戻る
  •  
  • Home
  • >
  • 教育館だより目次
  • >
  • 147. 『恋知』―「私」の生を輝かす営み
         第1章 天皇制ってなんだろう −わたしの経験から考える

  • 147. 『恋知』―「私」の生を輝かす営み
        第1章 天皇制ってなんだろう −わたしの経験から考える   

     私たちは、日々の生活を充実したものにしたいと願いながらも、不透明な未来や山積みの問題を前に、思考の混乱あるいは思考停止状態に陥ります。そうなると、なす術もなくただ今の流れに身を任せるほかなくなってしまいます。
    そこでよく聞かれる声は、『仕方がない。』

     いったい何が私たち日本人の思考を混乱させ、止めてしまうのでしょう。
    この根源的な問題をえぐり出してみようというタケセンの哲学的営為(第一章分)をここに紹介します。
     おそらく問題はひどく単純であると同時に、おそろしく根深いものです。それゆえに思考停止に至らぬよう、その問題に自覚的であることが大事だと私は考えます。
     皆さんにもぜひ一緒に考えていただきたいと思います。いつものように異論・反論大歓迎です。

      なお、印刷されたい方はPDFファイルをご利用ください。 =>クリックでダウンロード

    ※ 恋知については下記ページを参照ください。
      教育館だより 64. 民知=恋知とは? (柏市民新聞・依頼原稿)
      教育館だより 65. 民知・恋知と公共哲学            




    『恋知』―「私」の生を輝かす営み

    第1章 天皇制ってなんだろう −わたしの経験から考える

    (1) はじめに

    2013-02-07

     わたしは、近々お爺さんになりそうです。うむ、おじいさん、という言葉はあまりよい響きではないですね。grandfatherとでも言いましょうか。でも、わたしは、ほんとうはグランドボーイでありたいと思っているのです。恋知(哲学)の営みは、少年のごとくですから。

     わたしが、これから語ろうと思うのは、小学生のころから疑問に感じてきた天皇とか皇室という制度のことです。まさにboyの心に浮かんだことをグランドボーイのいまのわたしが純粋な心のままに深めてみようと思います。
     わたしたちの国では、不思議なことに天皇や皇室について考え・語ることはほとんどなく、ましてその制度を批判的に考え・語ることはタブー視されてきたようです。でも、古代の天皇制律令政治の時代ならまだしも、近代民主主義の現代においてなお語りえぬタブーがあるとしたら、ひどく不健康な社会ということになってしまいます。わたしは、不健康は誰にとってもよくないと思いますので、健康な少年の心を失わずに語ってみようと思います。

     2、3年前のことでしたが、教え子の小学生の典ちゃんが、「どうしてあいこさまなの?のりと同じ年なのに、へんよ。」と言いました。まさか「皇室に生まれた子は特別な人なので『さま』と言うの、あなたは、ふつうの家の子だから『ちゃん』なの。」と言うわけにはいきません。「うん、確かにおかしいよね、あいこちゃんとうべきだと思うけど、天皇は神のようなものという古い日本の考えがなかなか変わらないのでね。」と応えましたが、あなたならどう応えられますか?

    志賀直哉
    志賀直哉 1905年(明治38年)

      同じ疑問を後に「小説の神様」と呼称された白樺派の志賀直哉は、大学時代のノートに記しています。1906年(明治39年)、23歳の時です。

      「天皇とは一体なんだろう?どうして何の為に出来たのだろう?誠に妙なものだ。こんな奇妙なものがなければならないのかしら?天皇というのは恐らく人間ではあるまい、単に無形の名らしい。その名がそんなにありがたいとは実に可笑(おか)しい その無形の名の為に死し、その為に税を納めて。その名の主体たる、一つの平凡なる人間を及びその一族(交際する事以上何事も知らぬ。交際せんが為に生まれて来た人間)をゼイタクに遊ばせて加えてそれを尊敬する、何の事か少しも解らぬ、そういう人から爵位をもらって嬉しがる、嬉しがって君のためなら何時でも死す、アア、実に滑稽々々(こっけい こっけい)。・・・・」

      この後もかなり続き、

      「天皇廃止論をして国家の敵!!!になり暗殺されるが、僕に同情するものは一人もいない」という話と、「そういう筋で小説を書き、発行・発売禁止となり裁判になるが、僕は親友の法律家と共に裁判で警察をやっつける、愉快だな。・・・しかし世間の同情を失い、迫害が来る。僕の子どもまでが小学校から退学させられてしまう。・・・・」 (『志賀直哉全集』補巻5・岩波書店)

      と書かれています。  

      以上は、政治には疎く社会思想には興味を持たなかった志賀直哉の「明治天皇から始まった近代天皇制」への嫌悪感の表出ですが、志賀は他の白樺のメンバーと同じく皇室の藩屏(はんぺい、皇族を守り育てる)としてつくられた学習院で学びましたので、日々、皇族と接していての率直な思いだったようです。

