分からない丸暗記ばかり。いつまで続く〜〜〜。
わたしの教室で歴史に興味を持ち、成績もよい子は、マンガ『日本の歴史』『世界の歴史』(白樺教育館の蔵書)の愛読者だった子です。ついでに、現代史=戦前の日本を学ぶのに最適なのは『はだしのゲン』(蔵書)です。著者の体験談は、建前のウソではなく、ホンネと真実のもつ迫力が実に面白いのです。公民はその最たるもの。
お題目、表層的、建前、ごまかし、騙(だま)し、では、人間としての自信とよろこびをもつ子、ほんとうに優れた子が育つはずがありません。せいぜい偽善者が育つだけ。
次に人間教育です。
政府が行う道徳教育と呼ばれるものは最悪です。フィロソフィ(恋知)の実践教育こそが必要なのです。政府文部省が介入する「道徳」とは、背後に特定の思想を必ず隠し持っていますので、本質的に占脳=染脳教育以外にはなりません。これは、特定の政治勢力(自民党の文教族)が行う教育では決して避けられないことで、反教育=ダメ教育の見本です。
人間を育てるどころか、人間の可能性を狭めて型にはめるだけのことです。「道徳教育」とは非・人間教育でしかありません。自分の経験を踏まえて、種々の情報を吟味し、自分の頭で考えたことを自由に交換・交感するフィロソフィの実践教育こそ、大きく深い【民主的倫理】をもった子=人間を育てるのです。
アメリカのマシュー・リップマンとその同伴者たちが全米の公教育で実践してきた「6歳からのソクラテス教室」や、フランスの公立幼稚園で行われている「幼児の哲学教室」などは、極めて示唆に富む実践ですが、わたしの「ソクラテス教室」では、そうした思想−精神で、もう40年間も試行錯誤を続けてきました。「孤立」ですが、栄光でもありますね。
世界の最先端!!(笑)
最後に一番大切な幼児(1歳から2歳くらいの最重要期間とそれ以後)ですが、とにかく、大人の常識に縛られずに(大人が自分のもつ常識を白紙に戻して大元から問い直す営みが一番大切)、【こどもを無条件で愛する】ことが絶対条件なのは言うまでもないことです。その基盤があれば、こどもは深く自己肯定ができますので、どのような困難にも負けず、打ち勝ち、自分自身の人生を歩むことが可能になります。
また、イタズラ、悪さ、おどけ、ふざけ、は何より大切で、「小利口」や「小さい大人」のような子どもにするのは、言語に絶するほどの「悪」です。
以下は、10年以上前に出したものですが、再録します。
お母様、お父様、 教育とか躾(しつけ)と思って子どもの心を抑圧し、歪めてはいませんか。
発育、発達には順番があります。子どもは、十分にふざけ、おどけ、ばかを言い、けんかをし、悪さをしなければ、まともな大人にはなりません。早く大人にしようとすれば、小利口のつまらない人間か、外見だけを整えた偽善者か、心の深部に不満を抱えた犯罪予備者にしかならないのです。
高校生になり、二十歳になって「狂って」いる青年は、幼少期―小学生までの時期に、十分にばかを言い、やれなかった(親や教師によって抑圧された)子どもたちの姿です。
順を踏むこと、「飛ばし」の英才教育をしないこと。これは教育の原理です。子どもは自分でいろいろと試してみる時間的‐精神的余裕を持てないと、主体性を持ち、自分で考える人間にはなれないのです。子どもを「病気」か「ロボット」にするために必死で努力する!?愚かです。
生活=体験=直観に根差した「意味」の分かる心と頭を育てる条件は、子どものありのままの心を受け入れ愛すること、急がずに順を踏むことです。必要なのは、「おどけ・ふざけ・悪さ」を許容し、楽しむ心です。一段ずつ階段を上ること。「飛ばし」をすれば、内的には悦びをもてない人となり、不健康な人生を招来します。
なお、ここで述べた教育思想は、会社での社員教育もその原理は一緒で、応用できます。この前にお示しした『日本オラクル』の初代社長・佐野力の社員教育は、わたしの理念を具現化したものが中心で、わたしのインタビュー映画がつくられ、オラクルの全社員(15年前で1300名)はそれを見てもいますよ。
