6. 白樺派と我孫子・手賀沼
『白樺派と我孫子って関係あったの?』
『何で白樺派は我孫子に来たの?』
『志賀直哉大好きなんだけど、我孫子に居たんだ?』
うーん、結構多いんですよね.こういうコメント.
それが我孫子の人からも.
意外と全然知られていないことに少しびっくりする時期が続きまして、そんな折に、『ひまわり倶楽部 特別号』【2001年6月発行 (株)千葉銀総合研究所】から武田館長に原稿依頼が来たのでした.
ついでに、文学館の理念ももっとわかりやすく書いちゃおう.ということでその原稿をここにご紹介します.
白樺派と我孫子・手賀沼 武田 康弘
「官」の時代から「民」の時代へ
民主主義の先進地イギリスやアメリカにおいては、教育の中心は官(かん)(国家)ではなく民(みん)(私)であり、逆に歴史的、に民主化が遅れたドイツには私立大学の伝統がありません。
柳宗悦(やなぎむねよし)の叔父で講堂館(こうどうかん)の創設者・近代柔道の草分けとして知られる嘉納治五郎(かのうじごろう)は、1911年に我孫子に別荘を建てました。彼はイギリスにならってこの地に小学校から大学までの理想の私立学園を創ろうと考え、二万坪の用地を取得しましたが、文部省の反対と資金難から計画は頓挫(とんざ)してしまいます。
大恋愛の末に中島兼子(かねこ)と結婚した柳は、この叔父の勧めで1914年に手賀沼を望む高台、我孫子天神山に移り住み、翌年、志賀直哉(しがなおや)・康子(さだこ)夫妻を、次の年には武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)・房子(ふさこ)夫妻とバーナード・リーチを呼び、我孫子は「白樺派」の拠点となったのです。
彼らが1910年に創作した同人誌「白樺」は、志賀が我孫子を去った年1923年の8月まで13年5カ月にわたって思想・文学・美術・音楽の各分野で日本の「人間開眼(かいげん)」とでも呼ぶべき想像力溢(あふ)れる新しい文化を生み続けてゆきました。
その広範にわたる巨大な影響力ゆえに白樺山脈と言われるこの二十世紀最大の文芸・思想運動は、既存の権威を拒否した彼ら〈在野(ざいや)の個人〉によって担(にな)われたのです。
その若き情熱的な「白樺」文芸闘士たちの清新な息吹を吸うことで、閉塞(へいそく)した現代社会に新風を送ろうとする努力が、白樺文学館設立の意義です。
したがって白樺文学館は、ただ資料を見せるだけの文学館ではなく、参加される方の自由な発意による企画や催しを通してコミュニケーションを図ったり、腋(ふ)に落ちる楽しく有用な知恵=「民知(みんち)」を生む市民大学の活動にも力を注いています。愉(たの)しいコミュニティの場として、また読書や調べ物をする書斎としてもご活用頂ければ幸いです。
未来への扉としての文学館
柳は、実用的な日用品のなかに「高級品」にはない豊かで力強い美を発見し、民芸(民衆の工芸)運動を展開しましたが、その柳の造語-「民芸(みんげい)」になぞらえて言えば、全文を初めて平易な口語文(話しごとば)で書いた志賀や武者小路らの文学は民・文学であり、楽曲(がっきょく)の意味を深く考えて、語るように歌った兼子の音楽は民・声楽であり、階級や特権を廃した武者小路の「新しき村」は民・生活です。
「白樺」創刊号の巻頭に、武者小路は次のように書きました。
「『それから』の著者夏目漱石氏は真の意味に於いては自分の先生のような方である。……しかし自分はここで『それから』をただ賛美しようとは思わない。さうして批評しようと思う。その批評は見上げての批評ではなく、同じ高さに立っての批評である、時には見上げた批評もあるであろう。しかし時には高い所から見おろすような批評もするであろう。……」と。
柳は還暦(かんれき、六十歳)を過ぎてなお次のように書いています。
「彼ら(利休(りきゅう)、遠州(えんしゅう)ぐらいの程度の仕事に止(とど)まってはならぬというのが、私の予予(かねがね)の希(ねが)いなのである。……至り尽(つく)す峰(みね)はまだ遠いとしても、利休に比べられて有難(ありがた)がるようでは誠(まこと)になさけない。」(「利休と私」)と。
彼らの爽快(そうかい)でけれん味のない自負の例は枚挙にいとまがありませんが、その元気の秘密は前記した民にありそうです。
白樺文学館は、のびやかで明るい未来への扉(とびら)でありたいと願っています。
民(私)の時代へ。
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