      すなおで純粋な心の小学生や、全身が鋭利な感覚神経のような若き志賀直哉が異議を唱えた天皇・皇室という存在について、千代田区神田に生まれ育ったわたし(学校は越境入学で文京区でしたが)もまた、皇居前を通るたびにヒドイ違和感を覚えたものです。日比谷の子ども図書館に行く途中、いつも、なぜ一つの家族がこんなに広い場所を占有しているのか?と気持ちが悪くなりました。小学校で『皇居』は知将の太田道灌が建てた『江戸城』のことだと教わっていましたから、「天皇家とは何の関係もないのにおかしい!天皇が中心の『大日本帝国憲法』から国民主権の『日本国憲法』に変わったのに、いつまでも居続けるのは許せない」と友人と話し、「天皇一家は京都に帰り、江戸城はみんなが遊べる公園にすべし!」と幼いながら正論を吐きました。

    神田祭の御輿
    神輿の一部 1968年5月
    神田祭りの日に武田撮影

       少し脱線しますが、戦後はじめての神田祭の日に神田で生まれたわたしは、お宮参りも七五三も結婚式もみな神田明神(かんだみょうじん)で行いました。

     神田明神は将門を祀った神社です。関東地方では一番人気の平将門は、日本の歴史上ただ一人京都の天皇に反旗を翻し、自ら新皇を名乗った民衆の英雄でした。彼は、下総国石井(現・茨城県岩井)で朝廷軍に敗れてさらし首にされましたが、伝説では、その首を京都からひそかに縁者が持ち帰り、残党狩りの厳しい下総を避けて現在の大手町に葬ったとされます。それがいまも残る将門塚です。将門死後360年に時宗の真教上人(他力念仏門・法然の孫弟子で一遍を継いで踊念仏を広めた・徹底した民衆主義の遊行僧)が「蓮阿弥陀仏」(れんあみだぶつ)という法号を与え、供養し、その霊を祀るために荒れ果てた社を改修して「神田明神」としました。神社は、徳川家康が江戸城に入った時に現在の場所に移転しましたが、塚だけはそのまま残されました。ここから不思議なことが起きます。

    国王神社
    茨城県坂東市岩井の将門を祀る『国王神社』
    1996年8月武田撮影

       関東大震災の時、この塚は崩れ同じ敷地にあった大蔵省庁舎も全焼しましたが、復興の時に塚を取り崩し池を埋めて仮庁舎を建てたところ、大蔵大臣が病死、現職の課長ら十数人が死亡し、庁舎内ではケガ人が続出したため、「タタリ」であるとの噂が広まり、塚を復元して慰霊祭が行われたのです。
       その後、敗戦の年に米軍が塚の周辺に駐車場を造ろうとしましが、ブルドーザの運転手が墓のようなものの前で転落して死亡する事件が起き、塚はまたも破壊されずに残りました。というわけで、現在に至るもこの将門塚は畏敬の対象であり、新年には必ず近くの大企業の代表者たちが参拝しています。
       また、将門を主祭神とする「神田明神」は、江戸時代には江戸の総鎮守とされ、徳川家の信仰も篤かったのですが、王政復古の明治となり、天皇に反逆した将門を祀ることへの強い批判が出ました。ところが明治天皇は、明治7年に参拝します。これは極めて異例のことで、天皇が東京の神社を参拝したのは、明治政府がつくった天皇教の総本山である「靖国神社」以外では、神田明神のみです。明治天皇は将門のタタリを恐れたのでしょう。(『神田明神ホームページ』と『逆説の日本史』4・中世の鳴動編・ケガレ思想と差別の謎・井沢元彦著・小学館を参照)

       このようなわけで、関東地方と天皇家とは折り合いが悪いのです。いつまでも江戸城に住まわれるのはよろしくないと思います。

      脱線しましたので、話を戻します。

       生きている人間を神(現人神)とし、また特定の家の子を生まれながらにして特別な人間として遇するというのは、現代のふつうの生活感覚をもつ人にとってはなんとも釈然とせず、理クツが通らぬことですが、では、なぜ、わが日本の政府は近代になってこのような新興宗教のような思想(天皇教=靖国思想)をつくり国民を教化したのでしょうか。次にそれについて考えてみたいと思います。

    戻る

     

     

    (2) 「建国!?記念日」に  

    2013-2-11

       幕末にはじめて黒船を間近に見た日本人は、西洋文明の高さに驚愕あるいは感動したと言われますが、このショックは、欧米の進んだ文明がどこからくるのかを考えさせました。

      伊藤博文は憲法を研究するためにヨーロッパに行き、宗教がなければ憲法をつくっても意味がないことを知りますが、わが国にはキリスト教のような強い宗教=一神教がないので、その代わりとして、幕末に武士たちが心酔した尊王思想(日本は神国であり天皇は現人神)を用い、皇室を利用して天皇を神とする新宗教をつくることを思いつきます。
       「憲法を制定するにあたっては基軸を定めなければならず、それはヨーロッパでは宗教であるが、日本では基軸となるべき宗教がない。わが国において基軸とすべきは独り皇室あるのみ。」と伊藤博文は1888年(明治21年)に枢密院で演説しています。翌年には、「将来、いかなる事変に遭遇するも天皇は、上元首の位を保ち、決して主権は民衆に移らない。」と府県会の議長たちに説示しました。
       彼は、神の前の平等という欧米の民主主義に倣って、天皇の前の平等という日本的民主主義をつくったのですが、尊王思想をバックボーンとした「天皇教」を創作したことで、日本はアジアで唯一の資本主義国となり、天皇の恩寵(おんちょう・上からの恵み)として一定の民主化にも成功しました。