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内田=>武田
武田先生、長くなりましたが、考えていたインタビュー内容を送ります。
解答のパターンや型を覚える勉強から、「意味」を把握し、理解する勉強への転換が必要ということですね。教科ごとのコメントもありがとうございました。
今のような大学受験中心の勉強方法では、パターン知習得型の勉強は、変わらないようにも思います。今やこのような勉強方法は、中国や韓国にも影響しているようにも見えます。
また、日本オラクルの現場で武田先生の教育論が具体的にどのように活用されたかは、会社員として興味深いところです。
今の大学の現状は聞くところに、一層に企業人材育成組織となっているようです。大学の機能は、如何に会社に役に立つ人材を育てるかにあるのでしょうか?それ とも社会に役立つ人材を育てることにあるのでしょうか?企業は、パターン知的能力を求めているのも事実です。そこを変えないと教育も変わらないかもしれま せん。
暗記力がすぐれ、パターン知習得型勉強法の標準偏差上位者を企業が求めるのです。つまり企業の人材採用も確率論なのです。そのようなパターン知的標準偏差上位者をたくさん採用すれば、まずは外れが少ないということなのでしょうね。
さて、もう少し伺いましょう。私は、子供の教育現場のことは分かりませんので、会社員体験をお話しして、先生のご感想をお聞かせ下さい。私の経験上、会社員に求められている能力は以下のような能力があると思います。
管理職や営業職は除き、事務職・サポート職の例でお話しします。まず
(1)として事務処理能力。
(2)プレゼン能力。
(3)企画立案能力。
(4)リーダーシップ能力。その他
というところでしょうか。
特に(1)は基本的な能力で誰もが直面します。早く、正確に解答する。そしてアウトプットを出す人が評価されます。最近は電卓でな く、Excelを使ってのデータ作成やデータ分析が中心でしょうか。エンドユーザーコンピューティングとかいって、社員がパソコンを使って会社報告用の データの集計やデータ分析を行います。
(1)は、最も基本的な能力で、これなくしてビジネスパースンは勤まりません。
そこで道具になるのは、パターン知的勉強方法で練習した脳と身体というところでしょうか?
(2)もビジネス書を読むとパターン知で解決できるそうです。
(3)以下 は、ちょっとパターン知だけでは対応が難しくなります。そこで道具になるのは、武田先生が目指している意味を捉える勉強ということになると思います。意味など考えている暇があれば、早く正確に解答を出せというのが今の勉強の中心でしょうが、(3)以下には対応は困難でしょう。つまり、「いかに課題に対して問題解決をするか」という能力が問われます。本来は、そこを鍛え深める教育、その勉強方法が求められるのでしょう。
私が京都フォーラムでお会いした、大学の真摯な先生方は、ジョン・ディーイのいった教育哲学(道具主義や実験主義など)を探求し発展させようと、真剣に子供と向き合っている先生も多かったです。
江戸以来の実学を中心とする読み書きそろばんの知識は、ビジネスでは今でも一定の有効性があります。その強力な現代版がパターン知習得型勉強法でありパ ターン知習得型教育ということでしょう。ただ教育は、人生・生活に必要不可欠なものであり、教育の一部分を利用しているのが、ビジネスという行為です。それがすべてと思うのは錯覚です。生活の中での経済的な領域は、最も重要なことです。ただ、人生、生活は長く、経済生活を始め様々なことがありますね。いろいろな問題にぶつかるでしょう。おそらく、その時にパターン知習得型勉強をしてきた人と、意味論的課題解決型勉強をしてきた人とは、大きな差が出るのではと思うのです。如何でしょうか?
