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  • 164. 武田哲学の芯に迫るためのインタビュー =質問 内田卓志 1.
       ー内田卓志さんと白樺教育館館長・武田康弘の哲学対話ー
      

     現在、ブログ「思索の日記」上で、内田卓志さんと白樺教育館館長・武田康弘の哲学対話が続いています。
    ここにその一部をまとめて載せることにします(長くなるので次回以降に続きを)。

     哲学というと堅苦しく考えがちですが、要は信仰や理論に頼らず、自分の頭で根源的に考える営みのことです。端的に言えば、
     【私は】どのように生きるのか?
     【私たちは】どのような社会を生み出していけばよいのか?
    について自分の頭で考えること。
    すなわち、誰にとっても必要なことといえます。

     部分的に専門用語が出てきますが、その部分は飛ばしてもじっくり読んでいただければわかる内容です。 (実は、【主観vs.客観】問題など重い話も含まれますが、専門用語によって逆に複雑難解になってしまっています。)
    でなければ、本来の哲学の意味はありません。

     是非一読を。

    今日のところは、以下の3点です。

     1.武田哲学の芯に迫るためのインタビュー =質問
     2.実存とは何か?
     3.差異と対立の違いは?  否定ではなく、対立を。

     例によって、異論反論は大歓迎です。

     なお、終了したらまとめてPDFファイルを作成する予定です。


    1.武田哲学の芯に迫るためのインタビュー =質問

     以下は、内田卓志さんからのメールです。


    内田卓志さん
    撮影:武田康弘

     内田さんは、早稲田大学で哲学を専攻し、プラグマティズムを中心に研究し、「京都フォーラム」での発題者の一人でした。石橋湛山の研究家でもあります。

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    内田=>武田

    武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=質問

      もう武田先生と知り合って10 年以上になります。先生と私の出会いは、わたしが2000年12月に沖縄旅行で偶然にも出来たばかりの『白樺文学館』の小冊子(先生制作の豪華パンフレット)を手にしたことによりますね。実は、 それ以前の1990年に岩波の月刊誌『世界』に載った武田論文を読んでいて存じ上 げていたのですが、その辺は、別途話すことにしまして・・・。 

      いつだったか、私の敬愛する哲学者の山脇直司先生は、武田哲学を称して、「エロースの哲学」と言っていましたね。武田先生に10年師事してきて、「そうなんだろうな」と思います。これから武田先生の哲学の芯についてせまりたいです。私がインタビューしますので、ご教示下さるようお願いします。いろいろ質問 します。

      私は、武田哲学の柱には、哲学(恋知・愛知)とは何か、哲学的思考は、どのように行われるべきか、との問題意識と共に、哲学を現実の生活(世界)に活かす方 法、哲学を役立てることについての、具体的な思索が常にあると思っています。それは別に、プラトンでもなければ、カントやヘーゲルでもない、ましてはハイ デガーの哲学でもないでしょう。

      武田先生、それでは伺います。先生は、30年以上に渡り個人の<主観性>を強調されてきたと思います。そして、もう一つ大切な哲学的知としての<全体論> がありましたね。先生は、全体論について、以前たしか大工さんが家(建物)を建てるときの例?を使って説明されていましたね。これらのことから話題にした いと思います。

      まず、全体論について、全体論は、哲学的には存在論の考え方として、<原子論>(アトミズム)に対して<全体論>(ホーリズム)として提出されることがあります。<主観性>は、当然に<客観性>に対する言葉で、主観性を「個」と考えれば、客観性を「全体」と考えられるし、「個人」にたいしては、「社会」と の対比で論じることもできると思います。(実存に対しては、構造とか・・・)

      そこで質問です。私が思うには、先生の言われる<全体論>と<主観性>の関係です。普通に考えれば、全体論を強調するには、客観性を強調し、原子論を強調 するには、主観性を強調するのが、すっきりと対応関係として考えられるのではないでしょうか?よく学校の先生から言われました。「物事を全体的・客観的に考えろ・・・・」と。