    伊藤博文
    伊藤博文・明治天皇所持の写真

      このように日本の近代化は、キリスト教思想のかわりに天皇教思想を用いて遂行されました。憲法制定による人権と民主主義の政治と資本主義経済という『近代化』には強い宗教が不可欠であることを見抜いた伊藤博文の慧眼が、わが国を歴史上例をみないスピードで近代国家へと押し上げたと言えるでしょう。しかし、天皇教思想はまた、戦争や植民地政策の正当化と、わたしたち日本人に世界にも稀な「精神の負債」(哲学の貧困)をつくり出し、現在に至るも個人の生の輝きを奪う「不幸」を生み続けています。

       明治前半期までは国民の過半数の支持を得ていた自由民権運動は、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)、桂太郎らにより明治天皇を中核とする保守政治の敵とされ、「民権運動の息の根を止める」という根絶やし戦略により潰されました。個々人の自立、一人ひとりのかけがえのない人生という考え方は後景に追いやられ、「公=天皇=国家」のためを当然とする国体思想で全国民は一つにされたのです。その意味では天皇教とは竹内芳郎(よしろう)さんの言う通り、日本的集団同調主義の別名だと考えられます。

    捕虜の首を切る皇軍兵士
    皇軍将校がオーストラリアの
         飛行士を切る瞬間
    ー日本兵撮影・ライフ社所有

       このような考え方は、今日の保守政治家にも引き継がれています。もし太平洋戦争による敗北がなければ、天皇教者たちによる保守政治は今日までそのまま続いていたわけですが、現代の保守主義をかかげる政治家も思想の本質は同じで【国体思想】(多様な人々の自由対話によりつくられる政治=社会契約に基づく近代民主主義を嫌い、天皇制を中心とする日本というあるべき姿の枠内に個々人を位置付かせるという国家主義。従ってその枠外の人間は非国民となる)なのです。戦前との違いはハードかソフトかだけです。

      では、明治政府作成の新興宗教と言うべき『天皇教』とはいかなるものなのか、それを「靖国神社」の理論的重鎮である小堀桂一郎さん(東京大学名誉教授)に聞いてみましょう。

     「靖國神社の誕生は、官軍(天皇側の軍)の東征軍(江戸を征伐する軍)の陣中慰霊祭からはじまったのです。 
     慶応四年(1868年)5月、まだ京都にあった新政府の行政官である太政官府からの布告で、嘉永六年(1853年)のペリー来航以来の「殉教者」の霊を祀ることが書かれています。「殉教者」とは「皇運の挽回」のために尽力した志士たちのことで、その霊魂を「合祀」するという考えです。またこの布告には、合祀されるのは、今度の兵乱のために斃れた者たちだけではなく、今後も皇室のため、すなわち国家のために身を捧げた者である、と明示されています。
       靖國神社は、陣中の一時的な招魂祭にとどまることなく、王政復古、【神武創業の昔に還る】という明治維新の精神に基づいてお社(やしろ)を建立した点に特徴があります。・・靖國神社の本殿は、あくまでも当時の官軍、つまり新政府の為に命を落とした人達をおまつりするお社である、という考えで出発したのであり、それは非常に意味のあることだと思うのです。日本の国家経営の大本は、「忠義」という徳ですが、この「忠」というのは、「私」というものを「公」(天皇)のために捧げて、ついに命までも捧げて「公」を守るという精神です。この「忠」という精神こそが日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力にあたるだろうと思います。・・その意味で靖國神社の御祭神は、国家的な立場で考えますと、やはり天皇の為に忠義を尽くして斃れた人々の霊であるということでよいと思います。」

     

    靖国神社パンフ
    平積で売られている
       パンフレット・300円

      以上の小堀桂一郎さんの解説(靖国神社売店の最前列にあるパンフレット『靖国神社を考える』より)で「天皇教」とは「靖国思想」と同義であることがよく分かります。

       なお、ここで、【神武創業の昔に還る】と言われている神武天皇とは、初代天皇とされる架空の人物ですが、その伝説は以下の通りです。

     「日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる神武天皇(在位:前660年〜前585年)は日向(宮崎)地方から、瀬戸内海を東に進んで難波(大阪)に上陸しましたが、生駒の豪族に阻まれたため、南下して熊野に回りました。そこで出会った3本足の「八咫烏」(やたがらす)というカラスに導かれて、吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて、大和地方を平定しました。そして、紀元前660年の1月1日に橿原宮で即位し、初代の天皇になりました」
    〔奈良県橿原(かしはら)市のホームページより〕。 神武の在位は75年間、126歳の長寿で、弥生時代前期の人ということになります。

