5.白樺文学館の理念 −改訂版−

 4月に武田先生が白樺文学館の理念-改訂版-を作成しました。
古いものと置き換えようかとも思いましたが、現在進行形で少しづつ形になっていくのを報告していくのもまた面白いのではないかと思い、そのまま載せることにしました。

 下の文章で赤い色の部分が主な変更点です。読んでいただければわかると思いますが、追加された部分は主に柳兼子(やなぎかねこ)に関するものです。
実は昨年10月に柳兼子に関する著作が出版されました。
表題は【柳 兼子 伝 -楷書(かいしょ)の絶唱(ぜっしょう)-】、松橋 桂子 著、水曜社。
 武田先生がこの本を読み、実際に著者に会って話を聞いてみると、『これはすごい! 柳兼子抜きに白樺派は存在しない。』という印象を強く持ったようです。
私自身は実はまだ読んでないので、又聞きに過ぎないのですが、端的に言えば、これまでの定説と異なり、白樺派にとって柳兼子の存在は極めて大きなものであった、ということです。
私たちは自分たち自身の過去を本当に良くわかっていないのではないかという気がしてきます。

 この詳細については、開館後に展示される資料に埋め込まれていることでしょう、きっと!

2000年6月14日 古林 

 

創 造 の 地 − 我 孫 子

 

 明治前半期の「自由民権運動」と大正期の「大正デモクラシ−」とは、日本の自立した市民による民主的思想と実践運動の二つの輝かしい峰です。その「大正デモクラシ−」時代、文芸誌『白樺』を創刊した若き三人の闘士 ー 柳宗悦(やなぎむねよし)、志賀直哉(しがなおや)、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ) ー と声楽家で宗悦の妻の兼子(かねこ)、彼らの同伴者バ−ナ−ド・リ−チはここ我孫子に集まり、既存(きぞん)の道徳や思想に抵抗して新しい文学と芸術と社会思想をつくりあげました。

 1914年(大正3年)に叔父の嘉納治五郎(かのうじごろう)の勧めで我孫子に移り住んだ柳宗悦(25)は、徹底して民衆の側に立つ反-国家主義の哲学者であり、その思想は、戦前戦中、戦後と一貫して変わることがありませんでした。柳は、朝鮮に渡り、名も無き民間の陶工(とうこう)たちが、国の保護の下にある有名な陶工たちよりもはるかに優れていることを知ります。彼は民衆の手工芸に高い価値を置く自身の思想を「民芸」という造語で表現しましたが、その運動は我孫子から始まり、やがて大きな潮流(ちょうりゅう)となって全国に拡がっていきました。柳は文筆以外にも、1924年には朝鮮の京城(現在ノソウル)に「朝鮮民族美術館」を、1936年には駒場に「日本民芸館」を開き、初代館長に就任するなど精力的に活動しましたが、その背骨となっていたのは、法然(ほうねん)・親鸞(しんらん)・一遍(いっぺん)の欣求浄土(ごんぐじょうど)、他力本願の思想でした。今日では「民芸」という言葉は普通名詞になっています。
音楽における「白樺派」を一人で代表した下町育ちの柳兼子(22.旧姓・中島)は、日本の近代声楽法を確立すると共に、夫・宗悦の精力的で多様な活動を物心両面(ぶっしんりょうめん)で支え続けました。大恋愛の末の我孫子での新婚生活の最中(さなか)、日本政府の朝鮮人抑圧・同化政策に対抗するため宗悦と共に朝鮮に渡り、連続的に音楽会を開催。多くの人々との厚く深い心交を持ちました.