     この関係性について、どう考えればよいのでしょうか?哲学の考え方は、一般的に考えられているもの、言葉として一般的に使われている使い方とは違うのでしょうか?よろしくお願いします。 

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    武田=>内田

     内田さん、よいご質問、とても感謝です。

       早速ですが、まずはじめに、
    フィロソフィ(恋知)の土台とは、人生の意味や価値、生き方を考える営みですから、個別の学問(諸科学)とは異なり、部分を問題にするのではなく、全体を問題にします。生き方の部分とか専門というのは、ありえない話ですから。


     個別学問(諸科学)は、対象を狭く限定することで、細かな観察や実験を可能とし、いわゆる「客観性」を獲得できるわけです。もちろん、何をどのよう認識するのかは、人間の欲望、関心や必要や目的という主観的な領域の問題です。

     わたしは、木を詳しく観察するすることと、その木が生えている森全体を見ることはどちらも必要という考えですから、部分と全体の往復になります。

     内田さんの言われるホーリズム(全体論と訳される)とは、現代哲学のクワインに端を発しますが、わたしは、それを主題化したのではなく、もっと広い意味(=日常言語の次元)で、部分と全体についてお話しています。

     認識は、個別科学において客観性を目がけるという認識であれ、主観の欲望=関心・目的・必要により成立しますから、主観のありようを注視し自覚化することは、何より大切になるわけです。フィロソフィとは「主観性の知」です。

     人間を惹きつける対象&惹きつける作用である「エロース」は、フィロソフィを成り立たせる動因であり、それなくしては、混沌と広がる世界を意味づける=秩序 づけることはできませんので、エロースは、武田フィロソフィというより、古代アテネのソクラテス出自のフィロソフィそのものと言えます。

     な お、「客観学」(知の手段)と「主観性の知」(知の目的)の日本における逆転については、参議院事務局から依頼された論文『キャリアシステムを支えている 歪んだ想念』に記しましたので、見てください。この知の逆立ちを自覚している人は、学者を含めてほとんどいませんが、ここに「日本人の根源的不幸」(外の価値に呪縛され内からの生がない)があります。
    https://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori108.htm

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    内田=>武田

     全体論についての回答、ありがとうございました。続けて質問します。

     先生の考えている全体論は、哲学の使命に関わる根源的な点だと思います。私の質問の前提とした全体論は、哲学の領域に関しての問いでした。
     存在論・認識論・価値論のように・・・。先生の問題意識を承知したところで、さて個別科学は、論理的、実証的な系統立った説明が必要になります。
    つまり科学性ということでしょう。その科学的な知のありようを客観性という人もいますね。

     それでは、主観性の知の哲学は、ある種の科学性(皆が了解できる地平)を担保しなくて良いかとの疑問が湧きます。主観と主観の衝突ばかりでは、何が真なのか、何が善なのか、何が美なのかが分からなくなります。つまり好き勝手に利己的に考えることも主観性の知になってしまうのか、との疑問です。

     そこを解決する考え方が、ギリシャ以来の、哲学の本質的な意味と考えてよいでしょうか。つまり哲学的な原理についての問題です。そのあたりについて、お話し頂けないでしょうか?

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    武田=>内田

    「ほんらいの哲学=恋知」の核心について

     まず最初に、
    諸科学の「客観的」認識と言わるれるものも、誰か個人の頭の中で得られるものですから、事実としては「主観」です。ただし、その認識内容が、その領域に携わる人々の共通了解になれば「客観的認識」と呼ばれることになるわけです。

     というわけで、主観と客観とは並立して対立する概念ではないのですが、言葉がつくりだすイメージが、「二項対立」を生み出します。要注意です。

     では本題です。
     フィロソフィ(直訳は「恋知」)は、主観の感情や想念ではなく、「主観性の知」ー「知」なのです。主観=私の直観や想いを絶対化するのとは対極にある営みです。

     誰でも想いや直観から認識は始まるので、それは全く正当なのですが、そのはじめの直観を固定して絶対化するならば、自分勝手な思い込みに留まり、なんの普遍性もない「私的認識」に陥ります。