    神武天皇
    伝説上の初代天皇・神武
    ー明治天皇に似せて描かせた

     時間・歴史をも天皇教に合致させるというのが「紀元節」ですが、明治5年(1872年)に、神武天皇が即位したとされる2月11日(太陽暦換算)を紀元節の祝日とし、西暦より660年も古いことを誇りました。世界の中心は日本の天皇である。という思想は、田辺元(天皇制は宇宙の原理と合致する)や西田幾太郎(国体は、皇室を中心にリズミカルに統一されてきた)という戦前を代表する哲学教授たちが主張し広められましたが、紀元節と共に戦後は一旦は廃止されました。しかし、1967年に多くの反対を押し切って佐藤自民党内閣は2月11日を建国記念の日として祝日とし、「紀元節」復活に道をつけました。ここには、自民党など保守派政治家の根深い「天皇教」への思いがあらわれていますが、これは「靖国神社」を敬愛することと軸を一にしているのです。

      自民党は、現『日本国憲法』を廃棄して新たな憲法をつくることを「党の約束」としています。それは、彼らが天皇教を引きずる国体思想から抜けられないことをあらわしています。安倍首相は、自著『美しい国へ』で「日本の歴史は、天皇を縦糸として織られてきた長大なタペストリーで、日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。」と述べていますが、これは、《人間存在の対等性に基づき、互いの自由を承認し合うことでつくられるルール社会》という近代民主主義の原則とは明らかに矛盾します。

       「歴史的に天皇が中心の時代があった」というのではなく、市民社会が成立した後の現代もなお「天皇制が国の根幹である」としたのでは、「おじさん、勝手に言ってれば〜〜」の世界でしかありませんが、どうも「哲学の貧困」のわが国では、このような国体思想が跋扈(ばっこ・のさばり、はびこること)してしまうので危険です。

       なお、ここで注意しなければならないのは、明治からの天皇制とは、伊藤博文が中心となってつくった近代天皇制=天皇教のことであり、それ以前の日本の歴史・伝統とは大きく異なるということです。
       明治政府は、皇室独自の儀式に拠る「皇室神道」と「神社神道」を直結させて新たな政治神道=国家神道をつくったのですが、これは、日本古来の八百万の神=「多神教」を、天皇を現人神とする「一神教」に変えてしまい、祭司にすぎなかった天皇が現人神(あらひとがみ)となったのですから、ビックリ仰天!というほかありません。敵・味方の区別なく祀るという神道の教義も、味方だけを祀ると変更。なんとも強引な宗教改革ですが、これを官僚政府が政治権力を用いて徹底させたのですから驚きです。いまなお、わたしたち日本人が「私」からはじまる思想を恐れ、既成の枠組みに縛られて主観性の知を育てられずに受験知や事実学だけを貯め込み、また「餅は餅屋」と小さく固まってしまう生き方になるのも頷(うなず)けます。北朝鮮の比ではありません。支配者は将軍ではなく現人神だったのですから。

    昭和天皇の裕仁
    昭和天皇の裕仁・1945年敗戦時、
    マッカーサーと並んだ写真の一部

     誰もが知る通り、太平洋戦争での敗戦により、一旦はこの天皇教は明確に否定されました。1946年に天皇の裕仁は、「天皇を現人神とし、日本民族を他の民族に優越するものというのは誤り」とし、天皇は人間であるとするいわゆる「人間宣言」を出しましたが、こんな珍妙な宣言をせざるをえないまでにわが日本人の意識は深く犯されてきたわけです。
       皇室の祭祀と政治を直結させていた天皇の祭祀大権は、『日本国憲法』の誕生により否定され、皇室祭祀は完全に天皇家の【私事】となりました。第5条―天皇は国政に関する権能を有しない。第20条―国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。
       けれども、天皇家と国家とを結びつけることで日本国は成立すると考える保守的な政治家は、「天皇の男系DNAを守れ!」との言に象徴されるように敗戦による大改革を反故(ほご)にすることに激しい情熱を燃やし、既成事実の積み重ねにより成し崩し的に天皇教を復活させようとしてきたのです。
       いまに至る戦後の有力政治家の大部分は、戦前の権力者たちの子孫ですが、それにしても、敗戦による新しい日本を「戦後レジーム(体制)」と否定的に捉え、これを終わらせることを最大の使命だとする首相が現れるまでになったのですから、先祖返りもいいところです。

       では、次に、天皇教は私たち日本人にどのように作用しているかを書きましょう。

       国の近代化のために、キリスト教のかわりに天皇教を用いたことは、「私」を消去してしまい、底しれぬ「精神の不幸」からの脱出を困難にしている、とわたしは見ていますが、聖書に象徴される豊かな内容をもつキリスト教とは逆に、まったく内容のない宗教である天皇教(教典すらなく、型・儀式だけがある)は、日本人の無意識領域までも犯しているために、これを顕在化させるのはなかなか大変です。

    戻る

     

     

    (3) 個人の内面世界は、愛国思想に犯された。

    2013-02-18

      わたしたち人間は、自己意識の観念をもって生きる存在であり、なにかしらの基準と指針がないと日々の生活を安心して過ごすことができません。自分の生を意味づけ価値づけることに失敗すれば、精神疾患に陥ります。今までその基準と指針を与える役割を担ってきたのは主に宗教です。個別の学問や専門知は、人間の生きる意味・価値という主観性の領域とは無縁ですから、人間の生を支えることができません。科学は生の意味を示せませんが、宗教は生の意味を与えます。なお、哲学は宗教とは異なる仕方で生の意味を探求しますが、それについては第二章で主題化します。