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武田=>内田
内田さん、
「武田哲学へのインタビュー」‐7回目は、自問自答になっていますので、お応えは不要〜〜(笑)
もちろん冗談です。では、ハードでとても有意味な「式根島キャンプ&ダイビング」(第40回!)から帰りましたので、お応えを書いていきます。
まず、現代の教育が大企業のビジネスに適合し、それなりの意味をもっているのならば、内田さんも言われる「生活では経済が一番大事」と符合するわけですか ら、このままで「よい」でしょう。大手受験塾が、「東大○○名!」と宣伝する教育が「正しい」のです。さすがは、駅前はどこも進学塾のニッポン! この路線で進めば間違いありません。
だいたい、受験塾で頑張って東大に入ることに失敗した輩がウダウダ言っているだけのことで、彼らは負け犬ですよ。東大から官庁や花形大企業に就職して人々の上位に立ち、リッチな生活をしている勝ち組が羨ましいのでくだらない理屈を言っている。ソクラテス云々とか言ったって、実際の話、それだけのことで しょ。
そのソクラテスは、「魂の吟味のない生活は、生きるに値しない」とアテネ中で振れ回り、ついに逮捕 ‐ 投獄 ‐ 死刑となったわけですから、世の中、逆らっちゃ、いけません。今で言えば、安倍総理など戦前(=明治維新政府のつくった「天皇現人神」時代)からのエリート家系の政治権力者には頭を垂れることが大事、というのがわがニッポン人の常識です(笑)。エリート家系に寄り添いたい人は、「日本会議」に入り、126歳の長寿を全うした神武天皇から125代続 く男系男子の遺伝子万歳!と言わねばなりませ〜〜ん(笑呆)。
逆説的なもの言いはこれくらいにして、では、ストレートに。
確かに内田さんの言われる情報処理の技術知は、必要です。でも、それは、受験優秀校に入るための受験知で養われるのではありません。わたしの周りの子どもや大人を見ると、有用な情報処理や的確な情報アクセスができるのは、受験知で固まった頭の持ち主よりも、直観力に優れた人です。直観力は、豊富な直接経験 (=心身全体での会得)を持たないと育ちませんので、現代の日本(韓国や中国も?)の教育は、どうもこの点でも的外れと思います。
1990年の創設時から10年間の日本オラクル(株)で、初代社長の佐野力さんが、わたしのフィロソフィを役立てたのは (正確には、オラクル社長になる3年前・1987年の日本IBMの子会社・S&I社長の時から) ただの情報処理能力やソフィスティケートされた知力では、新たな世界を切り拓くには不足であり、役立たないと感じ知ったからです。それは、佐野さんの息子が「ソクラテス教室」に通って、わたしの教育思想と実践を知ると同時に、彼自身もわたしの主宰する「哲学の会」の熱心なメンバーとなり、書物での学習と共に、学校教育と政治の改革にも加わり、わたしの哲学と教育と社会活動を目のあたりにしつつ共に行動されてのことでした。
話を戻しますが、内田さんが上げられた3と4は当然なのですが、1の技術的な知にしてすら、「何のため」を問わないパターンの仕込みでは、ほんとうの有用性は持ちません。「私」の人生における位置づけを欠いた技術知や意味論なき丸暗記は、人間を人間にしないために必ず知の堕落を招き、人間をダメにします。 はっきり言えば、なにがしかの精神疾患者か昆虫人間(紋切型で生きる単なる事実人)しか生まない、ということです。
ソクラテスは、「恋愛」(恋い焦がれる心)をキーワードにして自身の原理的思想を開示し、その営みを、〈 恋愛+知 〉という造語で現わしましたが、それが、 ソクラテスによる造語=プロソピア(フィロソフィア)=「恋知」です。その営みを下敷きとして持たないと、「知」とは人間性にとっては何の意味もない 「空中浮遊」に過ぎなくなります。現実とは人間の現実である限り、意味と価値=フィロソフィの世界なしには、【非現実】にしかなりません。