 1915年(大正4年)、柳の勧めで我孫子にやって来た志賀直哉(32)は、1917年に中篇の代表作となった傑作『和解』を書き、翌年1月リ−チの装幀による『夜の光』を出版。これによって大正文学における地位を不動のものとしました。直哉は既存の文学者の権威には一切従わず、自分自身の心を赤裸々に凝視し、自己の心身のリズムに完全に合致させる文体をつくることで、古びることのない力強く魅力的な作品を産み出していきました。 
  日本近代文学の中で最も優れた〈描写力〉を持つと評される志賀直哉の代表的作品の多くは我孫子時代に書かれたものです。中篇三部作のうちの二作『和解』と『或る男、其姉の死』(『大津順吉』は1912年)。20世紀の日本最高の短篇と言われる『城の崎にて』『赤西蛎太』『小僧の神様』『焚火』(『范の犯罪』は1913年)。唯一の長篇『暗夜行路』の前篇と後篇の半分強、などがそうです。  

1915年(大正4年)、柳の勧めで我孫子にやって来た志賀直哉(しがなおや 32)は、1917年に中篇の代表作となった傑作『和解』を書き、翌年1月リ−チの装幀(そうてん)による『夜の光』を出版。これによって大正文学における地位を不動のものとしました。直哉は既存の文学者の権威には一切従わず、自分自身の心を赤裸々(せきらら)に凝視(ぎょうし)し、自己の心身のリズムに完全に合致させる文体をつくることで、古びることのない力強く魅力的な作品を産み出していきました。 日本近代文学の中で最も優れた〈描写力〉を持つと評される志賀直哉の代表的作品の多くは我孫子時代に書かれたものです。中篇三部作のうちの二作『和解』と『或(あ)る男、其(その)姉の死』(『大津順吉』は1912年)。20世紀の日本最高の短篇と言われる『城の崎にて』『赤西蛎太(かきた)』『小僧の神様』『焚火(たきび)』(『范(はん)の犯罪』は1913年)。唯一の長篇『暗夜行路』の前篇と後篇の半分強、などがそうです。  

 1916年(大正5年)暮、親友の志賀直哉の誘いで我孫子に移り住んだ武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ 31)は、階級や特権のない自由で平等な共同生活を創りだすための構想を練り、1918年に『新しき村についての対話』を発表。たちまち300人以上の入村希望者が集まりましたが、危険思想の温床と中傷され、識者(しきしゃ)も柳と志賀を除いては皆が、夢想主義でしかなく失敗に終わると評しました。同年9月、「人類の意志を遂行するため」宮崎県日向(ひゅうが)に出発する実篤と入村者たちの盛大な送別会が我孫子の根戸(ねと)で開かれました。「村」はダム建設のため1939年に現在の埼玉県毛呂山(もろやま)町に場所を移し、苦難の末、創立40年にしてついに自活に成功し、その後も充実した活動を続けています。  

 柳の親切な勧めで、武者小路と同時期に我孫子にやって来たバ−ナ−ド・リ−チ(29)は、柳の家に寄宿し、庭に窯(かま)をつくりました。リ−チは西洋のエッチングを日本に初めて紹介した香港(ほんこん)生まれのイギリス人ですが、「東西文化の結婚」という夢のために尽力(じんりょく)します。不幸なことに1919年5月、柳邸に あったリ−チの作業場は全焼して貴重な資料が全て灰になってしまいます。失意のリ−チは6月イギリスに帰国しますが、晩年、「私の生涯で最も充実し思い出深く楽しかったのは我孫子時代であった」 と回顧(かいこ)しています。  

 彼らの創刊した『白樺』は幾度も美術特集号を出しましたが、彼らは美術史の知識からではなく、自分の目と体に直接響くものだけを評価したのです。ゴッホを日本に初めて紹介したのは武者小路であり、また「ムンク特集」を組んだりもしました。志賀は送られてきたアメリカの雑誌で見たロダンの彫刻に魅了されます。浮世絵を送ったところ、なんとロダンからお返しに彫刻三点が届けられましたが、これが日本に渡った最初のロダンの彫刻です。当時まだ欧米でも埋もれた存在だったセザンヌを日本に紹介したのも『白樺』です。  

 彼ら我孫子「白樺村」の面々は、精神的に自立した裸の〈個人〉でした。親から疎(うと)まれ、世間から白眼視(はくがんし)されても少しもひるむことなく、大胆(だいたん)に自己を肯定して生き、日本の 《人間開眼》とでも呼ぶべき新たな時代を切り開いたのです。さあ、彼らの息吹を吸おうではありませんか。ここは、創造の地なのです。

〔 2000年4月 武田康弘 〕

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