      (※現代の日本人は自覚的には宗教も哲学も持たず、世俗の価値を絶対化していますので、「世俗教」の信者だと言えます。多くは「学校序列教」=東大教徒でしょうが、世俗の価値の絶対化は、思考や判断が単眼で一面的となりますので、精神世界=内面世界は育たず、「私」固有の生の意味は消去されます。そうであれば、外なる価値基準に翻弄される脅迫神経症者として生きるほかなくなるのです。実存の悦びは元から断たれてしまいます。)

       聖書にも仏典にも「正しい」生き方が示され、どう生きるかが書かれています。それを受け入れるか否かは別として、中身・内容が説得力をもって示されています。それゆえに国や時代を超えた世界性・普遍性を持ちました。ところが明治政府がつくった新宗教である「天皇教」という近代天皇制を支えたイデオロギーには、中身がないのです。7、8世紀に日本を統一した天皇支配の物語である『日本書記』と神話『古事記』を教典の代わりにしましたが、それは、天皇に都合よく書かれた日本統一の歴史であり、生きる意味と価値をテーマとした書ではありません。

       このように内容がない宗教を国教として成立したのが明治の日本国家でした。皇室崇拝をあらわす儀式や所作をつくり全国民を教化したのです。天皇教=靖国思想は、伊藤博文が、「皇宗の神霊に誥(つ)け白(もう)さく皇朕(すめらわ)れ天壌無窮(てんじょうむきゅう)の宏謨(こうぼ)に循(したが)ひ惟神(かむながら)の宝祚(ほうそ)を承継し」=(終わることのない日本は永遠に天皇が治める国である)と『大日本帝国憲法』の骨子を説明したように、天皇と皇室を尊重することは日本国民の義務であり、これを受け入れれば「信教の自由」「思想の自由」を認めるとしました。馬鹿げた詐術としかいえませんが、これは案外よく考えられた支配の方法です。

       人間は象徴動物なので或る「形」を要請することで、特定の想念をもつようになります。明治の開国から敗戦まで、有名な知識人の多数は天皇崇拝者になりました。ならなかったのは、弾圧の中で民権運動を担った者や社会主義者と呼ばれた民衆派ら、日々の経験につく「生きた知」の実践者のみでした。

       形の要請は、現代でも服装や持ち物を規制する校則や社則に上手に用いられています。思想の外形(形式)だけをつくり、内容は明示しないという方法は、特定の想念や生き方を本人に気づかせずに刷り込むことを可能にします。官僚支配などもみなこの手法で行われてきました。形式をつくり、それに従わせることで、考え方と生き方をコントロールできるのです。今の子どもたちの生活を例にとれば、固苦しい儀式としての入学式や卒業式に従わせること、部活動で毎日長時間の拘束をすること、勉強とは受験勉強であると限定すること、で「型ハマリ人」が出来、なぜ、どうして、何のため?という意味内容の追求が弱まります。自由な発想―「私」からはじまる伸びやかさや豊かさの世界が拓けなくなるのです。

    明治天皇肖像
    明治天皇の肖像・明治23年に全国の
    学校と役所に配布し拝ませた。

       明治の官僚政府は、小学一年生から毎日天皇の肖像(写真を元にしてつくった絵画)を拝ませ、日本史を天皇の歴史として教え、皇室への尊敬心を植え付ける教育を徹底させましたが、そのために、個人の内面世界は抑圧され、各自の心は「天皇制国家を維持する愛国心」という外面思想に犯されてしまいました。「私」の心・内面世界・個人のイマジネーションの広がりや構想力は、邪魔(じゃま)とされたのです。今日に至るも、実存的な思想や全体の意味を構想する能力は求められず、「餅は餅屋」として種々の技術を磨くことや専門知だけが必要とされ、生き字引のような暗記頭が高評価されています。意味論としての知や自分の頭で考えるというほんらいの哲学の営みは日本にはほとんどありません。大学哲学は専門知になっていますので、「哲学者とは哲学することで馬鹿になった人種のことだ。」という嘲(あざけ)りがその通りとなっています。

       「現実」とは、人間にとっての現実である限り、文学や演劇や音楽などの非現実を含んではじめて現実なのですが、政治的、経済的な外的現実ばかりが肥大化した国に生きると、生きる意味である「私」の内的世界は育たず、ロマンや理念の世界が消えてしまいます。即物的な価値観に支配された灰色の不幸に陥ります。情緒音痴で表情に乏しい人、紋切型で人間味の薄い人で溢れます。全てが数値化され序列化された国では、「私」固有の生の意味が失われてしまうからです。他者との競争と損得勘定が生き方の中心となれば、対話や議論も勝つか負けるかの「ディベート」にまで貶められ、なにがほんとうかを目がける「恋知(ほんらいの哲学)問答」の営みは育ちません。「日本人ほど政治的な国民はいない」と言われるのは、ありのままの心を見、私の考えを育て・語ることが少なく、たえず上下意識を持ち、他者からの承認に怯えて効果ばかりを考える言動に終始しているからです。「私」から立ち昇る実存的魅力に乏しい生は不幸です。

       外なる価値を追い求め、世間体を気にし、序列意識に支配されていては、中身・内容に乏しい「真実のない人生」しか得られないはずです。それでは人生の失敗というほかありません。