ところが、ネクロフィリア的な傾向をもつ人は、空中浮遊している自身の知=単なる事実学の累積を強引に根付かせるために、ニッポンの伝統や皇室の連綿性という特定の解釈に基づく「物語」を自他に信じ込ませようとします。生身の人間の〈感じ・想い・考える〉ところにつく自然性とは異なるイデオロギー操作=洗脳行為をしないと、空中浮遊の知は消えてしまうからです。絶えざる洗脳教育・情報コントロールが必要になるわけです。五感・心身全体による赤裸々な世界の感得に基づく知とは縁遠い「宗教的」(国体思想)な知です。
内田さんの上げられた2のプレゼンも、パターン知に基づけば、よいとされる雛形にハメられた言説に陥ります。既成の思考と言語使用の枠内でしか発想してい ない「優秀な」プレゼンでは、外形だけ立派で少しも面白くありませんし、深く人の心を打つことで新しい世界を切り開くことは到底不可能です。既存のラングに縛られない心、幼子や詩人のように「言語中心主義」的発想から開放され、想像力による自由で広大なイメージの世界に遊ばないと、新たな言説は生まれません。そこまで企業が求めているかどうかは知りませんが、そういうのびのびとした言葉、種々の囚われから解放された言葉・言説でないと、現実は動かないので す。
最後に人間の生の原理を確認します。
わたしたち日本人の多くがそう信じている「現実」(金、地位、学歴、資格など)が先にあり、理念やロマンの世界は二番目、という常識は、真っ赤なウソであり、それこそヒドク【非現実的】な人間の見方だということです。 この簡明な原事実が了解できないから、何をしようともいつまでも「人間を幸福にしないシステム」から逃れられないのです。
ソクラテスの言う「恋する心の次元」(憧れ想う世界・理念やロマン)がないと、実務的で「現実的」といわれる世界(「恋しない心の次元」)は、意味付かず、価値を持ちません。人間の生にとってはじめにあるのは、「恋する心の次元」なのです。この憧れ想う世界を育てることがないと、人間の教育は「人間の教育」にならず、動物の調教や品質管理と同レベルにまで引き下げられてしまいます。そうなれば、人間性は元から消えるのですから、企業活動に役立つか役立たぬかというレベルの話ではなく、もうおわっていて、すべて論外です。
つづく。
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内田=>武田
それでは、インタビュー続行します。前回の先生の独白?は誠に面白かったですね。本音が出ていましたね。たしかにパター ン知養成機関の受験産業も社会的な必要性があるのでしょう。ただそんなことより、先生が最後に述べた意見には、まったく感動 します。下記に引用しましょう。
『わたしたち日本人の多くがそう信じている 「現実」(金、地位、学歴、資格など)が先にあり、理念やロマンの世界は二番目、という常識は、真っ赤なウソであり、それこそヒドク【非現実的】な人間の見方だということです。 この簡明な原事実が了解できないから、何をしようともいつまでも「人間を幸福にしないシステム」から逃れられないのです。』
『ソクラテスの言う「恋する心の次元」(憧れ想う世界・理念やロマン)がないと、実務的で「現実的」といわれる世界(「恋しない心の次元」)は、意味付かず、価値を持ちません。人間の生にとってはじめにあるのは、「恋する心の次元」なのです。この憧れ想う世界を育てることがないと、人間の教育は「人間の教育」にな らず、動物の調教や品質管理と同レベルにまで引き下げられてしまいます。』
私は、日常の生活に忙殺されていると「恋する心の次元」を忘れてしまいます。怖いことです。仕事でも損得ばかり考えて心身で納得するような仕事のやり方ができているか?不安です。
子供たちもパターン知の詰め込み勉強や、過度な部活活動などで、心身ともに疲れ切っているのではないかと心配です。