     フィロソフィは、心身(五感)と頭(思考力)をフルに用いて「吟味」すること=疑い、試し、確かめる作業です。その自問自答を他者に示し、問答し、だんだんと 普遍性の豊かな考えに鍛えていく営みですので、その限りでは個別科学と変わりません。それは、
    (1)宗教的信念のような絶対的「真理」ではなく、また、
    (2)みなが言うからという一般的「真理」でもなく、
    (3)腑に落ちる・深い納得という 普遍的「真理」を目がけるものですので、諸科学をその一部(手 段)として含むのです。

     ただし、諸科学は、認識対象を狭く限定することで細かな観察や実験が可能となり、質的相違を量的(数字)相違として表すことで、客観的と呼ばれる認識を得る努力をしますが、第一回目のご質問でお応えした通り、フィロソフイ―は全体的な見方や総合判断をしますので、頭の用い方が異なります。フィロソフイ は、 諸科学における客観知を手段とする主観性の知であり、これが知の目的です。

     人間の生の意味や価値を直接に問題とするのではなくとも、例えば、どのような家を建てるか、どのような音楽ホールをつくる か、それを思案するのは主観性の知であり、安全性という基本的要件のみならず、用途を満たす程度や、美しさの程度や、使い勝手の程度などが問題になりますが、それは客観知として測れるものではなく、全体知としての主観性の知による総合評価となります。

     また、優れたセンス、企画立案能力、創意工夫や臨機応変の才、自由対話の力、作文力、問題発見と解決の能力、想像力・・・・・・・などは、みな主観性の知であり、それらは受験知ーテスト知・客観知ではありません。繰り返しますが、人間の生きる意味や価値の問題を土台として持ち、含むこれらの主観性の知こそが知の目的であるわけです。そのことをわが日本人がほとんど自覚できていないのは、とても困った問題と言えます(東大病)。
     わたしは、これに取り組んではや40年。時の経つのは早いもの、まだまだ頑張りますよ〜〜〜〜。全身がだいぶボロくなっていますが(笑)。

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    内田=>武田

    なぜ主観性の知に無関心なのか

     続けて伺います。なぜそのような、想像力(構想力)の源泉ともいえる主観性の知について無関心なのでしょうか。それとも誤解しているのでしょうか。

     また、主観性を消去したほうが、誰かに都合がよいのでしょうか。かつては、お上、大日本帝国、今なら会社とか・・・・。

     私は武田先生とある高名な哲学者との対話を隣で聴いたことが数回ありますが、このことを説得し理解してもらうのに、かなりの時間が掛かりましたね(その先生は、対話をはじめて二時間ほど経って、「武田哲学は、哲学の王道だ。」と言われていました)。

     デカルト以来の機械論的自然観批判、近代批判が哲学会でも流行ですので、主観性についての誤解は学者の間にも蔓延しているのかもしれません。

     私はデカルトやベーコンの機械論的自然観には与しませんが、近代の超克などは、たやすくできるものではないと思っています。後期ハイデガーは、ちょっと危険です。この話をすると長くなりそうなので、このあたりで武田先生にバトンタッチします。

     

     山脇直司先生:ミュンヘン大学で哲学博士号、東京大学教授ー今は名誉教授。数年前に、武田先生と山脇先生との対話ー論争が幾度も行われた。

     

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    武田=>内田

    武田康弘
    武田康弘
    2015年
    撮影 西山祐天 さん

    「客観学」(手段)と「主観性の知」(目的)の混同と逆転のわけ

     単に「学」の問題というのではなく、現代の人間の生き方・考え方の根源的大問題、それが、主観性の知こそが「知」の目的であり、読み書き計算にはじまる客観知(答えが決まっている知)は手段にすぎないことを知らないーその逆転に気付いていないことなのです。
      
      この逆立ち、価値転倒は、世界的な問題ですが、とりわけ日本は酷いと言えます。その原因は、幼いころから「想う→考える」という【対話による子育て】(表情やボディーランゲージの交感を含む)がなく、芸を仕込むようにして「読み書き」という技術を教え込むもうとする教育ならぬ強育が支配しているからでしょ う。