    戻る

     

     

    (4) 形と序列、二つの言葉に収まる。

    2013-02-25

      ここで誤解を招かないように一つ確認します。

       わたしは、いまの天皇である明仁さん、美智子さん、皇太子の浩宮さん、雅子さんに対しては、好感をもっています。悪感情はありません。
       わたしが批判しているのは、個人としての天皇や皇太子のことではなく、天皇・皇室という制度が醸し出す空気(宮内庁の役人が演出)であり、私たちが知らずに刷り込まれるある種の観念のことです。

       では、その観念=「形式主義と序列主義による人間を幸福にしない思想」とはどのようなものかを見て行きます。

       わたしたちの生活を振り返ると、学校でも、会社でも、役所でも、趣味の会でも、社会活動団体でも、みな「形」が優先し、上か下かの「序列」意識に縛られていることに気づきます。

       日常の言葉がまず、序列です。相手を呼ぶ時の言葉は二人称ですが、日本語に英語のyouがあるかと言えば疑問です。youは「あなた」と訳されますが、「あなた」を会社で上司に使えるでしょうか。社員が社長に「あなたのご意見をお聞きしたいと思います。」とは言えません。日本語にはyouのように誰にでも使える二人称はなく、いつも相手と自分のどちらが上かを考えて呼びかけの言葉を選ぶ必要があります。言説の中身・内容以上に、呼び名が適切か否かに神経を使わないといけないのです。日本の人間関係が「あいさつことば」(形)とその延長に過ぎず、各自の「私」の思うこと・考えること(内容)のやりとりに発展しないのは、言葉のありようとその用い方にも原因がありそうです。

       このように、序列意識は、必然的に形式が内容に優先する文化を生みます。「私」からはじまる内発的な生ではなく、あらかじめ決められている外なる価値に合わせる生き方になりがちです。
       わたしは、小学5年生の時に読んだ『社会のしくみ』という本に載っていた詩の一節「ぼくの人生は、ぼくのものだ。」に深く感動しましたが、それは、上から被(かぶ)せられた覆いや重しを吹き飛ばし、「私」からの生を高らかに宣言する光輝だと感じたからでした。以後、わたしは、外なる価値に従うのではなく、自分自身の「納得」につく人生を歩み、今年で半世紀が経ちます。形ではなく【納得を原理】とする生は、中身の濃い人間性豊かな社会をうみますが、それとは対極にある形式優先の社会は、自然な人間性を肯定せず、生のよろこびを奪うのです。

       人間存在の対等性を原理とする近代民主主義社会に生きていながらも、皇室に生まれた人間に対して特別の敬語を用いることを怪しまない空気に支配されるのは、日常の生活が民主的倫理に基づいていない証拠です。天皇を「明仁さん」と呼ぶ人はまずいません。「さん付け」は民主制を支える倫理の基本なのですが、基本すら踏まえない人が多数派です。「くん」か「さん」か「せんせい」付で区別し(「差別」ですが)、一番上にすべてを超越する呼び名として「天皇陛下」を置くというわけです。中身・内容以前に、形・立場があるわけですが、形を優先させる日々の行為は、序列化の思想を正当だと思い込ませ、それに従わせます。

    式根島キャンプ
    1976年より恒例の式根島キャンプでの一コマ
    美しい海で自由に遊ぶこどもたち・武田撮影

       「日本人はレジャーでさえ、どこに行き、何をするかが決められている」とはウォルフレンの言葉(『日本権力構造の謎』)ですが、形と序列で生きていたのでは、何をしてもすべて紋切型にしかなりません。納得を原理とする「私」からの出発=私を活かす人生を創造することは不可能です。それにしても人間性の赤裸々な表現である「遊び」をも管理され序列化されて「型ハマり」では、もう泣くに泣けないですね。

     趣味の活動も愉悦にならず、競争や上下意識がつきまとい、強迫神経症者のごとくですし、所有物もクルマからバッグまで序列的価値観が支配します。内容を吟味し、自分の目的と心身にフィットするものを愛用するのではなく、他者との張り合いや他者からの承認に怯えて名前と外見に拘ります。有名な物品をもつこと、有名な観光地に行くこと、有名なお店で食事をすること・・・が、まるで人生の主要な価値のようにテレビは伝えます。なんとも愚かです。
      大学も名前で序列化されています。見事なまでに上下です。校舎や設備、入試方法や授業内容まで全て画一化されていますので、単純な序列に収まってしまいます。多様性・色どり豊かな世界とは無縁で無機質ですので、学ぶ学生によろこびはありません。大学卒の資格=形を得るために通うのです。
       東大、とくに法学部に在籍すれば、外なる価値はしっかり保証されます。暗記脳でパターン知の持ち主でしかなくても、よい地位が得られます。内容は二の次、東大ブランドは絶対です。日本人の「東大病」=「東大教」はもうみなさまご存じの通り。
       勉学の目的は上位の学校に入ることに過ぎず、ほとんど意味のない丸暗記のペーパーテストで青春が終わります。どうでもよい資格試験と呆れるほどバカバカしい各種検定試験で溢れていますが、誰も疑いを持ちません。なぜ?どうして?何のため?という意味論・本質論の探究は消えてしまい、ただの「事実学」を貯め込む勉学でいたずらに人生が浪費されます。著名な人類学者・モンターギュもいう通り、「学士、修士、博士と進むにしたがい、知的にも精神的にも萎えて」いきます(『ネオテニー』)。自ら生み出す「能動的な知」の力は消え、受動的に書物を切り貼りするだけの「見かけ倒しの知」に陥ります。同じことは、2400年前にソクラテスが指摘しましたが、それが哲学(正しい訳語は「恋知」)の起こりです。とても大切な話しなので、以下に記します。