また、現代の政治学でも「リアリズム」とい う視点を重要視していますが、果たしてそのリアリズムが本当にリアリズムなのかどうか?疑問ですね。現実主義の陥穽を常に意識して、生活をしましょう。先生がいわれるように、金、地位、学歴、資格などの現実が先にあり、理念やロマンの世界は二番目という思想は、自らの軸を他者(他人や社会)に置くことになります。つまり、自らの主観性も二の次になってしまいますね。これは、主観性を消去する考え方です。
お金は生活者にとっては最も大切なものですね。ただそのお金を稼ぐ「個人」を創るのは、現実ではなく、理念やロマンだということをもっと強調すべきだと感じます。ここのところは、 誠に重要な視点だと考えます。
そこで、白樺教育館に通う子供たちに、先生は理念やロマンということを具体的にどのように説明しているのでしょうか?お父さん、お母さん方は、口では『お金より心だ』といわれる方もおいででしょうが、なかなか子供が納得するように話せないと思います。その点を伺いたいと思います。
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武田=>内田
内田さん、わたしの言わんとする芯を的確にとって頂き、感謝です。
では、お応えです。
善美に憧れる生き方、理念やロマンを育む生 き方をこどもたちに伝えるための特定の技術はありません。
それは、こどもと関わる人が、わたしの場合 なら、わが子と白樺に通う子どもらですが、自らが憧れ想う心をもって日々を生きること、それを繰り返し見せる・示すことです。
その場しのぎであったり、目先の損得勘定であったり、即物的な現実主義の言動であったり、夢や希望や向上心、理念やロマンを抱かずにルーティンワークで日々を過ごした り・・・・・という生き方を大人がしていたのでは、こどもも、せいぜい「小賢しい人間」にしかなりません。
具体的には、生活世界の中で、遠くを見る (無定形の空や雲を見る)習慣をつけることです。これはとても効きます(笑)。
理念やロマンをつくるには、自覚的に善美の世界をイメージする取り組みが欠かせません。自分の抱く人や自然や物や事象への魅力的な像を反復し・変容させ・広げていく営みが、理念やロマン世界を生みだすのです。
こどもたちは、大人の日々の姿をみることで 成長しますから、こどもの教育とは大人の生き方の問題です。
フィロソフィのほんとうの威力は、「言語ゲーム」(ヴィトゲンシュタイン)の枠内にはなく、現実に生きる人間のふるまい、目と顔の表情であり、話し方であり、声の出し方であり、もちろんその内容であり、姿勢であり、歩き方であり、・・・から発せられる善美の輝き・力なのです。それがよいものでないと、言語ゲームは、役に立たないというよりも有害になります。ソクラテスが『国家』の中で、「育ちのいかがわしい者をフィロソフィーに近づけてはならぬ」と述べているの は、実人生で善美を求めていない者がフィロソフィを学ぶと、深い言葉を使って人の上に立つ方法としてフィロソフィを用いる=悪用するからです。フィロソフィの核心中の核心は、魅力的な理念やロマンをもって現実に生きる人となるところにあります。
その営みを支えるのが「ネオテニー」という 人間の特性ですので、その自覚を深めるように日々を生きることが必要です。こどもと対等になり交わるのはとても大切ですから、いろいろな機会を見つけて遊び学ぶこと。それは大人自身のためでもあり、相互の徳と得です。
なお、最後に「映画鑑賞」の実践例を一つ、 以前のblogから。
中1の授業で『ローマの休日』を見る。 恋におちる 哲学=恋知の核心 をつかんだ。
2014-09-12 | 教育
中学1年生の女の子三人に『ローマの休日』を見せまし た。体育祭の一日練習で疲れていたので、数学はやめて、映画鑑賞にしたのです。
皆、後半のアン王女と新聞記者が「恋におちる」場面からは、引きずり込まれるように見入り、深く感動した様子でした。顔は紅潮し、輝いています。
わたしは、
いまのが哲学=恋知だよ、と話し、
「恋する次元」=聖なる狂気と「恋しない次元」=俗なる正気の対比が見事でしょ、と言いました。
「恋におちる」ことで、アン王女は一晩で別人に変わっ た=精神の自立を得て一人の人間となったこと、