       答えは決まっている=正解があるという思い込みは、日本の型の文化に、正解として輸入された近代欧米学問が接ぎ木されたことで、酷い歪みとなって、手段も目的も分からないままに「知」に接するという事態を招いている、というわけです。これは、小学校から大学院まで変わらずです。教える側も教わる側もこの逆転の事態を自覚していません。この問題を明瞭に述べたのは、おそらく公式には、参議院のわたしの論文がはじめてでしょう。

     キリスト教という唯一神への信仰がつくった「近代西ヨーロッパの学」は、ニュートンの力学・数学や宇宙論に至るまで神の偉大さを証明するためという宗教思想を背後に持ちますので、人間の主観を離れた「純粋な客観」(神がつくった完全な世界)があるという根深い(深層心理にまで入り込んでいる)思い込みから 自由な人は、稀にしかいません。ここからの解放は、21世紀のいちばん重要な課題だとわたしは思っています。

     キリスト教文化圏は、さすがに本家本元だけにこの弊害に気づくのも早いようで、オランダや北欧にフランス、それにイギリスのエリート族などの間では少し前から「正解」のない問い、フィロソフィの教育をはじめています(幼少期より)。絶対的な真理を求めるのではなく、普遍的な思考を鍛える教育です。いまだにテスト知のチャンピョン崇拝=東大信仰が揺るがない日本は、どんどん置いてけぼりですが、教育改革をするにも、政府関係者には、東大病の官僚と、アナク ロニズムの国体思想のイカレタ学者しかいないのですからお手上げです。

     

    なお、フィロソフィは、西洋ではなく、小アジア(いまのトルコ)で起こったもので、かつ一神教の思想ではない(紀元後4世紀にキリスト教によりプラトンがつくったアカデメイアは廃校にされた)のですから、「西洋哲学」という言い方は、欧州人の我田引水でしかありません。インドの釈迦(仏教)の思想と近親性をもちます。要注意です。

      なお、後期ハイデガーは、論外です。彼のように、詩的言語で語っても、それはフィロソフィにはなりません。詩作品として発表するなら分かりますが、それを 哲学だと言うのでは、知的退廃というほかないでしょう。きちんと吟味、検討、批判のできない言葉の用い方は、論理ではありませんから。超論理(笑)。

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    内田=>武田

    主観性の知への無知   日本の教育の病=「東大病」 

     実例を多く示していただきありがとうございます。本来眼目であるはずの、主観性の知を育て、鍛えるべきことは二の次、三の次にしておいて、客観知を中心と する技術知、パターン知のみに優れた人間を創ろうとする逆立ちした教育が、いまだに日本では主流と言うわけですね。その象徴こそが、東京大学を頂点とするヒエラルキーにあり、この国の病(東大病)だというのが先生の長年のご主張でした。

      私がスエーデンの教育について、聴き読んだところによると先生の言われる通りで、全く日本の学校の勉強の仕方と違います。まだ江戸時代の寺子屋のほうがスエーデンに近いです。(笑)私も大学で学んだ教育原理とやらを思い出し、敬愛するジョン・デューイの教育哲学を考えながら先生のお話伺いました。私は、25年以上ビジネスパースンをしていますので、学校教育の現場はほとんど存じ上げません。そこでもう少し先生に現場を踏まえた教育のことを話して頂き、そこから哲学の使命について話をつないでいきたいところです。

    続く

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    2.実存とは何か?