       ソクラテスは70歳の時「ギリシャの神々を信ぜず、青年たちを腐敗・堕落させている」として訴えられ、500名の陪審員裁判で僅差ですが有罪となり、死刑となりましたが、告訴された深因は、恐らく、以下のようなソクラテスの見解(法廷における証言)にあると思われます。

    ソクラテス
    アテネ大学前のソクラテス像
    『ソクラテス教室』生徒(当時)の
    中野牧人さん撮影

      「アテナイ人諸君、諸君にはほんとうのことを言わなければならないのですから、誓って言いますが、わたしとしては、こういう経験をしたのです(その直前で智恵があると思われている政界人と対話したことが述べられている)。つまり、名前の一番よく聞こえている人が、神命によって調べてみると、思慮の点では、まあ九分九厘までは、かえって最も多く欠けていると、わたしには思えたのです。それに反して、つまらない身分の人が、その点むしろ立派に思えたのです。」(『ソクラテスの弁明』〈7〉―プラトン全集1)
       ソクラテスの政治家への見方は、知識人一般への評価と同じでしたが、彼らのもつ知とは異なる「ほんらいの知」は、話し言葉に基づく生きた知=対話的理性であることが、『パイドロス』において強い調子で述べられています(岩波文庫版では、P.134〜146)。それがphilosophos=ギリシャ語「智恵を恋する人」の定義とされますが、次のようです。
       「書かれた言葉(文字)は想起の役目をするに過ぎず、いま、実際に語る言葉によって生きる者、真善美に憧れつつ学び、真に魂の中に刻まれる言葉のみが価値だと考え、それを話し言葉で証明するだけの力をもつ者、それを恋知者(哲学者)とか、これに類した名で呼ぼう」(要旨)。
       なお、『弁明』で、思慮の点で立派だといわれている「つまらない身分の人」とは、石工などのように手や身体も使って仕事をする人ですが、現代でいえば、エリートや専門的知識人ではなく、ふつうの生活者と考えればよいでしょう。

       では、話を戻します。

       明治政府がつくった天皇教=靖国思想が生んだ日本人の生き方は、形と序列の二文字で象徴的にあらわされますが、これでは、一人ひとりに幸福が来ることはないでしょう。序列意識に支配された「型ハマり」の人生では、どう転んでも不幸です。お金や地位があってもなくても同じです。それらがあれば楽ではありますが、ただ楽であるだけです。

    継承の儀
    昭和天皇死去の3時間半後に行われた 
    剣璽等継承(けんじとうけいしょう)の儀。
    ――草薙(くさなぎ)の剣と八坂の
    勾玉(まがたま) と、天皇の印と国の印を
    受け継ぐ儀式

       先に触れましたように、明治政府は、皇室祭祀を最高位に置き、これと神社神道を直結させて「国家神道」という新宗教(天皇教)をつくりましたが、それに伴い明治4年(1871年)に全国の神社の等級を定め、その後の地方制度の改変により『大日本帝国憲法』発布までに次のように確定しました。官幣社(大、中、小)、国弊社(大、中、小)、府県社、郷社、村社、無格社の6段階で、国民が新たな神社をつくることを禁じました。現人神(あらひとがみ)である天皇が大神主も務める国家神道は、この序列化によって完成しましたが、仰々しい祭祀が中心、形ばかりで中身のない宗教は、わたしたち日本人の意識をヒドク歪めてしまいました。中身・内容以前に形がある、「正しさ」はあらかじめ決まっているという逆立ちした観念を植え付けたわけです。

    立法と調査別冊
    武田論文を含み各界40名の「キャリア
    システム」についての意見書を載せた
    『立法と調査』の表紙写真
    2008年11月発行

      それは、天皇の官吏=官僚による日本支配を正当化する想念ともなり、東大法学部卒の官僚であるという形による支配・正しさの独占・上からの絶対的規範は、今日もなお根強く残り、わたしたち日本人の知や学問のありようを規定しています(これについては、参議院調査室から依頼された論文『キャリアシステムを支える歪んだ想念』に書きました)。学校(小学校―大学)における固く融通の効かない知の教育は、呆れ返るほどですが、日々の具体的な経験につく自然な知(それがほんらいの知性)とは異なる型ハマりの学習・解法のパターン化は、今日さらにヒドクなっています。

       さらに、わたしたちが生きる上で一番切実な男女関係、結婚、家庭のありようについても明治政府は、帝国憲法発布と前後して、古くからの日本の伝統であった自由恋愛を禁止し、強力に「見合い結婚」を勧めます。天皇教の下で富国強兵を進めるために男女の自然な結びつきを嫌ったのです。それが家父長的家庭観とセットになり、女性差別を当然のこととしました。