現実的な得(多額の報酬)を超えて、「恋する次元」の高みに昇った新聞記者とアン王女との心と心が通い合う場面は、この世のものとは思えない美しさ=善美のイデアに直接触れるかのような感 動を与えますが、そのイデアの世界を垣間見た中学1年生たちは、一瞬にして、哲学=恋知の核心を掴みました。上気していました。
「ただの日本人ではなく、優れた人間になるためには、善美に憧れる精神が必要で、それを分からせてくれるのが、「恋」だよね。恋は、人間の人間的な生の象徴と言えるよね。二千数百年前の古 代ギリシャでソクラテスが示した「恋する次元」(=聖なる狂気)こそが、現実的な利害損得の「恋しない次元」(=俗なる正気)を支える基盤で、その逆ではないこと、それが恋知の意味なんだよ。」
黒板には、
「恋する次元」=聖なる狂気 と「恋しない次元」=俗なる正気、ーー恋知・哲学の核心
恋愛が精神的自立を生む 人間の生きる意味は、善美に憧れる恋心にある。
と書きました。
明治政府が「恋愛」を忌避し、日本の長い伝統を壊して 「見合い結婚」を進めたわけを話しはじめたら、もう途中で、皆は、納得・ナットク・なっとく。深い強いよろこびで目と顔がピカピカ 光っていました。
数学以上に価値ある授業になりました。
武田康弘
付録
強く安部首相を支持する若者(女性)とのネット対話ー「教育の本質論」 について。
2015-09-17 | 教育
以下は、安保法制反対デモの「ユーチューブ」映像を媒介にしてのやりとりです。
y さんは、安倍首相の強い支持者で すが、以下にあるように、途中から【教育】 がテーマになりました(緑字の部分)
内田卓志さんの「武田哲学へのインタビュー」の6回と7回が教育問題でしたが、その補足のようになりました。
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y => 武田
心の芯が優しくない人ってどのような人ですか?興味あるので教えて下さい。
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武田 => y
幼少期に、その子の存在のありのままが受け入れられ、愛されて育った人は、自分を愛せるので(自己存在の肯定)他者を受け入れ、愛することもできます(自分の我と他者の我は一つメダルの表裏)。
表向き(外面)ではなくて、心根が優しいとは、実存(社会人とか国家の一員という前の赤裸々なわたしのありよう)の次元で、自他を愛 することができる人のこと、と言えます。
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y => 武田
武田康弘先生へ 愛されて育ってないとはどのような人ですか?具体的にお願いします。
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武田 => y
親の考え方に従わされて(特定の理想像を要請される)、ありのままの心を認めてもらえないと、こどもは、自己の存在を肯定できなくなり ます。いつも「わたしの想いや関心」が否定されて、ある「型」に誘導されると、外面優先で形式的な言動に陥ります。
そういう人は、自分自身の心身と正面から向き合うことを恐れます。
具 体例=わたしは「こう思う」と語らず、日本人は「こうすべき」というように語ることで、生身の自分としての責任を負わずに「国家に逃 げる」。そのために、わたし固有の内的世界が育たず、実存次元=人として一番大切な領域が貧弱。
そういう人は、他者の自由な言動を嫌悪し、特定の思想を国家権力で押しつけること、そのような教育をよしとします。
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y => 武田
モラハラってやつかな?先生の見解を総合評価すると無秩序になるような感じですけど。それって我がままの分類になりませんか?そのラインは誰がどのように判断するのですか?