    内田=>武田

    武田先生

     一休みしたところでインタビュー・質問の続きです。
    主観性の知について、語っていただいています。今までは、その認識論的・存在論的な側面についてのお話でしたが、次にその実存論的な側面について伺います。

     まず、実存という言葉について伺いたく思います。一般的には実存とは、古代ギリシャからある概念と言われていますが、20世紀の思想的・哲学的成果の一つと考えられています。実存主義とか、実存哲学とか言われます。サルトルやヤスパースは、自らの思想・哲学にその名を与えました。日本でも実存的不安という言葉が流行したのはいつ頃だったでしょうか。評論家の山崎正和氏が、実存(主義)的分析を自らの評論、 『不機嫌の時代』で見事に応用したことを想い出します。

     それでは武田先生の考える実存について語っていただき、その後、教育と主観性の知における実存の問題、近代と実存の問題、そして、社会と個人の問題へ話を展開できればと思います。

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    武田=>内田

    内田さん

     わたしは大学の哲学徒でもありましたから、実存(現実存在の略)の思想を哲学史の中におく見方も分かりますが、今は、それらはわたしの思索の肥料になってしまい、そのものとしては検討する必要を感じません。

     以下に、わたしの実存の定義やそこから得られる帰結についてお話します。

     わたしのいう「実存」とは、私は、一回限りの私の生を生きている、という自覚を意味します。ほかの誰でもない、ただ一人のこの「私」が生きる、という明晰な自覚をもった生を実存としての生と呼んでいます。実存の明晰な意識化は、必然に私の生の意味充実を目がけます。

      私は世界の中に生きていますが、世界の意味を汲み取るのは、私の意識です。何をどのように見、考えようと、私は私の意識を超えてその外に出ることはできません。私は外なる存在をはっきりと意識できますが、それも「私」の意識であるというパラドクスから逃れられません。この認識論の原理は、実存として生きる以外に人間の生はないことを教えます。

      したがって、私にとって意味のないことは認識の対象にはなりえません。他者が意味あるものとして遇する事象も、もし私がそう感じなければ私には存在しないも同然です。これは原事実です。人間の認識は関心がなければ成立しないので、関心が認識の出発点ですが、関心はこの一回限りの生をいきる「私」の関心ですから、実存としての生と重なっています。認識と実存が結び付いてることを知ることは、フィロソフィ(恋知)の原点なのです。

      主観と結び付いてしか客観はなく、客観それ自体を問うことが理に反するのは、現代ではすでに「常識」になっていますが、 主観とは、抽象的な人間の主観ではなく、最後は必ずこの「私」の主観でなければなりません。それを離れれば主観は根付く場所を失い、ただの言葉=概念に陥ります。もしそうなれば、言葉や数字を概念としてだけ扱う精神疾患者(アスペルガーの一種)の意識と同じになってしまいます。 生々しい実感・ピントの定まったクリアーな意識を伴わない主観とは生きた主観ではなく、ただの言葉=概念です。要注意。

      人間の主観としての意識が、この世界を世界として定立させ、世界に意味を与えているので、各自の人間存在は、物の存在とは存在のありようが逆です。物はそれ自体で存在しますが、人間とは意識存在で、物やさまざまな事象を意味づけ価値づける主体者です。意識のない人間とは人間ではありません。ここで注意すべ きは、前意識や無意識の存在ですが、意識されない意識としての無意識領域も、それが意識=自覚にもたらされた時にだけ現実的な意味をもつことです。検討・ 吟味(=意識化)されなければ意味をもちませんので、無意識領域を実体化させて物の存在のように見てはダメです。

     というわけで、どこまでも「私」が見、感じ、想い、考え、生きるという根源的な事実から目を離さないこと、それを明晰に自覚することが「実存」という意識です。繰り返しますが、実存の明晰な意識化は、必然に私の生の意味充実を目がけます。

     

      この人間の生の原理が自覚された時にはじめて各自の私は協力や共同が可能となり、各自の実存は、響存(響き合う存在)ともなります。各自の「対立」は、対立があるからこそ豊かな成果をあげます。対立は否定ではありません。必要不可欠な人間の生の要素です。 自己であれ他者であれ、否定したら元も子もなくなります。大事なのは「対立」で、それゆえに各自の実存は輝くのです。この話は、すでに教育論に移行していますね。では、また。

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    3.差異と対立の違いは?   
      否定ではなく、対立を。