       以上、見てきましたように、人間のほんらい性・自然性から逸脱した人為的な政治と思想を象徴するのが天皇教=靖国思想です。一人ひとりの「私」から発する豊かさとは無縁の「型ハマリ」の観念に基づく人生に誘導する空気は、このようにして生みだされました。天皇や皇室という制度が醸し出す空気は、生き生きとした「私」の意識を鈍痲させ、知らずに惰性態へと導きます。様式によって意識を支配します。のびのびした自由な心が失われ、身体がこわばるのです。感情の発露が抑えられ、顔の表情が貧しくなります。

    文学館外観
    白樺文学館・2001年武田撮影

       日本の入学式や卒業式が子どものもつ可能性―未来を感じさせる楽しいものではなく、重く堅苦しい儀式なのは、天皇制国家の象徴のようです。本来こどもたちのための式なのに、主役は「日の丸」であるかのような壇上、明治天皇に捧げられた皇室の歌=「君が代」斉唱の徹底に狂気のごとくに取り組む役人や政治家の姿を見ると、なんとも呆れるほどの国家宗教の国だな、と思います。わたしは哲学徒で仏教徒(浄土真宗大谷派)なので、長年とても違和を感じてきました。日本の人間開眼、白樺派が先駆の〈人間性の肯定―ルネサンス〉が必要です(わたしが全コンセプトを創った『白樺文学館』創成記をご参照下さい)。  醸される「空気」によって、生命の力と輝き・心身の溌剌さ・囚われのない自由な心が抑圧されたままに生きるのでは、根源的不幸としかいえません。

    戻る

     

     

    (5) 一章おわりーーまとめ 

    2013-03-06

     天皇制という思想は、

    1. 皇室祭祀という荘重でかつ仰々しい儀式がつくる「空気」により、形式≒様式を優先させる考え方を正当化し、
    2. ふつうの人々を「超越」する存在として天皇と呼ぶ男性を置き、その一族を皇族として他の家族とは異なる高貴なものとする、

    というわけですが、

    ルソー
    ルソー:
    人民主権の近代
    民主主義を確立。
    「社会契約論」

      言うまでもなく、こういう想念・思想を「人間存在の対等性と思想及び良心の自由」を前提とする近代民主主義社会において維持するのは、ほんらい不可能なはずです。遡(さかのぼ) れば、王権否定の徹底した平等思想である釈迦の思想とも相いれません。

     現天皇制の問題性は、宮内庁官僚の思想と行動の度し難いアナクロニズムにあらわれていますが、それをよく知るには、33年間も宮内庁記者を勤め、皇族と親しくお付き合いしてきた板垣恭介さんの著書―『明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか』(2006年・大月書店刊)をご覧ください。

    釈迦像
    ガンダーラより
    発掘された釈迦像。
    徹底した平等思想・
    慈悲と智恵の宗教

      きちんと考えれば分かりますが、天皇制思想を取るなら、人民主権の近代民主制思想の原理を否定しなければならなくなるのです。

      中身・内容がつくる世界ではなく、あらかじめ決められている「形式」に従い、その形式が要請する「序列」を受け入れるというわれわれ日本人の生き方は、天皇や皇室という存在を意識すると否とに関わらず【天皇制的】であると言えます。「日本人が三人集まれば、もう天皇制がはじまる」と揶揄される意味は、三人の序列が、その時々の言動内容により変動せずに固定化されてしまうこと、しかも「序列」は、出自や学歴や職業などの「形」によるものだからです。これでは、一人ひとりの精神の内部から湧出するよろこびとは無縁の形式的な生き方に陥るほかなく、実存の豊かさ・魅力は育ちません。【知識・履歴・財産の所有の程度】を競う哀れな外面人間=ただの「事実人」(人間としての意味と価値をもった存在ではなく、事実としては人であるにすぎない)として生きるほかなくなるのです。

      一例として、こどもの心を無視した固苦しい「型ハマり」の入学・卒業式を挙げましたが、この形式主義と序列主義は、わたしたちの生活のさまざまな場面を犯しています。お祝い、お礼、依頼、お詫び、お見舞い、招待、弔辞・・・の言葉もみな形があり、文書にする場合は「文例」があってそこから選ぶのです。「私」の気持ちと考えの内容から立ち昇る言葉ではなく、あらかじめ決まっている形をチョイスするだけですが、誰もそれを怪しまないのですから、怖くなるほどの呪縛力です。

      わたしは、善美に憧れるよろこびの多い人生を歩むには、このような精神風土と縁を切ることが必要だと考えてきました。他者の思惑に左右されて生きるのではく、主体性をもって「日々を創造」しつつ、形と序列が支配するわが国の精神風土を変えていく人生を歩んできました。それを支え・可能にしているのは、「恋知」(ほんらいの哲学)という考え方なのですが、それについては、第二章以降の「恋知の生」に書きます。 

    2013.3.11. 武田康弘




    戻る
  •  
  • Home
  • >
  • 教育館だより目次
  • >
  • 147. 『恋知』―「私」の生を輝かす営み
         第1章 天皇制ってなんだろう −わたしの経験から考える