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武田 => y
y さん、わたしは、息子を育てた経験と、孫と深く関わっている経験からも言えますが、こどもの我儘を認めて一緒に遊ぶ=心身全体で対話 すると、こどもは、内的に(強制ではなく)成長し、一段づつ階段を昇ります。
だんだんと我儘を超えますが、それは、我儘のままだと、自分の世界が広がらず、よい関係性が築けないことを体得するからです。こどもは よく受け入れられ存在を丸ごと肯定されると、内的に次のステップに進みますが、否定されると自我はうまく燃焼できずに、そこから内的 成長をやめてしまいます(外の目に怯えるだけの存在になる)。
そうなると、内側からの秩序の形成に失敗してしまいますので、悲劇です。
「秩序=善美の基準」は、各自の心にあり、それは、存在の肯定(愛される)の中で育つと、誰でもが先験的にもつ能力(真偽、善悪、美醜を 知る能力で、人間の言語使用と同じく先験的)ですから、開花します。
また、モラルの各自の違いは、公共性(互いの対等性と自由を認め合う「対話」によりつくられる妥当性))に基づいて調整されます。こ こに、政治権力の意思が入ると、民主政は元から崩れてしまいます。「国家意思」という見方ではなく「公共意思」という見方が大切になります。
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y => 武田
その国家意思は公共意思を投影した姿なんですけどね。 民主主義という形で秩序が保たれる。 人間の育成にマニュアルが存在するとい う錯覚は、 先生が自己投影しただけなんですよ。
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武田 => y
「人間の育成にマニュアルが存在する」 ---という考えとは対極なのです。
個々人の存在、赤裸々な意識からの出発ですから、予め固定された「主義」を持たないのです。マニュアル的思考とは逆になります。一人ひと りの自由と責任による。
公共思想と国家思想がイコールになることは、残念ですがなかなかないことです。市民の公共性こそが本来の公共性なのですが、それと乖 離する場合が現実には多いです。 政治レベルの話で言えば、 今回の安保法制もどの世論調査でも、いま通すべきではないとの答えが、 いま通すべきとの答えを大幅に上回っています。公共意思と国家意思(議員意思)が異なっている一例です。
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y => 武田
内的成長を止めると思われた子供は先生が接した子供限定ということですね。それが全てではないということでいいですか?では最初に先生が述べた【心の芯が優しい】という人は定義化できないので、個々の感受性に頼るしかないということでいいですね。市民の公共性と国家思想がイコールでは無いというのは個々の思想が反映されるのが理想と思いますが、議会制民主主義なので多くに支持された政党が法をつくり、国会で承認され国民が好き嫌い関係無く遵守するということは、未来永劫変わりません。メディアの偏向報道については、反対賛成双方が言い合っていますのでそれも感受性〜の想像の領域になるのでしょうね。
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武田 => y
個々の感受性、あるいは、個々の感じ思い考えること、に付く、といういのは、人間の営み・活動を考える原理中の原理です。それを超えることはできません。
また、選挙で選んだ議員がつくる内閣に、あらゆる政策を一任したと考えるのは、近代市民社会の民主政では間違いです。国を左右するよ うな大きな問題では、国民投票が必要ですがその制度が日本にはいまだありませんので、その問題を争点にして総選挙しなければなりません。安倍自民党がそれをやらないのは、負けることが分かっているからです(世論調査ではっきりしているので)。 民意とは異なることを強行しようとするので、大きなデモとなり、日本を代表する世界的な文化人の多数が反対を表明し、法律学者や弁護士の連合も反対を表明し、東大や京大や多くの大学の教授たちの多数も反対しているのです。
重ねて言いますが、各社(自民党を支持するマスコミを含め)の世論調査で、この法案を通すことに賛成の人は少数なのです。
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y => 武田
反対派の人物像は先生の希望であり定義すらないということですよね。だとしたら反対派がマジョリティということがイマイチです。あくまでも個人的な例えを書くと、デモ参加者を全国で百万人潜在的反対者を5倍と仮定しても5百万人です、それに対し日本の有権者数は1 億5百万=反対派はたったの3%程度です。残りの人達は賛成派ということになります。先生はメディアの内閣支持率を根底から信用していないのに、どうして反対派がマジョリティという結論に至ったのでしょうか?物理的に定量的に具体的に教えてください。それともメ ディアを都合良く信用しただけで、個人的な確定根拠は無いという残念な見解ですか?
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武田 => y
人物像とは、像ですから、もちろん、わたしの経験から直観したものです。絶対に、という保証はありませんが、絶対にという保証はどのような事柄でもないですよね。
なお、この法案への賛成(今国会で通すべき)がかなり少数なのは、各種の世論調査で明らかであり、論をまちません。