    内田=>武田

     武田先生の実存の思想、たいへん魅力的です。長年の先生の思索の跡が分かります。繰り返し読みましたが、先生の考えられている 「実存」と私の思っている「実存」には隔たりがないことを確認できました。

      実存とは、「自覚存在」であり、その自覚とは生の原理(ただ一人の私が生きるという明晰な確信を持って生きること、生の意味充実をめざし生きること) を自覚するということ。その自覚を通して生活すること、生きることからはじめて私と他の私(他者との協力・協働(共働)が可能となるのですね。

      私見ですが、ここで注意したのは、協力、協働(共働)が先立つわけではないことだと思います。(このテー マは、後で個人と社会のテーマで伺う予定です。)
    そこで、先生は、以前、各自の「対立」 (実存と実存の対立)は、ただの「差異」ではないと言われていました。そのあたりからはじめて、ぞの後で先生の教育論を語って頂きたくお願いします。

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    武田=>内田

     内田さん、いつもありがとう。   

     わたしの実存思想はラディカルであると評されることがありますが、内田さんも賛同されたように、特定の主義によらずにちゃんと考えれば 誰でも納得できると思います。実存思想のみならず公共思想においても出発点は「私」です。それ以外にはありえません。「私」からの出発の自覚、「私」の深い納得(腑に落ちる)を目がけること、これはフィロソフィの原理中の原理です。

     では、次に「差異」(差別という価値意識をともなう違いではなく、色の違いのように上下関係にはない違いの意味)と「対立」の相違についてのご質問にお応えします。

     互いの違い=「差異」を認めよう!尊重しよう!とはよく言われますが、「対立」を尊重しよう!とはなかなか言われませんね(笑)。
     違いは違いでよいわけですが、違いは、ぶつかりになることもあります。そのぶつかりを避けようとして「互いの尊重」という言葉=思想が持ちだれることがありますが、それではただバラバラに個々があるだけで、生産性がありません。何も生まず、心の内からの悦びも出てきません。互いの発展=内的世界の豊穣 がありません。ひ弱な「私」になってしまいます。

      違い(差異)をほんとうに尊重するならば、「対立」が出るはずです、違うから避ける、とか、更には無視するというのではヒドイこと。わたしは、こう感じ、 こう考えるけれど、あなたはどう思う?と言えば、「なるほどね」、という場合もありますが、「それはおかしなこと」、という場合も生じます。

     ぶつかりを避ければ、必ず、形式上の上位者が「勝ち」ます。ぶつかれば、内容の検証になりますが、ぶつからなければ、形式上の上位者に従うほかなくなります。現代ではぶつからずに上手に!という哲学もどきの処世術が哲学を名のり、そういう類の書物ばかりが売れますが、これは、フィロソフィの自殺行為です。見事な(笑)詐術です。詐術としての哲学=上位者に従うことを正当化する哲学とは、ブラックジョークの極!

      対立しなければ、ほんとうに優れた考えが生まれ出ることはありません。進歩もありません。対立はとて大事で、必要なものです。ただし、対立は「否定」では ありません。もちろん影口とは正反対のもの。否定する・相手を潰そうというのではなく、対等な存在同士として「対立」することが大切です。権力を持った人 が、その権力により、丸腰の他者と対立することは、対立ではなく、否定になります。それは酷い悪行です。互いの対等性と自由を認め合う者同士が「対立」することがとても大切で、それはよく生きるために必須の営みです。

    佐野力さん
    佐野力さん58歳
    1999年6月 日本オラクルで
    撮影 武田

     だから、会社でも、会議の場面においては無礼講が必要で、社長など上位者への批判がよろこばれるー歓迎されるようにすることが大切です。ずいぶん昔ですが(25年ほど前)わたしのこの思想を実践した日本オラクル(株)は、驚異的な成功をしました。株式上場は1999年2月(会社創立は1989年)ですが、1987年1月からわたしの哲学の生徒+友人であった佐野力さん(初代社長・会長)は、武田フィロソフィを会社で実践したのでした。成長どころではなく爆発!しましたよ。

     教育一般については、この後で。

     否定ではなく対立。これがキーワー ド。





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